197 脳海の進化
グドンの体から抜け出したボウは、激痛に顔を歪めたまま周囲を見回した。
グドンの反撃を受けたとき、ドミアールの悲鳴が聞こえた気がした。
当時、ドミアールは彼女の体に触れており、ボウを通してグドンへダメージを与える作業をしていた。それゆえ、グドンの反撃はボウの体を通し、最終的にドミアールに達することになった。被害としては、ボウよりも、最終的な攻撃目標となったドミアールのほうが大きかったはずだ。
彼女が心配した通り、ドミアールはグドンの寝台脇の床に倒れ気を失っていた。
表面上、大きな怪我をしていないように見えるが、脳や心臓に酷い損傷を受けている可能性もあった。
彼女はドミアールの体を抱き上げると、昨夜自分が眠った寝台にそっと横たわらせた。
手際よく、ドミアールの怪我の状態を調べていく。
見たところ体に目立った損傷はない。心臓も正確な鼓動をうち続けていた。
ボウはいったんその場を離れると、隣室から薬液の入った小瓶を手に戻ってきた。脳の損傷を抑えるためにドミアール自身が開発した薬だ。たとえ損傷がなくとも、副作用はほとんどないから安心して飲ませることが出来る。
万が一のため飲ませて様子を見ることにした。
口をあけさせ、薬液を流し込むと、何か所かツボを押して液体が自然に喉を流れ落ち、胃の中で吸収されるのを待つ。
あとは無用な刺激を与えず効果を見守るだけだ。
ドミアールに対する治療を終え、一息つくと、自然と隣りで眠るグドンの姿が視界に入った。
湧き起こる憤りをどうにも抑えられず、グドンに歩み寄ると思わず手を振り上げる。ジュウイツの体を傷つけることは出来なくとも、何らかの形でグドンに苦痛を与えないではいられなかった。
ほんの一瞬、これは本当の自分だろうかと疑う気持ちが湧いたが、激しい怒りがそうした思いをすぐに駆逐すると、躊躇いはあっという間に彼女の心から消え去った。
グドンの腕を掴んでいた彼女の右腕は、魂の世界でのように焼け焦げてはいなかったが、今も鈍い痛みで震えている。その震える拳でグドンを殴打したくて仕方がない。それでも、この肉体はグドンのものである以上にジュウイツのものだ、と思い出すことで、そうした衝動を何とか抑えようとした。
なぜ、この青年がこれほど憎いのかわからなかった。
憎い、憎い、わたしからジュウイツ様を奪ったおまえが憎い!
気が付くと、ボウは掌で何度もグドンの頬を叩いていた。
「グドン、あなたが憎い! あなたがこの世からいなくなればいい! おまえのような悪魔はこの世から今すぐいなくなればいいのよ!」
グドン頬が赤く腫れ始めても自分を止められず、暴力を振るういっぽうで、その瞳から涙が滂沱と流れ出していた。
なぜ、泣いているのか自分でもわからなかった。誰を愛し、誰を憎んでいるのかももうわからない。
彼女は誰かに腕を掴まれ、ようやくグドンを叩く動作を止めた。
振り向くと、ドミアールが寝台から下りて隣りに立ち、彼女の腕を掴んでいた。
ボウが視線の定まらない目を向けると、ドミアールは無言で首を横に振った。
「そんなことをしても役に立たないわ」
「でも、わたし、グドンが憎いんです。グドンが憎い!」
「大丈夫よ。いつかきっとジュウイツは助け出せる。わたしやあなたがこれほど愛しているんですもの。絶対に道は見つかるはず。神様は善人を見捨てないはずよ」
ボウはドミアールの胸に飛び込むと、こどものように泣きじゃくった。
そんな彼女たちの様子をグドンは呆然と眺めていた。誰かが今のグドンを見たら、彼が又愚鈍なこどもに戻ったと勘違いしたろう。それほど今のグドンは生気を失いぼんやりしていた。
グドンが憎い、そういったボウの言葉が今も胸に刺さっている。
おいらはもう生きていたくない。これが幻覚だろうと、現実だろうと、もうこれ以上、こんな拷問を受け続けるのはこりごりだ!
だが、心の中で湧きおこったのは諦めによる静逸ではなく、激動といってよいほどの憤怒だった。
次の瞬間、彼は自分の脳内で何かが変化したのを感じた。
いや、脳内の何かというより、脳そのものが変化したといったほうがよい。それまでよりも脳海が広がり、その世界の持つ力が格段に強まった。
グドンはセイイツの姿を探し求め、周囲に自分の精気を解き放った。
そうだ。今のグドンは己の精気を自分の外へ向かって放つことが出来た。
それははじめほんの数メートルほどの範囲に限られていたが、やがては数十メートルにまで広がり、辺りを覆いつくした。
精気はまるでグドン自身であるかのようにセイイツの姿を探し求めて彷徨う。
だが、残念ながらセイイツは見つからない。
待っていろ、セイイツ。おいらは必ずおまえを探し出して制裁を加えてやる。
そして、この幻覚を、この現実を終わりにするんだ。
それから来る日も来る日も、ジュウイツに対する治療とグドンに対する虐待の毎日が続いた。
少なくとも、グドンが今の幻覚を見るようになって以降、脳内のグドンの影は確実に小さくなっていった。
それはまさに、病に侵された細胞を薬で小さくしていく作業、行程と同じだった。最終的には、小さくした病細胞を外科的に切除することを目標とする。
ドミアールとボウも着実に成果が上がっていることに大きな喜びを感じていた。
ところが、そんな状態がしばらく続いたのち、突如、状況は逆転し始めた。グドンの影が縮小するどころか拡大し、その力を強め始めたのだ。影は拡大するに従い色が濃くなり、ジュウイツの体に対する影響も大きくなった。やがては体がグドンにより占拠されてしまうのではないか、ドミアールたちがそう心配するほどの勢いだった。
逆転は、グドンの脳が大きく進化し始めたときと時期を同じくしていた。
彼は精神の力を体外へと拡散しセイイツを探し求めた。その範囲は徐々に拡大し、今は半径百メートルほどにも及んでいる。
その範囲にいるものであれば、生命体であろうとなかろうと、視認しているのと同様、はっきりと姿形を捉えることができ、生物であれば、その脳細胞に攻撃を加えることも可能だった。
こうしたグドンの進化に際して、格好の実験台となったのがドミアールとボウだ。
彼は実際、二人の脳に攻撃を仕掛け怪我を負わせた。その気があったなら、殺すことも可能だったかもしれない。そうしなかったのは、これがしょせんは幻覚に過ぎないと気付いていたからだ。倒すべき真の敵はセイイツであって、幻覚ではない。グドンの目標は、あくまでも実物のセイイツだった。
このころのグドンは、セイイツがなぜこんなことをするのか、いくつかの仮説をたてていた。
一つ目は、ジュウイツに対し同情を抱かせようというもの。
今のグドンは、まさにかつてのジュウイツの立場にいる。立場が変われば、誰しも考え方も変わる。誰にも愛されず抹殺されようとしているジュウイツの悲哀を彼に実感させ、情けをかけさせようとしている、といえばよいか。
だが、もしセイイツの狙いが本当にそこにあるなら、グドンにとっては噴飯ものもいいところだった。仮に自分が無辜の相手を何人も手にかけたとするなら、殺されて当然、一刻も早くこの世から消え去るべきだと考えるからだ。それがジュウイツでも自分でも、グドンにとっては何の違いもない。
二つ目は、こうした極限状態に置くことで、グドンの能力を急速に向上させる手助けをしているのではないか、というものだ。それにより、ドミアールに対抗する力をつけさせる。
実際、ここ数日のグドンは、脳海が肥大し驚異的な力を持つようになった。このまま訓練を続ければ、ドミアールを打ち負かすことも可能になるだろう。
三つ目は、自分の力で脳内のジュウイツを抹殺できるよう、グドンにその方法を手ほどきしている、というものだ。
ドミアールは今、ジュウイツの脳内にいるグドンを抹殺しようと躍起になっている。それは、とりもなおさず、グドンがジュウイツを抹殺する方法を探すのと同じことだった。ドミアールが彼に行っている方法に学び、ジュウイツに施術すれば、セイイツの力を借りずとも自分で問題解決できるかもしれない。
この三つの仮説は、どれもがもっともらしくまた説得力があった。だが、この三つの仮説どれも、グドンのセイイツに対する憤りを抑える役には立たなかった。グドンには、どれもただの屁理屈でしかなく、グドン自身やボウに苦しみを与える正当な理由とはなりえなかった。




