39 虚淋酸
虚淋酸の池はいつもと同じように静まり返っていた。
普段ここへ来るのは、狩りがひと段落ついた昼頃ばかりだから、こんなに朝早く来るのは初めてだった。
ほんの束の間、ボウたちは何時ごろ沐浴をするのか、とそんな思いが脳裏をかすめた。確か、夜といっていた気がするが…。
いずれにせよ、今、池の周辺に仙族の姿は見えず、無人だった。
柔らかな晩秋の日差しを浴びて水面が輝いている。
透き通った水面下には、小さな魚の姿も見えた。それを考えても、池の水そのものに害があるとは思えなかった。
グドンは服を脱いで裸になると、空の瓶を手に水の中に入った。
水は思いのほか温かだった。
水中に潜ると、池の底のあちらこちらでブクブクと何かが噴出しているのが見える。
あれが虚淋酸を含む源泉の湧き出し口なのだろう…。
池の底に到達すると、瓶を逆さまにして中の空気を出してから源泉の出口を瓶で塞ぐようにした。どれほどの違いがあるかわからなかったが、少しでも濃度の高い虚淋酸を手に入れたかった。
一杯になったところで蓋をすると、急いで水面に浮きあがる。
岸に上がると、体が乾くのも待たず、水の入った瓶へ黄閃砂の粉末を注ぎ込んだ。
再び栓をして何度も撹拌させる。
想像どおりというか、瓶の中身には何の変化もなかった。黄閃砂と虚淋酸が再び分離されるようなことはない。
服を着ると、グドンは瓶を持って再び作業小屋へ戻った。
仙族の住処に戻ったタンタンは、グドンの伝言をボウに伝えるべきか迷った。
ボウとグドンの接近が仙族に不利に働く、と心配したからではなく、単純にグドンの自分に対する扱いが気に入らなかったからだ。
今は、ボウに嫌がらせしたい気持ちさえ湧いていた。
これじゃただの使い走りじゃなの。何か大事な話があるのなら、わたしに話せばいいのよ。あからさまにおまえじゃ役不足だなんて態度は失礼よ。
それでも、結局は、ボウに話すことにした。
万が一、話の内容が病に関するもので、その治療に齟齬が生じた場合、自分には責任の取りようがないからだ。
グドンからの伝言を聞いたボウは、すぐに表情を変えた。
それまでの塞ぎようが嘘のように消え、明るいとまではいかないが、ほんの少し生気が戻った様子だった。
実際、ボウは、見失いかけた命綱が再び指の先に触れた気がした。
彼女は無意識に鏡をのぞき込み、乱れてもいない髪を整えた。
その姿を目にしたタンタンはさらに苛々を募らせた。彼女の目には、ボウの姿がどこかいそいそしているように映ったからだ。
ボウにこんな面があるとは驚きだった。これじゃ、まるで恋する乙女、好きな男に会いに行く小娘みたいじゃないの。わたしの存在なんて完全に無視ね。
「あなた、本当にあの子に惹かれてるわけじゃないわよね?」
タンタンは最大限の皮肉を込めてボウに忠告した。
「惹かれているとしたら、何?」
平然といい返し鏡を見つめているボウに、タンタンは口を閉じ、それ以上喋る気を失った。
恋する少女は平気で親も親友も裏切り、好きな男の味方をする。今のボウはまさにそんな感じだった。いっぽう自分は、娘の初恋にオロオロする父親だ。裏切られたと嘆き、途方に暮れるばかり。こうした状況で、いくらボウを揶揄しようと、嫌われるだけで何ひとつ得はない。
黙ってボウが出ていくのを見送りながら、彼女は真面目な顔で小首を傾げた。
それにしても、あのグドンという青年のどこに、そんな魅力があるのだろうか?
作業小屋に戻ったグドンは、休むことなく黄閃砂から虚淋酸を再分離する作業を進めた。そのために、放置されていたガラクタをもっと集めた。
元々分離に使っていた装置は大きすぎるから、有り合わせの物で改めて作り直すことになった。そこへ黄閃砂の粉末が入った池の水を注ぎ込み火にかける。
次第に溶液の温度が上がり、最後に沸騰した。
だが、望むような結果は得られなかった。
黄閃砂と虚淋酸が再分離する様子はない。
それでも、グドンは失望しなった。これはある意味、当然の結果だった。熱することで虚淋酸と結合した黄閃砂が、再び熱することで再分離するはずがない。
だが、わかっていても、試してみないわけにはいかなかった。可能性のあることは何でも試す。駄目だったら、それを候補から外せばよい。いわば消去法だ。
では、次は何を試すか?
残念ながら、次にやるべきことは、誰かの手助けがないと実行できそうになかった。
「グドン、わたしのことを呼んだ?」
どうしようか迷っていると、グドンの背後で女性の声がした。
振り返るとボウがいた。
彼女の顔は少し窶れて見え、今はその窶れた顔に無理に笑みを浮かべようとしている。その姿は、痛々しいと表現してもよかった。
「大事な話があると聞いたけど…」
「うん。どこかに腰を下ろして話をしよう」
グドンは黄閃砂の山から少しでも距離を取りたくて、ボウを自分の小屋へ誘った。
彼女は緊張した面持ちながらも言われるがままについてくる。
住居にしているといっても、小屋の中には何もなかった。むしろ、ガラクタをすべて放り出したからガランとしている。
もちろん、お茶が出せるわけでもなかった。だが、そんなことはどちらも気にしなかった。
彼女が粗末な椅子に座るのを待って、
「病の原因が分かった気がする」
と、グドンは単刀直入に切り出した。
それは彼女が思いもしなかった内容だったらしく、一瞬体を強張らせ息をのむ気配がした。
結局、グドンは黄閃砂の話をすぐボウへ話すことに決めた。
自分の行うこどもだましの実験では、解決法を見つけるのは難しいと観念したためだ。
「そ、それは、病が治せるかもしれないということ?」
彼女が見せた期待に、グドンは苦しそうに首を振った。
「違うんだ。治療法はわからない。だから、何の役にも立たないかもしれない。それでも、ボウに話したのは、仙族の皆にすぐこの山を離れてほしいからだ」
ボウは無意識に体を乗り出していた。
緊張と同時に、今すぐにもゲゲたちを呼んで一緒に話を聞くべきではないか、そんな思いが頭を掠めた。
グドンは、黄閃砂が虚淋酸と結びつくと何らかの変化を起こすこと、さらに、それが仙族の体に吸収され、今の病の病原となっていると説明した。
恐らく坑道の入口に積まれた廃棄物がその元凶だということも。
「黄閃砂の山…」
ボウは恐れるように、山と積まれた廃棄物の方向へ視線を向ける。
昨夜、グドンが呟いていたのはこのことか…。
「ここからはおいらの憶測になるけど、仙族は変質した黄閃砂から精気を吸収しているんだと思う。でも、何らかの理由で、不純物である黄閃砂そのものまで取り込んでしまう。それが栄養には置き換わらず、体内に残って蓄積される。きっとあなたたちの内臓や脳に溜まっている黒い影は変質した黄閃砂だ。一つ一つは極めて小さなものだし、精気は万物から吸収しているから症状が表れるまでには何年もかかる」
「そこまでわかっているなら、治療法も見つかるはずじゃ…」
ボウが急き込むように言う。
「いや、残念だけど、今のおいらには何もできない。だけど、ゲゲやマキたちに知恵を借りれば、何かいい方法が思い浮かぶかもしれない。ボウに話したのは、一人の力より、大ぜいで一緒に考えたほうがきっと効果が上がる、と思ったからでもあるんだ」
先刻、作業小屋でグドンがやっていたのも治療法を見つけるための実験に違いない、とボウは推測した。グドンは彼なりに仙族の力になろうと一生懸命なのだ。
彼女はしばらく黙考したのち、何度か小さく首を振った。
「このことをゲゲたちに話すのは危険かもしれない」




