48 婚姻
急かすつもりはなかったが、実行するなら今夜しかない気がした。
どちらももうすぐこの山を離れるのだ。
彼女も散々悩んでグドンのところへ来たはずだから、もう少し時間が欲しい、ということもないように思えた。
むしろ、唐突な選択を迫られているのはグドンのほうだ。
とはいえ、彼にも準備するものなど何もなかった。肉体的な結びつきであれば、多少の躊躇いはあったろうが、精神的なものである以上、正直いって羞恥心さえ感じない。
元より、グドンが積極的に何かする必要はなさそうな気がした。ただ待ち、受け入れるだけだ。
事態があまりにとんとん拍子で進んでいることに、ボウは戸惑った様子だった。
だが、それも束の間で、すぐに平静さを取り戻し、グドンに近寄るとその手を握った。
「あなたは、何もしなくて大丈夫よ」
案の定、彼女はそう請け合った。
二人は並んで寝台に腰を下ろした。
「何も考えないで、できるだけ体の力を抜いて平常心を心掛けて。もし駄目だったら、一瞬で結果が出ると思う」
それだけ説明すると、さらに彼に顔を寄せ、二人の額と額をすり合わせた。本来なら、こんなことをする必要すらなかったが、仙族でないグドンには、このほうが心の繋がりを受け入れやすいと感じたのだ。
「始めるわ」
ボウに言われた瞬間、グドンは強い力で自分がどこか別の世界へ吸い込まれるのを感じた。
それはボウも同じだった。きっと、何も起こらない。半ばそう確信していたにもかかわらず、彼女は自分の心が解放されて、グドンを内へと受け入れたのを感じた。そして、さらに驚愕したことに、彼女自身もグドンの中へ招き入れられた。
魂と魂の結合とは、こういうことなの…?
彼女は婚姻が開始されたのを実感した。まったく初めての経験で、両親から聞いていたよりもずっと神秘的かつ神聖な感覚だった。
グドンが仙族ではなく半妖であることすらもう半ば忘れかけていた。
ボウは宇宙のような広大な空間を漂い始めた。
足下には、どこまでも果てしなく続く海原が見える。
ここは、魂が宿る霊府かしら? それとも、記憶や知性を司る脳海とか識海と呼ばれる場所?
どきどきしながら周りを見回し、彼女はそう呟く。
いずれにせよ、その空間はグドンの心そのものだとわかった。
心とはこれほど広大なものなのか。畏敬の思いが彼女の中に生まれ、その中へ自分を受け入れてくれたグドンに心から感謝した。
彼女は全身でグドンを享受した。
少しずつ少しずつ、グドンの記憶が、思いが、自分の中へ溶け込んでくる。
ボウはその度に笑い、怒り、悲しみ、彼と一体になった。
魂の結合は、肉体の結合の何倍もの快楽をもたらす、そう話していた両親の言葉が今、本当に実感できた気がした。
興奮、潤い、快楽…。
それは全身が痙攣するような喜びだった。自分の中でグドンの魂を感じるたび、さらに深く彼を受け入れたいと願う。
いっぽう、グドンのほうは不思議な経験をしていた。
婚姻は魂の結合で、肉体的なものではない、そう聞いていたにもかかわらず、今彼が見ているものは、現実の世界と何ら変わらない、そのままの彼女だった。
ただ、以前透視したときと同じように、彼女は何も衣服を着ておらず、肌を彼と密着させていた。もちろん、彼自身も裸だった。
これはどこまでが現実で、どこからが心の世界で起きていることなのか、グドンは混乱し躊躇した。
だが、ボウはそれを許してくれず、さらに奥へ奥へと侵入してくる。その際、グドンの一部がボウの中へが少しずつ溶け込んでいく。
グドン自身は彼女を瞬時に把握した。彼女が溶け込むというよりは、そのまま重なりあった感じだ。
すると、一瞬にして、彼女のすべてを感じることができた。
彼女の記憶、かつて何を感じ、何を考え、どう行動したか。知らないことは、たぶん、何一つない。
彼女が実年齢で十八歳だということも知った。
だが、想像していたのと違い、彼の心はどこか冷めた状態だった。
これが彼女の言っていた快楽だろうか?
別の個体と重なり、何一つ秘密を持てなくなるのに?
いっぽう、ボウはもう自分を止めることができなかった。
グドンのすべてを征服したい。心からそう願う。自分にこんな面があるとは、想像さえしなかった。
ほんの少しだけ、グドンが抵抗するのを感じた。それがまた彼女の心に火をつけた。
もっと奥へ、もっと深くへ。
静かに聞こえる波の音。
心地よさにもう自分を止められない…。
あら?
そのとき、何かおかしなものを見た気がして、彼女は動きを止めた。
グドンの中に決してあるはずのないもの…。
あれはいったい…?
ボウは息を止め、先ほど見たものにもう一度心の瞳を凝らした。
そして、背筋が凍り付いた。
「ぎゃっ!」
喉の奥から思わず悲鳴が漏れる。
身の毛がよだち、呼吸が苦しくなった。
あれは悪魔? しかも姿が醜く歪んで、悪魔自身苦しんでいるように見える。
魂の世界にいるはずなのに、呼吸が出来ず、彼女は激しく胸を上下させる。何とか息を吸おうとしたが駄目で、ゼイゼイいう異音だけが彼女の耳に届いた。
あれもグドンの一部なのだろうか? それとも、あれこそが彼の本性?
そう思ったとたん、恐怖と嫌悪でそれ以上耐え切れず、必死の思いで後ずさりした。
パチンと泡のはじける音がした。
突然、グドンは、ボウに突き飛ばされたような強い衝撃を感じた。
次の一瞬、二人は現実に戻っていた。
失敗した? 婚姻に失敗したのか…?
グドンは何となくそれを理解した。
目の前のボウは、顔が強張り、口元が痙攣している。
あなたのおぞましい姿を見た。今のわたしはあなたに嫌悪しか感じない。
ボウがそうした感情を必死に隠し取り繕おうとしているのがわかった。しかも、努力は成功していない。
グドンは何かが終わったのを感じた。それは自分と彼女の関係だろうか? それとも、二人で作るはずだった未来?
こうなった理由はもはや問題でない気がした。
「ごめんなさい」
それだけいうと、ボウは蒼ざめた顔のままぱっと姿を消した。
小屋にはグドンだけがぽつんと一人とり残された。




