174 ジュウイツ
ジュウイツ。その名前をグドンはどこかで聞いたことがある気がした。
遠い昔…。あれは、どこで、誰に言われたのだったろう? 奇妙なのは、それが自分に対し発せられたように記憶していることだ。
じっと黙り込み、過去の記憶を辿っていたグドンは、それを誰に言われた言葉か思い出し、あっとなった。
あの綺麗な女性だ! おいらを渉不城へ送り届けた中年の女性…。彼女が、当初、おいらのことをそう呼ぼうとしていた。だが、グドンがそれを拒否し、自分はグドンだと言い張ったために、最後は諦めて何も言わなくなった。
でも、だとしたら、これはどういうことだろう?
壁に貼られた肖像画は誰なのか? おいら? それともジュウイツ?
混乱する頭で、グドンは当時のことを振り返ろうとした。
あのとき、グドンは、女性が自分を誰かと勘違いしていると考えていた。おそらく自分と生き写しの誰かで、女性のこどもであり、不幸にももう亡くなってしまった誰かだ。女性はそのこどもと自分を混同し混乱しているのではないか、と。
これはつまり、そういうことなんだろうか?
女性は亡くなった息子のことを忘れられず、生き写しのおいらにその影を追い求め続けた。それが、いつか勘違いではすまなくなり、完全に両者を混同して、奇妙な行動に走るようになった?
しかし、それは理屈に合わない、とグドンは感じた。グドンの想像どおりなら、女性は当時自分をジュウイツと誤解して渉不城へ送り届けたことになる。だが、それはどう考えても妙だった。
自らのお腹を痛めて産んだ子をあっさり手放し、遠く離れた半妖の町へあずける母親がいるだろうか? しかも、その後もずっと放置したままにするなんて…。普通ならありえない。
愛情を感じていなかったなら話もわかるが、この部屋を見ればわかるように、女性はジュウイツを死ぬほど愛していた。
となれば、グドンを渉不城へ送り届けた際、女性はグドンが自分の息子ではないとはっきり認識していたことになる。実際、当時のグドンは、女性から愛情のようなものをいっさい感じなかった。
だが、そう考えると、今度は、なぜ見ず知らずのこどもを渉不城まで送り届けたのかがわからなくなる。彼女にはそんなことをする理由がないからだ。
グドンをジュウイツと誤解して送り届けたのが奇妙なら、両者の違いをはっきり認識しながら送り届けたというのはもっと変だ。
そこまで考えたグドンは、もう一つ肝心なことを忘れていたことに気づいた。この部屋は、獄中にいた老女のものなのだ。老女、つまり綺麗な女性ではない。ということは、この部屋の持ち主で、獄中にいた老女とは、ジュウイツのお婆さんなのか? いや、父方の祖母でゴウイツの妻はもう亡くなっているはずだ。それなら、母方の祖母ということか?
「グドン! グドン!」
混乱で頭が痛くなり始めたとき、大声で誰かに名前を呼ばれ、グドンははっと我に返った。
振り向くと、心配げな表情でボウが彼を覗き込んでいる。
「え? 今、何かいった?」
グドンは慌てて取り繕ったが、ボウはそれには答えず、労わるように彼の肩を優しく抱き寄せた。
「大丈夫よ。あなたのショックは理解できるから」
おいらのショックが理解できる? グドンのほうは彼女が何を言っているのかまったく理解できなかった。
それでもすぐに、きっとボウは何か大事なことを話したんだ。それをおいらはぼんやりして聞いていなかったと察した。
「何だかぼんやりしちゃったよ。ごめん、もう一度言ってくれる?」
グドンは照れ隠しに頭を掻いた。
ボウは頷き、
「あの老女はあなたのお母さんかもしれない、と言ったの」
と告げた。
え? 老女が母親?
グドンはさらに混乱すると同時に、心底驚いた。
突然、老女が母親だと言われただけでなく、話のタイミングが余りにも絶妙だったからだ。グドンが老女と綺麗な女性の関係を考えていたら、突然、ボウがその答えをくれたのだから。しかし、老女がジュウイツの母親であれば、先ほどまでの疑問が一挙に解決する。とはいえ、老女が母親だと、ボウはなぜ知っているのだろう? 普通に考えて、老女はジュウイウの母親ではありえない。年齢的に見て、どう考えても変だ。
ボウは、彼の反応を当然と考えたらしく、獄中で起こったことをひとつひとつ彼に説明した。
老女は綺麗な女性の変装した姿だった? そのことがわかり、グドンもようやく納得がいった。
ドミアール…。
その名前をグドンは心の中で何度か呟いた。
セイイツの母親の名前をゴウイツに訊かなかったのは完全に失敗だった、とグドンは心から後悔した。ドミアールというのは、本当に祖母の名前だろうか? それとも母親の名前なのか?
いずれにせよ、牢獄の女性がゴウイツの死んだ妻でないのは明らかだった。
「おいらはたぶん、その女性、つまり、ドミアールの息子じゃない」
グドンが断言すると、ボウは驚いた顔になった。
「あなたの気持ちはよくわかるわ。でも、あの女性にもきっと何か深い事情があったのよ。だから、心ならずも、あなたと別れ別れになった。でも。本当は心から愛して…」
ボウが誤解して自分を慰めようとするのを、彼は手を挙げて制し、
「ボウは勘違いしてるよ。あの女性は本当においらの母親じゃない。それにセイイツもおいらの父親じゃないと思う。今も疑問に思うことは一杯あるけどね」
今度は、ボウが混乱して泣きそうな顔になった。
グドンは、彼女に位牌を示し、
「ドミアールとセイイツの子はたぶんジュウイツというんだ。これはその子の位牌。ということは、もう死んでるはずだよ」
そして、ジュウイツを殺したのはきっと父親であるセイイツだ、とグドンは内心ひとりごちた。グドンはそのことを夢で見た。今まで奇妙に思っていたのは、殺されたはずの自分がまだ生きているからだ。だが、殺されたのが自分ではなくジュウイツなら話は単純になる。むしろ、問題は息子でもないグドンになぜそんな夢を見せたかだ。
それはともかく、夢で見た内容に関して、当面、グドンはボウに話す気はなかった。
「で、でも…」
グドンの話がどうしても受け入れられない彼女は、反論しようと口をひらいたが、言葉が出てこなかった。
グドンはボウに優しく微笑む。
「おいらにもわからないことだらけだよ。それに、ドミアールやセイイツが本物の両親でなくても、あまりショックじゃないし傷ついてもいないから、ボウはおいらに気を遣わなくていいんだ」
それは彼の本心だった。
ドミアールのことはともかく、セイイツは自分の父親でないと心のどこかでずっと感じ続けてきた。というより、セイイツの息子と呼ばれることに強い違和感があったくらいだ。
「でも、それなら、あなたはどうしてそんなに特別なの? 普通の半妖とは全然違う。わたしとのことだって…」
「それは、おいらにもわからない。でも、この位牌を見て、自分はセイイツたちのこどもじゃないと確信できたよ」
今さらながらと思いつつ、グドンは、鍾乳洞で起こったことをかいつまんでボウに話した。
鍾乳洞に囚われているのがセイイツの父、ゴウイツだと知り、ボウは腰を抜かすほど仰天した。
「ゴウイツが言ったんだ。自分はおまえのお爺さんじゃないと。今はその意味がはっきりわかった気がする。ゴウイツは、何らかの理由で、自分の孫がおいら以外の誰かだとわかったんだ」
ゴウイツが自分の脳海を調べ、何か見つけたらしいこともグドンは話した。それは恐らく、彼女がグドンの中に見たのと同じものだったはずだ。そのせいで、ゴウイツはグドンが本当の孫ではないと知った。
グドンも認めたくなかったが、認めざるを得ないひとつの事実があった。
それは、彼の中の悪魔はジュウイツに違いないということだ。どうした理由でジュウイツが彼の中にいるのかわからないが、それが原因で一連の事態が起こり始めた。
すべての鍵はジュウイツだ。
何といってよいかわからず、ボウはじっとグドンを見つめている。慰めようにも、慰める言葉が見つからない様子だ。それに、グドンが慰めを必要としているようにも見えなかった。
「それで、これから、どうするの?」
もう終わった過去のことではなく、彼女は、代わりにこれからのことを話すことにした。
「うん」
グドンは一瞬考える目になったが、すぐに顔をあげ、
「これまでは、どうしようか迷っていたけど、今話していて決心がついたよ。おいらは、いったん渉不城へ戻ろうと思う」
「渉不城へ帰る?」
どんな答えより、その答えはボウにとって意外なものだった。
そんな彼女に、グドンは自分の考えを説明した。
「蟻巣島でのことは別だけど、渉不城で半妖が何人も殺されたのも、ここでのことも、すべておいらに原因があると思う。ここから出て、また別の場所へ向かってもまた関係のない人を巻き込むだけだ。だから今は、最初に戻って、すべてにケリをつけるべきだと思う」
「それはつまり、問題の発端はドミアールで、それをはっきりさせるには渉不城へ戻る必要があるということなの?」
ボウの質問に、グドンはにっこり微笑んだ。
根源はジュウイツだが、事態を動かしているのはドミアールだから、両者は同じことだ。
「そういうこと。おいらの伴侶は賢いね。でも、その前にやりたいことがひとつふたつある。だから、ボウも付き合って」
グドンは明るい顔に戻って言った。
「できるかどうかわからないけど、きみに友達を紹介したい」
「友達を紹介する?」
友達って、誰? どこで知り合ったの?
この期に及んで、グドンがまた何か企んでるとわかり、ボウは少し責める目線でグドンを睨んだ。




