172 救出
激しい痛みで床に蹲っていたボウは、牢獄内へ慌ただしく駆け込んでくる足音に思わず視線を上げた。
駈け込んできたのは、いうまでもなくドミアールだった。だが、何があったのか、彼女の顔が蒼ざめている。心なしか手まで小刻みに震えていた。
「今すぐ、ここを離れるわよ」
怒鳴るように命じると、ボウの背中を掌で強く叩く。
とたんに全身を襲っていた激痛が嘘のように消え去り、ボウは金縛りから解放されて、ぐったりその場にへたり込んだ。
今回のお勉強はいったん中止? でも、いったい何が起きたのだろう?
まるで他人事のように考えながら、ボウは上半身を起こし、ドミアールへ見せつけるように痺れたままの手足を摩った。血行が回復するまで、何を言われようと絶対に動かない。相手にそうわからせたかった。
ドミアールはドミアールで、我慢にも限界があるとでも言いたげに彼女を睨み返す。
「今すぐ立ち上がらないなら、二度と立ち上がれないようにするまでよ。さあ、どちらにするか選びなさい。すぐに立ち上がってわたしに従うか、ここで、グドンがあなたの死体を見つけるのを待つか」
それは脅しやはったりではない、とボウにもわかった。
ドミアールの表情にはいっさいの余裕がなかった。顔が緊張に強張り、強い焦りのようなものが仕草の一つ一つに表れている。今すぐにでも、何かもしくは誰かが彼女を殺しに来るようだ。そうなるのを避けようと一刻も早くここから逃げ出したがっている。ボウは、いい気味だと思ういっぽう、とても笑顔になる余裕はなかった。
「殺せばいいわ。そうすれば楽になれる。これ以上、あなたの玩具になるよりはましよ」
実際、彼女はもう限界だった。痛みが引いたあとも体は痺れたままだし、何日も眠れない日が続いている。このまま彼女についてゆけば、結局、心も体も壊れてしまうのは目に見えていた。
「いいわ。でも、これはあなたの選択よ」
ドミアールは一歩二歩と前へ出る。
目を閉じたボウは、本当にこれですべてが終わると覚悟した。今回はもう心の中でグドンの救助を求めることもしない。それはもう無理だと諦めていた。
足音と共に、ドミアールがすぐ傍まで近づいたのがわかった。恐らく、手を伸ばせば自分に届くほどの距離だろう。たぶん一瞬で終わるはず。叶うのなら苦痛のない死を。彼女はそう願った。
「さようなら、グドン…」
心の中でそう呟いたとき、ドミアールがはっと息をのむのがわかった。
どうしたの?
恐る恐る開けた目の前に、何か毛むくじゃらの生き物が見えた。生き物は、ボウに背を向けドミアールの前に立ちはだかっている。
小犬に似た妖獣…? ボウはそれがグドンの言っていたあの小犬だとすぐにわかった。彼女自身、薬草地の幻覚で出会っている。
「下等な妖獣が何? わたしの邪魔をしようというの?」
ドミアールが吐き捨てた。
だが、妖獣は動かない。それどころか、口元を小さく歪め相手を嘲笑っているように見える。
「今から三つ数える間に目の前から消えなさい。後ろにいる小娘がおまえの内臓で汚れると運ぶのに困るから、今回は見逃してあげる。さあ、一、二…」
妖獣はピクリとも動かない。
「三!」
彼女が数え終わっても、平然とドミアールを見返していた。
ドミアールは憤怒と羞恥で顔を赤らめ、次の瞬間、怒りに任せて大きく腕を振った。
目に見えぬ強い衝撃波が小犬を襲う。
妖獣はバラバラになり一瞬にしてこの世から消え去る…はずだった。だが、実際は何も起こらなかった。
妖獣は己の鼻を少し天へ向け、何かの匂いを嗅いでいる。それはドミアール対する挑発に思えた。まるで彼女の能力の低さを馬鹿にしているようだ。
ドミアールは目の前で起きたことが信じられず目を白黒させた。
怒りに任せて術を放ったから、本来なら妖獣の背後にいるボウ諸共吹き飛んでいいはずだった。それなのに、何も変化が起きていない…。なぜ?
「あなた、誰なの?」
ドミアールの顔が真剣味を帯びた。それまで赤らんでいた顔がまた血の気を失い、室内に駆けこんできたときと同様に蒼ざめている。
彼女の心に、ある男の姿が浮かんだ。だが、すぐにそれを否定する。
この下等な妖獣があの人であるはずがない。それに、どう見ても、誰かが変装した仮の姿とは見えなかった。小犬は間違いなく本物の妖獣だ。体に獣特有の匂いがある。何年も獣として生きたことで体に浸み込んだ匂いが。
それでも、彼女は次の行動を逡巡した。
逆に、待つのを飽きたように妖獣のほうが動いた。片方の前足を小さく持ち上げると、床にトンと打ち付ける。
次の瞬間、ドミアールは何か強い力を受け背後へと吹き飛ばされた。まさに木の葉が強風を受け、抗う余地なく宙へ舞い上がった感じだ。
ドンッという鈍い音と共に、背中から石造りの壁に激しく叩きつけられたドミアールは、ずるずると床まで滑り落ちて動かなくなった。
口角から赤いものが顎へと伝い落ちる。
その様子に、背後から見ていたボウも目を丸くした。
だが、驚いたのはドミアールが吹き飛ばされ怪我をしたからではなかった。目の前のドミアールはもう老女ではなかった。今は中年と呼ぶことさえ憚られるほど若返っている。しかも、ボウがこれまで見たこともないほど美しい女性だった。
変化がないのは、以前同様グドンとそっくりなことだ。ただ、以前のドミアールをグドンの祖母とするなら、今の彼女は母親だった。
グドンの母親? まさかドミアールはグドンの母親なの?!
混乱でぼんやりしながらも、ボウは嫌々するように必至で首を振った。
そんなはずはない。神様、どうか、この人がグドンのお母さんでありませんように。わたしにはこのひとを愛せないし尊敬もできない。たぶん、殺してやりたいと思うほど憎んでいます。
ドミアールは壁に体重を預けながらやっとの思いで立ち上がった。
その顔に妖獣に対する畏怖が滲んでいる。
「その子を傷つけるつもりはないの。でも、一緒に連れていく必要がある。お願いします。わたしたちをこのまま行かせて」
それまでの傲慢さが嘘のように、敬意の籠った口調でドミアールが頭を下げた。
妖獣はボウに背を向けているから、自分の姿は見えないはずだとわかっていた。それでも、ボウは必死でかぶりを振った。
小犬さん、お願いだから駄目だと言って。こんな人と一緒に行くくらいなら、死んだほうがまし!
妖獣が無言で片足を上げると、ドミアールの顔がさらに蒼ざめた。
「やめて!」
その声は悲鳴に近かった。
「いいわ。その子にはもうかまわない。あなたが好きなら差し上げる。どうにでもいいようにすればいい。わたしは行きます」
しかし、牢獄を出ていこうとしたドミアールの前に、妖獣が改めて立ちはだかった。
ドミアールの顔が大きく歪む。
「どうしろというの?」
腸が煮えくり返るいっぽう、許してもらえるなら、妖獣の足でも手でも舐めたっていい、そんな矛盾の籠った表情だ。
そのとき、妖獣が「ワウ」と小さく啼いた。
そのことに、ボウもドミアールも飛び上がるほどに驚いた。
妖獣が啼いたところで、本来、何の不思議もないが、この生き物は永久に、どんな形にせよ声を発しない、そんな気がしていたのだ。
それがあっさり裏切られた。さらに驚いたのは、妖獣の意味するところが、ドミアールにはっきり伝わったことだ。
ドミアールは無言でボウへ近づいた。
ボウは救いを求めるように妖獣へ視線を向けたが、なぜか妖獣は知らん顔をしている。
「近づかないで!」
上半身を起こした姿勢で、ボウはにじるように後ずさりする。そんな彼女の拒絶を無視するように、ドミアールはすぐ横まで来ると、彼女の頭に掌を置いた。
「ぎゃっ!」
これまで味わったことのない強烈な痛みがボウの頭部を襲った。この激痛に比べれば、これまでの痛みなど羽毛で肌を撫でられる程度でしかなかったと思えるほどの痛さだった。
彼女は耐えきれず、一瞬で意識を失った。
石の床に伏すように頽れたボウの耳から、血まみれの何かがぐにょぐにゅと這い出した。それは小さな百足のようにも見えた。空気に触れ、苦しむように体をのけ反らせる。そこへ小犬がゆっくり近づくと、口を開けパクリとのみ込んだ。
その様子を、ドミアールが気味悪そうに眺めている。
妖獣はつづいてボウへ歩み寄ると、傷ついた彼女の耳元に鼻を近づけ匂いを嗅いだ。それから、振り返ってドミアールをひと睨みしたあと、もう一度「ワウ」と啼く。
それが解放の合図だったかのように、ドミアールは何もいわず脱兎のごとく牢獄から出て行った。
彼女がいなくなると、妖獣は再びボウの顔に口を近づけ、その耳を優しく舐め始めた。
それまで耳の穴から滲みだしていた血が瞬時にとまり、すぐに乾燥して、次の瞬間には、何もなかったかのように傷の痕跡がすべてが消え去った。
妖獣はその肉球で軽くボウの体に触れる。彼女の体内に異常がないか確認しているようだ。しばらく小首を傾げて沈思したあと、安心したのか小さくほっと吐息をつく。
ボウは尚も気絶したままだったが、目に見えて顔に血の気が戻り始めていた。
次の瞬間、まるで泡が弾けるように、妖獣の姿がその場からふっと消え去った。




