196 ジュウイツが死ななかった世界
恥ずかし気に髪を直しながら、ボウは寝台から下りてドミアールの傍らに立った。
「すみません。少し横になって休むつもりが、いつの間にか眠ってしまって」
とんでもない誤りを犯したというように、ボウが平身低頭する。その態度には、単なるドミアールの部下としての遜りというより、相手に対する強い畏怖と敬意が感じられた。
「いいのよ」
親し気な笑みを浮かべ、ドミアールは軽くボウの腕に触れる。
「疲れているのは皆同じだから。あなたも、たまには自宅へ戻ってちゃんと休みをとるべきね。すべて長い目で考えないと、緊張感を持ち続けるのは難しいわ。治療にはずっと進展が見られないわけだしね」
治療? 今の二人は、おいらに治療を行う治療師とその弟子という関係だろうか?
グドンがそう思ったとき、ボウの眉間に皴が寄った。
「グドンの影さえなくなれば、坊ちゃんは、自然に目覚めるはずなんです」
ボウの口調には、彼がこれまでに聞いたのことのない辛辣さが滲んでいた。今の彼女はグドンという生き物を心底憎んでいるように思える。そして、坊ちゃんと呼んだ時の彼女の声には、治療師や治療師の弟子としてでなく、一人の女性としての仄かな恋心が感じられた。
これはつまり、今寝台で眠っているのはグドンでなくジュウイツということだろうか? そして、ドミアールとボウはジュウイツをこん睡状態から助け出そうとしている設定? その邪魔をしているのが、ジュウイツの体に潜んでいるおいらの影…?
恐らくそういうことなのだろう、とグドンは他人事のように考えた。
「これもジュウイツが自ら望んだことよ。それを誇りに思わなければいけないわ」
ドミアールが母親としての愛情のこもった声で言う。
「グドンの邪悪な心は軽視できない。もし、ジュウイツが今も覚醒した状態だったなら、少なからずその影響を受けて、誤った行動をとったはず。実際にそうなりかけたでしょ? グドンを完全に封じるには、今のように自分をこん睡状態に追い込むしかなかったのよ」
ボウも胸を大きく上下させ、何とか感情を抑えようとするが、我慢が出来ずに呻くような声を出す。
「悔しいのは、グドンだけをこの世から抹殺するのが難しいことです。どうやっても、ジュウイツ様まで傷つけてしまう」
「諦めるのはまだ早いわ。少しずつでも成果は出ている。あなたも、ジュウイツと繋がったとき、グドンの影が薄くなっているのを感じたと言ったでしょ? このまま治療を続けて、グドンの影が極限まで小さくなれば、少し荒療治にはなるけど、ジュウイツの一部を切り取ることで、彼を完全に抹殺することも可能かもしれない」
ジュウイツの一部を切り取るという言葉に、ボウは心臓を錐で刺されたような痛みを感じたようだ。一瞬彼女の顔が大きく歪んだ。
「もう少しなんです。グドンを騙して、わたしが愛していると信じ込ませることができれば、身を潜めているところから出てきて、完全にわたしと繋がるかもしれない。その時を逃さず、わたしの一部もろ共破壊すれば…」
「それじゃ、ジュウイツを傷つけるのと同じじゃないの」
ボウの献身に感謝しながらも、ドミアールは彼女の言葉を途中で遮った。
「ジュウイツは決してそんなことは望まない。本当に優しい子だから」
「坊ちゃんは、心が美しすぎるんです。何事も、他人の身になって考えてしまう。それに引き換え、どうしてこの世には、グドンのような邪悪な心が存在するのか…」
ボウは繰り言のように呟いてから、
「セイイツ様は何と仰ってるんですか? あの方なら、グドンを抹殺することなど造作もないはずなのに」
今度はドミアールが溜息をつく。
「あの人にはまだユウナギ(夕凪)に対する思いが残っているのよ。グドンは自分とユウナギの間に生まれた子。どれほどグドンが邪悪だろうと、自ら手をかけるのは忍びないのね」
「ふん、あんな売春婦! ドミアール様もあんな汚らしい女を名前で呼ぶ必要はないんです。売女とか売春婦で十分。セイイツ様の唯一の欠点がそこです。売女を好きになったのは仕方ないとしても、いつまでも未練がましく、悪魔のような子にまで情けをかけるなんて」
「ボウ!」
ドミアールがはじめて叱責すると、ボウは体を震わせ、慌てて頭を下げた。
「すみません。わたしのような下賎の者が偉そうなことを…」
話を打ち切るように手を振ると、ドミアールは改めて寝台のグドンを見下ろした。
「治療を始めましょ。今は少しずつでもグドンの影を薄くする努力をすることよ。そのためには、あなたの力が必要なの。わかるわよね、ボウ」
ボウは感激したように頷き、自分もグドンの体に向き直った。
「さあ、外へ出てきなさい。汚い女から生まれた邪悪な子。隠れてないで、わたしを信じて顔を見せなさい。そして、この世から消えてしまうのよ」
彼女は寝台のグドンの上へ屈みこみ、その唇に自分の唇を重ねた。
こうした一部始終を目の当たりにしていたグドンはまさに呆然自失としていた。頭の中はまさに空白で、ただの幻覚に過ぎないとわかっていながら、心の痛みを堪えることが出来なかった。
もし仮に、今の自分の姿をつぶさに観察していたら、目じりに薄っすらと涙が滲んでいるのが見えたろう。
先ほど自分に投げかけられた言葉が、ボウの口から発せられたものとは、とうてい信じられなかった。あれは幻覚の中の彼女の発言であり、本物ではない。そう心ではわかっていても、抑えきれない悲しみと絶望感に心が苛まれた。
グドンは自分の中に、ボウが侵入してくるのを感じた。
必死で彼と繋がろうとしているボウは、優しく、労わりに満ちたいつもの彼女だった。いっさいの穢れのない笑顔で、グドンの心と繋がり、彼を求めようとしている。だが、それがすべてまやかしで本心でないことを、今のグドンは知っていた。
もしかして…、とグドンの脳裏を恐ろしい考えがよぎった。
これは幻覚ではなく、こちらのほうが真実で、これまで信じていたものこそ幻覚だったのではないだろうか?
実際は、ボウが愛しているのはジュウイツで、彼の脳から自分を追い出すために、偽りの愛でおいらを誘惑し騙そうとしていた…。
そういえば、これまでの自分は、口では偉そうなことをいいながら、何人もの妖族を殺し、蟻巣島の人族を死に至らしめた。自分に力は必要ないといいながら、いつも力に頼っていた。元々、自分は、そうした傲慢さや邪悪な心を持った悪魔的存在なのではないか?
もしそうなら、そんな自分をどうしてボウが愛するはずがあるだろう?
これまで信じていたすべては単なる自分の思い込みであり、本当は自分こそ今すぐこの世から消え去るべき存在ではないのか? そして、それをボウは何よりも望んでいる…。
グドンはそれを否定しようとしたが、否定しようとすればするほど不安が心の中で広がった。
そうした心の隙間を見透かしたように、笑顔のボウが近づいてくる。
「グドン、あなたはわたしを忘れてしまったの? 渉不城での出会い、天妖都で過ごした日々、二人での忘れられない夜…。あなたにはもうわたしは必要ないの?」
グドンは隠れていた場所からほんの少しだけ顔を覗かせた。
とたんに、ボウの顔に嫌悪の表情が浮かぶ。それはほんの一瞬のことだったが、グドンの目を誤魔化すことは出来なかった。
身の毛もよだつと表現すればよいか。彼女の背筋に悪寒が走り、全身に鳥肌が立っているのが、グドンにもわかった。
ジュウイツの影をはじめて見たとき、彼女が感じた嫌悪感はまさにこうしたものだったのではないか?
だが、そうした嫌悪感はすぐに消え、代わっていつもの優しい笑顔が浮かび上がる。
グドンは我慢できずに隠れ家を離れ、自らボウへ近づいた。
彼女の肌に、その優しさに触れたかったからではない。ドミアールとの会話の中で、ボウが売女とか売春婦という言葉を連呼し、自分を悪魔と呼んだときから、彼女に対する思いは急激に冷えていた。少なくとも、この幻覚の中にあって、ボウに対する愛情は完全に消え去っていたといってよい。それでも、彼女に近づいたのは、もうこんな幻覚を一刻も早く終わらせたいと思ったからだ。
彼女と自分が完全に繋がり、一つになったとき、この世界のグドンは消滅する。そんな気がしたのだ。そして、その刹那、きっとこの幻覚も終了する。
彼は決して楽観的にそう夢想していたわけではない。
ひょっとすると、今が現実で、ボウと愛し合った世界が幻想にすぎない可能性もあった。だが、それならそれで構わなかった。
自分が本当に邪悪な存在で、ボウからはもちろん誰にも愛されない存在であるなら、このまま消え去ってもいい、そう痛切に感じたのだ。ボウが引導を渡してくれれば、それ以上望むものは何もなかった。
グドンはさらにボウへ近づく。
ボウ自身は気づかなかったろうが、その一瞬、彼女の顔が陰険なほくそ笑みで歪むのがグドンにはわかった。
思わずグドンは顔を背ける。こんな表情をするボウをどんな形であれ見たくはなかった。もし仮に、これがセイイツのつくり出した幻覚なら、どれほど彼を憎んでも憎み切れない気がした。
やはりセイイツは究極のわがまま男だ。どんな目的があるにせよ、他人の心を弄ぶことなど許されるはずもないのに…。自分の中のジュウイツがボウとリンタロウに奇妙な夢を見させたのも、同じ発想だったのかもしれない。まさにこの親にしてこの子あり、だ。
だが、それも今はもうどうでもよい気がした。もうすぐ終わりのときが来る。
ついに、グドンの手がボウと触れ合った。
その一瞬を捕え、ボウの掌が彼の腕をがっちりと掴む。
「アハハハ…」
あまりの歓喜の大きさに自分を制御できず、ボウの口元から狂笑ともいえる声が漏れた。
死んでもこの手を放さない。彼女の顔にはそんな決意が漲っていた。
グドンは無抵抗に彼女のするがままに任せた。これが真実でもまやかしでもどうでもよかった。ボウ、きみと知り合えておいらは幸せだった…。
次の瞬間、グドンの体に鋭い痛みが走った。
それはボウの力によるものではなく、誰か別の者の力、恐らくはドミアールによる力によってもたらされたものと思われた。
激痛と同時に、自分の体の一部が霧のように消え去るのを感じる。
グドンの影がほんの少し色を薄めたように見えた。
この世から自分が消える時間が近づきつつある。それを他人事のように感じながら、グドンは最期の時をじっと待った。
しかし、事態は彼が思うようには進まなかった。
グドンが死を迎え入れようとした瞬間、己の肉体から湧き上がる何か大きな力が、彼の腕を掴んでいたボウを体ごと跳ね飛ばした。
同時に、どこかで、ぎゃっという誰かの悲鳴が聞こえた。
それはボウのものではなく、ドミアールの声に似ていた。陰からグドンに施術を加えていたドミアールがグドンの反撃に遭い、傷を負ったのだ。
ボウはといえば、魂が繋がったまま呆然とした顔でその場に佇んでいる。その腕は黒く焼け焦げ、今にも肩から捥げ落ちそうになっていた。
その頃になって、彼女もようやく激痛を感じ始めたようだ。
「い、痛い! 痛くて耐えられない…」
恐怖に顔を張りつかせ後ずさりすると、次の瞬間には踝を返し、脱兎のごとくグドンの世界から逃げ出していく。
滑稽にもグドンはそんな彼女を引き留めようとしたが、もちろん、彼女にはそんな気も、余裕もなかった。
一瞬にしてあたりは静寂に支配され、その中でグドンはポツリと一人取り残された。
今、何が起こったのか自分でもまったく理解できなかった。恐らくは最後の最後になって、生に対する己の渇望が勝手に抵抗、反撃したのだろうと思われた。
おいらは、こんな状況でもまだ生きたいと思っているのだろうか? 悪魔のような存在と毛嫌いされ、ボウの愛を失った今の状況下にあっても?
想像すらしなかった現実を、彼は何とも複雑な思いで受け止めた。
きっと、自分が今こうした状態にあるのは何か理由があるんだ。グドンはせめてそう考えることにした。セイイツには何か目的があって、こうした幻覚を見せている。その目的が達せられるまで、おいらはこの幻覚の中から抜け出せない。
もしかすると、ボウとドミアールに対する攻撃も自分ではなくセイイツが行ったものかもしれないという気がした。
肝心なのは、セイイツがグドンを含めた三人になぜこうした幻覚を見せているか、だ。
彼の目的はいったい何だろう?
グドンはじっと考えた。




