194 別れ
外へ出ると、辺りは暗闇に包まれていた。
普通に考えれば、まだ夜が明けていないから、それほどの時間は経っていないように思える。もちろん、今がボウと別れた日の夜ではなく、翌日とか、翌々日の夜であるなら話は別だ。
だが、グドンはそうではない気がした。いや、そう思いたかっただけかもしれない。
思いあぐねていても仕方ないから、一度、ソウエイの小屋へ戻ることにした。
闇の中であっても、空を飛ぶことは、彼にとって丁度良い運動になった。
ソウエイの小屋の上空へ来たとき、辺りはグドンが離れたときと何も変わっておらず、ひっそりと静まり返っていた。
グドンが目を凝らすと、壁や屋根が透明になり、中で寝息を立てているボウの姿が見えた。
仮に、すでに何日も時間が過ぎているとすれば、ボウは混乱状態で、とてもゆっくり眠っている余裕などないだろう。
安心したグドンは、再び鉱山へ戻った。
戻ってからは、また、時を遡る訓練に没頭した。
何度か成功し、それ以上に何度も失敗した。悲しいのは、数少ない成功のあとも、必ず気を失ってしまったことだ。
こんなことを繰り返していて本当に能力が身につくんだろうか?
少なくともこの日の夜において、彼には、自分の能力が向上している感覚がなかった。
それでもただ一つ発見があった。それは馬車で見た夢の中でのことだ。眠りから覚めたばかりのボウが彼を睨むようにして、ひとの寝顔をこっそり盗み見するのは失礼よと言った。あのとき、グドンはその瞬間に強く引き込まれる感覚を抱いた。
だが、考えてみると、夢を見たのは渉不城近くの湖畔だから、馬車で移動していたときからすでにかなりの時間がたっていたはずなのだ。それなら本来、ああした反応が起こるはずはない。
もちろん、あれはただの夢で、今行っているように能力を使って修練していたわけではない。夢はあくまで夢で、どれほど本物のように見えても現実とは違う。現実には出来ないことが夢ではできてしまうこともあるだろう。
それでも、グドンは何やら違和感を覚えた。
あの瞬間だけ、何か特別なところがあったろうか? そう思案し、思いついたのが“感情”だった。感情が大きく動いたときは、過去へ遡る能力が強まるのではないか?
誰しもそうだが、嫌悪、恐怖、喜び、どんな感情であろうと、その振れ幅が大きいほど記憶に深く刻まれるのはよくあることだ。
他人から受けたほんの些細な嫌がらせが、何十年も経たのち鮮明な記憶となって蘇ることがある。こども時代に怖い思いをした遊具が、大人になっても頻繁に夢の中に現れることもある。それはどちらも、その当時、強い感情が動いたためといってよい。
逆にいえば、ただ馬車に揺られていたり、坑道を歩いていたりといった、感情の動かない過去に戻ろうとしても難しいのだ。つまり、経過した時間の長短と同様、当時の感情の振れ幅が、この能力を使う際の成否を決める大切な鍵となっている。そのことに気づいたグドンは、そうした鍵を修練の中でどう生かすべきかを考えた。
感情を動かす? でも、どうやって?
試みに、ボウが自分との決別を決意したときのことを頭の中で想像してみた。
それは強い痛みとなって彼の胸に刺さったが、その一分後、その瞬間に戻ろうとしたグドンは、試みが失敗したことを知った。
無理に自分で造った感情は、時間を遡る能力には利用できない。何度か同じ試みに失敗した彼は、そのことに気づいた。では、どうすればよいか?
考える間に、時間は容赦なく過ぎていき、鉱山の周囲が朝日に照らされ徐々に明るくなり始めた。
彼は仕方なく修練を中断し、ボウが待つソウエイの小屋へ戻ることを決めた。
ドミアールとの戦闘で使えそうな能力を手に入れることは出来なかった。それは間違いなかった。だが、一夜限りの修練で大きく能力を向上させようと考えること自体、元々無理な話なのだ。
渉不城で一夜を過ごせば、グドンはドミアールに対抗できるようになる、とセイイツは本当に考えていたのだろうか?
グドンはふと疑問に感じた。
それとも、力が身に着くまで渉不城から出てくるなと言いたかったのか? もしそうなら、それまでセイイツはずっと湖の上で彼を待つつもりなのか? どう考えても、そんなことはありえない気がした。
とにかく今は、一度セイイツのところへ戻るしかない。
ドミアールは今も意識不明の状態だろうから、セイイツがその気なら、対決を先延ばしにしてもらうことも可能だ。
そう考えている自分に気づいたグドンは、失笑を禁じ得なかった。
先延ばしにするとかしないとか、これが命をかけた対決を前にした者の心境だろうか? 負ければ、自分は永久にこの世から消え去るのだ。
戻ったグドンを、ボウはいつも通りの笑顔で迎えた。
今の彼にはそれが何よりも嬉しかった。
困難に直面しているのは間違いなかったが、暗い顔をしていたところで何も変わらない。
修練がうまくいったかどうか、グドンはあえて話さないことにした。ボウも自分から訊こうとはしなかった。ジタバタ足掻いたところで、結局はなるようにしかならない。そうした暗黙の了解が二人の間にはあった。
それに、仮にドミアールとの戦いに勝ったとしても、その後にはもっと大きな試練が二人を待っている。
ジュウイツの欠片を完全に体内から消し去ることだ。
そのときは、グドンそのものが大きく変化してしまうかもしれない。もしかするとそのことのほうが、二人にはより大きな転機となる可能性があった。死という別れよりも生きたままの別れのほうが、耐えがたい苦痛をもたらすこともある。しかも、その苦痛は、二人が生きている限り永久に続くのだ。
二人が波止場へやってくると、コウギシやジャキュウ、リャクナンたち町の主だった面々が、先に来てグドンたちを待っていた。その中には、アンカイやコタンフ、ヤセイといった若手幹部も混じっていたが、それ以外の住民たちは姿を見せていなかった。
そのことに気づいたグドンは、彼らがどんな道を選ぶことにしたのか、大方わかった気がした。
「わたしたちは皆、この町に残ることを決めたわ」
皆を代表する形で、コウギシが結論を言った。
グドンは頷いたが、ほんの少しだけ意外にも感じた。コウギシだけはこの町を出る選択をするのではないか、と考えていたのだ。場合によっては、セイイツともう一度だけ会える機会を作ってほしいと言い出すのではないか、と。
しかし、彼女は思いのほか冷静に現実を受け入れたようだった。
「湖に関しても、今まで通りで構わない」
とジャキュウ。
「封鎖さえ解いてもらえば、あとは我々が管理する。これまでよりは多少融通をきかせ、外との接触や往来も認めることにしよう、と皆で決めた」
ホッと安堵する思いでグドンは頷いた。
彼らの決定に彼も賛成だった。ここでの生活が他所と比べ、それほど厳しく味気ないものだとは思えない。何よりも、この町にいる限りどこよりも安全なのは間違いなかった。住民たちにとってはそれが何よりだ。過剰な競争もここにはない。
「やっぱり、あなたはもうここへは帰ってこないの?」
ヤセイが弟を思いやる姉のような声を出した。
グドンは小さく首を振った。
コウギシが彼を代弁するように、
「グドンにはここは相応しくないわ。彼自身にとっても、我々この町の住民にとっても」
というと、他の者たちも皆賛同するように頷く。
「でも、最後に一つだけ訊かせて」
とコウギシは続けた。
「あなた、蟻巣島のことを知ってる? ごく最近、あの島が崩壊したと聞いたけど、そのことにあなたやセイイツは関係していたの?」
コウギシの言葉に、グドンは思わず暗い顔になった。心の奥底に鈍い痛みが走ったといってもよい。一番避けたかった話題だが、結局は避けることができなかった。嫌がれば嫌がるほど、それは執拗に追いかけてくる、人生とは往々にしてそうしたものかもしれない。
大きく溜息をついてから、グドンは頷いた。
「あの島にリョクギダンという男性がいたはずだけど、わからない? わたしの兄なのよ」
グドンは少し考え、やはり、真実を話すことにした。
彼がリョクギダンの現状を正直に答えると、意外にもコウギシはホッとした様子を見せた。
「まだ生きてるのね? それだけわかれば十分。セイイツとのことは、結局、わたしも兄も縁がなかったのよ。グドンと会って、また一からやり直そうと考えてくれたとしたら、それ以上望むものは何もない」
「それならいいけど…」
ヤセイがそっと近づいて彼女の肩を抱く。
しかし、コウギシは苦笑し、
「わたしはもうこどもじゃないわ。悲しいことに、肉親が幸せでないと知っても、想像するほど心の動揺を感じない。年を取ると感覚が鈍感になるのかもね。それが今のわたしにとっては、ある種の救いだけど」
彼女の肩を抱く腕に、ヤセイは力を込めた。
「どこへ行っても元気でやりなさい。がんばるのよ、グドン」
そう言うと、彼女はそのまま踝を返し自宅のある町の中心部へ戻って言った。
ヤセイは彼女に従いながら、一瞬背後を振り返り、
「またいつか会えるといいわ」
と別れの言葉を口にした。
グドンは頷き、ボウと向き合った。
「じゃ、行こうか?」
ボウが頷く。
二人をとりまく幹部の中でコタンフだけが、何やら不満そうに彼を見ている。
おれに挨拶はなしか、とでも言いたげだ。
グドンは思わず笑って、
「きみが飼っていた小犬のことを覚えている? コタンフ」
「小犬? 妖獣のことか? それなら、知らないうちにどこかへ消えちまったんだ。失礼な奴さ。散々面倒をみてやったのに…。でも、小犬が何だ? まさかそれが別れの言葉か?」
「あれは妖獣じゃない」
「妖獣じゃない?」
「そう。あれはセイイツだよ。彼が妖獣に姿を変えてここにいたんだ」
「え!? セ、セイイツ!?」
今にも心臓が飛び出しそうな様子で、コタンフは目を剥いた。
ほかの者たちも驚きで声が出せない。
自分たちが右往左往し、セイイツの悪口を言っていたときも、彼はずっと傍でその様子を眺めていたのだ。
「それじゃ。また、どこかで会えるといいけど」
グドンはそう言うと、ボウの腰を抱いて宙に飛び上がった。
「おい! おまえたちがうまくいったら、おれにも仙族の女の子を紹介しろよ!」
背後から、慌てて大声で呼びかけるコタンフに、グドンは手を振って別れを告げた。
彼の腕の中で、ボウもにっこり微笑む。
しかし、彼女が仮面をとると、コタンフたちの視界からパッとその姿が消えた。
「本当に仙族なんだな…」
溜息交じりに呟くコタンフの目の前で、グドンはあっという間に遥か彼方へ消え去った。




