195 再び幻覚の世界へ
湖の中央で揺蕩う小船に下りたとき、セイイツとドミアールがまだ船の中にいるかどうか、グドンは半信半疑だった。
それはセイイツの思惑がまだよく理解できていないためでもあった。セイイツが本心から自分にドミアールを殺させようとしているとは、どうしても信じられなかったのだ。
だから、船倉からセイイツが姿を現したときは正直驚いた。
(渉不城のことは全部片がついたのか?)
グドンの反応にはかまわず、セイイツは無表情のまま尋ねた。片がついたのなら次の仕事場へ移動するぞ。まるでそんな口調だった。
「ドミアールは船倉?」
(そうだ。おまえのほうも準備が整ったのなら…)
さらに何か言おうとするセイイツを、グドンが手を挙げて制した。
「あなたは、渉不城でのことに片がつくころには、ドミアールとやり合う力がついているとおいらに仄めかしたけど、正直いって、まったくそんな自信がない」
(自信がない? それは怖気づいたということか?)
「怖気づいてはいないけど、あなたの考えがさっぱりわからないんだ。こんなところまでドミアールを連れ出して、おいらと対決させようとする理由は何? 彼女においらを殺させるつもりなら、渉不城で待ち伏せしている彼女を放っておけばよかったのに」
(それでは時間が足りない)
とセイイツ。
「だから、一晩で、彼女と互角に戦う力なんてつかないよ。おいらは昨日までのおいらと何も変わっていない」
(何の話だ?)
セイイツの眉間に深い皴が寄る。御託を並べるグドンに我慢の限界がきているといった表情だ。
「一晩だけじゃ、時間は足りないままだよ。あなたの言っていることと矛盾するでしょ? 一日だけ時間をくれても意味がないよ」
やっとグドンの誤解に気づいた様子で、セイイツは舌を鳴らした。
(誰がおまえに時間の猶予をやると言った?)
「え? あなたがそう仄めかしたでしょ?」
思わずグドンがボウに救いを求めると、彼女もはっきり頷いて見せた。
(時間が必要だと仄めかしたとしたら、それはおまえのためじゃない。わたしとドミアールにとって必要なのだ)
「あなた方に?」
わけがわからなくなったグドンは、さらに質問しようと口を開きかけた。しかし、セイイツは邪険に手を振り、
(もう黙れ。黙って見ていればすぐにわかる)
見る? いったい何を?
そう思った瞬間、グドンは脳天に激しい痛みを感じてその場に昏倒した。
何が起きたかわからず、血の気の引いた顔で倒れたグドンとセイイツを見比べていたボウは、やっと我に返り、グドンを助け起こそうと跪く。そのとき、やはり脳天に激しい衝撃を受け、グドンと折り重なるように頽れた。
それを見届けると、セイイツは何事も起こらなかった顔で天を見上げた。
その合図を待っていたように、小船は水面を離れてぽかりと宙に浮かび上がり、やがて、凄い速度で湖の反対側へと飛翔し始めた。
小船があまりに低空を飛んだため、湖面が風圧で左右に裂け、そこが小船専用に穿たれた通路のように見えた。船首に立ったセイイツは自分にかかる飛沫をものともせず、じっと前方を睨んでいる。
グドンたちを連れ、彼はいったいどこへ行くのか?
湖の端に差し掛かったとき、小船がこの世からパッと消滅した。
それはグドンの使う瞬間移動とそっくりに見えた。だが、今回は、セイイツ自身だけでなく、小船もろ共消え去った。
湖は、しばらくの間、小船が残した波のうねりが端へ端へと続いていたが、やがて、それも収まると、何事もなかったようにまた、ひっそりと静まり返った。
目を覚ましたとき、グドンは寝台の上に寝かされていた。
正確に表現するなら、寝台ではなく病床と呼ぶべきかもしれない。なぜなら、意識は戻ったものの、このときのグドンはピクリとも体を動かせなかったからだ。
まるで全身不随に陥った病人のようだった。
もちろん、目も瞑ったままで、口も開けないから言葉を発することもできない。いわば植物状態で意識だけが戻った状態だった。
これは間違いなく、湖の小船で脳天に強い衝撃を受けたせいに違いなかった。
今となっては、セイイツがドミアールに敵対する側で、自分の味方なのではないかと心のどこかで考えていた自分が、グドンには何とも滑稽に思えた。
それはともかく、なぜ、セイイツはこんな手の込んだ真似をして自分を拘束状態に置いたのだろうか? グドンはそれが不思議だった。ドミアール同様、ジュウイツを蘇らせることが目的なのか?
意識を失う直前、セイイツは時間が必要だと言った。といことは、ジュウイツに体を取り戻させ、完全に復活させるためには、まだその準備が整っていないということか? こうして自分を捕えたのも、その準備の一環なのか? だが、それなら、グドンを渉不城へ行かせた理由はどこにあったのだろう?
船でグドンの帰りを待つことなく、最初に湖の小船で会った際、その場で拘束してしまえばよかったではないか? ドミアールまで捕え、船に拘束しておく手間暇をかける必要などどこにもない。
そこまで考えたグドンは、それよりもっとずっと大事なことがあると気づいて、心中、あっと声を上げた。
そうだ。ボウのことを忘れていた。
自分が気絶したあと、セイイツは彼女をどうしたろうか? 親切に湖の対岸へ送り届けてくれたとはとても思えない。
思わず辺りを見回し、彼女の姿を探そうとした。
そして、グドンは驚愕した。驚いた衝撃で、動けないはずの体が飛び上がったのではないかと思えたほどだった。
目を閉じたままで、何も見えず暗闇の中にいるはずの自分に、周囲の状況がはっきり見えたのだ。
周囲だけでなく、寝台に寝かされている自分の姿までがはっきり見える。そして、彼の寝台から三メートルほど離れたところには、寝台がもう一つ置かれ、その上にやはり意識不明と思えるボウが寝かされていた。
室内はまさに治療師の使う施術室のようだった。
このとき、グドンはある一つの可能性に思い至った。
おいらはひょっとしてもう死んでいるんじゃないだろうか? 死んで霊となり宙に浮かんでいる。死者がそうして空中から自分の遺骸を見下ろす場面を、彼は書籍の挿絵か何かで見たことがあった。今の自分がそうした状況にあると考えれば、何もかも辻褄があった。
だが、奇妙なのは、そのいっぽうで、自分はまだ死んでいないという感覚が強くあったことだ。
周囲の状況はつぶさに観察できるが、自分が宙に浮かんでいるという感覚はなく、あくまで本体は、寝台上の肉体の中にある気がする。身動きは出来ないが、寝かされている寝台を背中で感じることも出来た。
いうならば、身動きできない自分の肉体に、誰かが周囲の様子を想念として送り込んでいる状況といえばよいか。
そして、そんなことができるのは、やはりセイイツ以外にいなかった。
グドンの想像通りなら、ボウの置かれている状況も同じなはずだ。問題は、セイイツがなぜこんなことをするのかだ。
だが、いくら考えても結論は出ず、とりあえずは、事の推移を見守るしかないのかと思いかけたとき、室内に誰かが入ってきた。
妙齢の非常に美しい女性だが、グドンははじめ、それが誰だかわからなかった。その姿が彼の持っていたイメージとあまりにもかけ離れていたからだ。
それはドミアールだった。しかし、今の彼女は、ボウがいっていたような異常者の雰囲気はなく、ごく普通の、化粧っけのまったくない、素顔のままの素朴な感じの女性に見えた。着衣も活動的な作りでいっさいの装飾がなく、汚れたらすぐ廃棄できるような安い素材でできている。いわば使い捨ての作業衣だ。
これが医修であるドミアールの本来の姿なのではないか、グドンにはなぜかそんな気がした。もしかすると、セイイツが愛したころの彼女は、治療に情熱を注ぐこうした素朴な感じの女性だったのかもしれない。
だが、過去はどうだったにせよ、今の実際の彼女はそれとはかけ離れた存在のはずだった。それがなぜ、こうした形で自分の目の前に現れているのか?
これが現実だとは、とうてい考えられなかった。
グドンが出した結論は、今自分が見ているものはすべて幻覚に過ぎないというものだった。しかも、これはボウやリンタロウが話していた複数人で共有できる幻覚に違いない。
蟻巣島での幻覚の中で、ボウとリンタロウはいわば同じ一つの舞台に立っていた。今グドンが見ている幻覚もきっとそれと同じで、自分やボウだけでなくドミアールも同じ経験をしているに違いない。
さらに、ボウの経験に沿って考えるなら、グドンを含め全員が本来の自分とは違う別人格になっているはずだ。幻覚の中でボウとリンタロウは愛し合っていたし、肉体的な欲求を止められなかった。だが、そのいっぽうで、それが本来の自分とは違うという認識もあったようだ。つまり、本来の自分と幻覚の中の別人格が混在している状態ということになる。
ボウはリンタロウを愛していないが、愛しているといってしまう。肉体の欲望を拒絶したいと思っても、それができず溺れてしまう。もし今のグドンも同じなら、言動が本来の思いと大きくずれている可能性もあった。だが、幸か不幸か、今のグドンは身動きできないし、喋ることも叶わない。そういう意味では、内心と言動が一致しない心配はなかった。
そこまで考えたグドンは、幻覚の中で、自分が今どんな役を演じているのかとても気になった。
幻覚の中で、寝台に寝かされている理由は、セイイツに攻撃を受けたからではないはずだ。それなら、どんな理由で、いつからここに横たわっている設定なのか? さらに、ドミアールとボウはどんな役柄なのか? 性格は? グドンとの関係は?
しかし、突然、そうしたグドンの妄想は打ち切られることになった。
ドミアールの入室による物音のせいか、ボウが目を覚まし寝台で上半身を起こしたからだ。
あ! ボウはおいらと同じじゃない。身動きができなくて寝台に横たわっていたわけじゃない。ただ眠っていただけなんだ。
グドンの予想は、こうしてあっさり裏切られることになった。




