171 悪魔との会話
「誰がそんなことをいった?」
「ボウだよ」
「ボウ?」
老人の戸惑いが大きくなる。
「それは、おまえが助けようとしている女の子じゃないのか? 彼女がなぜそんなことを言う?」
ゴウイツは少しがっかりした声を出した。痴話喧嘩の際にいわれた悪口を、惚気混じりに聞かされたと思ったらしい。
「彼女は仙族で、おいらを生涯の伴侶だと思ってる。啓示が下りた相手だと言って」
グドンは詳しく事情を話した。
「だから、おいらに婚姻の能力があるか確かめようとして互いの魂を開放した。そのとき、おいらの中に悪魔を見たらしい」
ゴウイツは開いた口が塞がらなかった。
仙族? 啓示の下りた伴侶だと? この小僧は頭がいかれているのではないか?
しばらくして、ようやく自分の無様な表情に気づいたのか、ゴウイツは慌てて口を閉じ、それから改めて、
「ボウというのは仙族か? その仙族に啓示の下りた伴侶と言われただと? とてもそんな話は信じられん」
グドンは素直に頷く。
「うん。皆そう思うらしいよ」
老人はまた意味なく舌打ちした。
「それで、魂は繋がったのか?」
「そう思うし、彼女は繋がったと言っていた」
「で、そのとき、悪魔を見たと?」
ゴウイツは再び深刻な表情に戻った。
「悪魔という言葉は使わなかったけど、まあ、そうだね。だから、老女がおいらにさせたいのは、そのことと何か関係があるんじゃないかと思う」
鍾乳洞に入ったばかりのころ、グドンは、老女の目的が何かわからず、ずっとそのことを考えていた。そして、出した答えが三つある。
ひとつは、ゴウイツにグドンへ危害を加えさせるつもりではないか、ということ。もうひとつは、グドンにゴウイツへ危害を加えさせるのではないか。最後のひとつは、ゴウイツにグドンの成長の手助けをさせるつもりではないか、だ。
だが、二つ目のグドンにゴウイツへ危害を加えさせるというのは現実的ではない。だから、実際の可能性は二つだ。
このことを、悪魔と関連付けてもう少し具体的にいうなら、一つ目はグドンの悪魔を解放させること。三つ目はグドンの悪魔を消滅させることだ。
あえて二つ目についていうなら、ゴウイツの悪魔を消滅させて自殺へ追い込む、ということになるのだろうが、その可能性はほぼない。
だが、これらはすべてグドンの想像に過ぎないし、根拠はなかった。
「仙族のいう魂というのは、脳にいる分身と考えてもいいのか?」
とゴウイツが訊いた。
グドンは首を振る。
「おいらにもわからない」
ゴウイツはしばらく考えたあと、
「おまえの脳海を詳しく調べてみようと思うが、どうだ? 嫌なら、是非にとはいわん。脳の中を探るとなると、知られたくない秘密も暴露されてしまう可能性があるからな」
「別にいいよ」
グドンは呆気ないほど即座に頷いた。知られて困る秘密もないし、ゴウイツが自分に危害を加えるとも思えない。その気なら、今すぐにでもそう出来る。それに、これも大きな手掛かりのひとつだ。危険を避けていては何も始まらない。
脳を開放する必要もなかったが、グドンは防御壁を開いて、ゴウイツを受け入れる準備をした。
ゴウイツが親指を立ててグドンを称賛する。
「いい度胸だ」
この小僧が本当に自分の孫ならいいのだが…。ゴウイツは少しずつそう思い始めていた。鍾乳洞での生活はほぼ不満のないものだったが、唯一の欠点は他者との接触がまったくないことだった。いくら孤独を愛する者でも、強制された孤立は苦痛となる。しかも、そうした孤立が延々と数十年に渡り続いていた。それゆえ、グドンの出現は、彼の乾いた心に、久しぶりの雨が降るようにゆっくりと隅々まで浸み込んでいった。
ゴウイツはグドンの脳海へ侵入した。
脳海は、様々な記憶や情報に満ちている。その中にはゴウイツと共通するものもあったし、そうでないものもあった。
ゴウイツは、知識やグドンの生い立ちに関する記憶はあえて無視した。そうしたものは、個人の秘密を無用に暴き立てることになるだけで、何の意味もない。探すのはあくまで、グドンのいう悪魔だった。
正直いって、彼自身はそんなものの存在を信じていなかった。
ゴウイツ自身の中にある悪魔の心は、結局のところ、怒りで正気を失った自分自身に他ならない。特別悪魔の心などというものが存在するわけではなく、いわば言葉の綾だ。
だが、グドンの話を信じるなら、彼の中に存在するのは、己とはまったく異質な、別の何かであるはずだった。
そんなものが誰かの心に棲みつくことなどありえるだろうか?
ゴウイツは“憑依”という言葉を聞いたことがあった。
一般には、霊が生き物や死体に乗り移ることを意味し、乗り移られた“器”は自我を失い、霊に支配されるようになる。究極的には、完全に器を乗っ取られ、元あった魂は消え去って、霊と器が一体化する。いわば新たな生命の誕生だ。
しかし、グドンの場合はそれとは違うようだった。
グドンは自我を失ってはいない。それどころか、悪魔なり霊なりの存在自体を感じてはいないようだ。
だとしたら、いったい、どういうことなのだろうか?
「ん?」
脳内を詳しく精査するうち、ゴウイツは脳海の一部に小さな染みがあることに気づいた。それはほんの小さな病変のようなものだったが、彼の注意を引いたのは、病変がゴウイツの存在に気づいたとたん、こそこそと逃げ出すような素振りを見せたことだ。
病変が自我を持っている? しかも、他者から逃げ出そうとするからには、何かやましい思いがあるということか? これはゴウイツにとって見逃すことのできない徴候だった。
今や染みは極限まで色が薄くなっていたが、ゴウイツの目を欺くことはできなかった。
ゴウイツは相手の動きを封じ、グドンの本体に傷を負わせぬよう力をセーブしながら、染みに痛みを与えた。
染みは明らかに動揺し恐怖で震えているように見える。
さらに痛みの度合いを強めると、染みが少しずつ形を変え始めた。
それは何かの生き物の顔のように見えた。その顔が今や苦痛に歪んでいる。
その様子を凝視していたゴウイツの表情に、それまでになかった残忍さが加わった。
グドンが今のゴウイツを見たら、とても自分と会話を交わした柔和な老人と同一人物とは信じられなかったろう。
今のゴウイツは、数えきれないほどの敵兵を殺戮し、政敵に対しても厳しい判断を下し続けた一国の主の顔に戻っていた。
「おまえはいったい…」
場合によっては、今すぐ病変を消し去るつもりでいたゴウイツの動きが突如停止した。
病変が何か喋った気がしたからだ。
ゴウイツは病変を長い間じっと見つめたままでいた。
病変は喋り続け、病変と老人のとの会話がしばらく続いた。
その間、ゴウイツの顔色がみるみる変化した。
相手の喋った内容で、病変が何なのかわかったからだ。
わかったとたん、彼の表情がさらに残忍なものに変わった。
「おまえの魂胆がわかったぞ!」
ゴウイツは誰にともなく言った。
奇妙な話だが、病変はその瞬間抹殺されるのを覚悟したようだ。全身をぶるぶる震わせ、少しでも老人から遠ざかろうとする。
だが、ゴウイツは急に殺気を収めると、次の刹那、パッとその場から姿を消した。
グドンは、老人の分身が本体に戻ったのを感じた。
どんな結果が出たにせよ、ゴウイツの精査が終了したようだ。
「お爺さん、何かわかった? 悪魔のようなものはいた?」
しかし、ゴウイツはそれには答えず、
「おまえは、老女がこの鍾乳洞へ入る扉を制御しているといったな。ここ以外の三か所へ繋がる扉も同様に制御できたと」
「うん。彼女自身か、彼女の一味かはわからないけど、間違いないよ」
老人の顔が再び残忍さを帯びる。
怒りに任せたものではなく、むしろ、冷静そのものに見えるだけに、その姿にはかえって凄みがあった。
グドンはわけが分からないまま、本能的に二三歩後ろへ下がる。
ゴウイツがやにわに天を見上げた。
「セイイツ! おまえがそこにいるのはわかっているぞ!」
老人の怒鳴り声に、グドンは慌てて鼓膜を封鎖し、脳を防御壁で覆った。
それでも、声による振動を完全に遮ることはできず、襲った痛みに手で頭を抱えその場に蹲った。
さきほど防御壁を試した際には、老人が手加減していたのだ、とグドンは身にしみて感じた。
鼻腔から何か温かなものが流れ出ている。必死で防御力を高め、耳の鼓膜を完全に固定したが、それでも、耐えきれないほどの激痛が脳髄を襲った。
「これは全部おまえの仕業か!」
老人は怒鳴り続けている、
「おまえがわしに卑劣な真似をさせようとしているのか! 誰が、この小僧をここへ送り込んだのか、わしは知っているぞ。おまえもあの女とグルなのか! 何のためにこんなことをする? 何のために、女にやりたい放題させおく!」
だが、誰も返事をしなかった。
グドンは老人がまた正気を失ったのではないかと疑った。何らかの理由で自殺願望が募り、悪魔の心が解放されてしまったのではないか、と。
しかし、どう考えても、そうは見えなかった。
老人は怒り狂ってはいるものの、正気を失ったようには見えない。それでころか、冷静に何かをセイイツに問いかけているように思えた。ただ、その内容が、グドンには皆目理解できないだけだ。
ゴウイツは大きく胸を上下させると、己の怒気を抑制し、グドンに向き直った。
「もう一度いう。すぐにここを離れなさい」
深い憐憫を込めた目で老人が言った。
グドンは老人が何を言ったかわからず、それが鼓膜の固定のせいだと気づいてすぐに制御を解いた。
「すぐにここを離れなさい」
ゴウイツがもう一度同じ言葉を繰り返す。
「ここを離れる? どうして? 悪魔の話はどうなったの? おいらの脳の中で何か見つけたんでしょ?」
ある種の確信をもって、グドンは言った。老人の極端な反応は、自分の脳海で何かを見つけたからに違いなかった。それ以外の理由は考えられない。
「いや、何も見ておらん。悪魔など存在しておらん」
「嘘だ!」
これほどわかりやすい嘘もない気がした。
いきなりあれだけ大声で怒鳴っておきながら、それが脳海で見たものと無関係? そんなことがよくもいえたもんだ。
老人が真実を話すまで、グドンはここから一歩も動かぬ決心をした。
脳海の悪魔と老女の行動は必ずどこかで繋がっている。そして、それはボウを救出する大事な鍵なのだ。
「だいたい、出口の扉は閉まったままだよ。あの老女が外へ出してくれるはずがない」
それがここを離れない十分な理由になるはず、そんな口調でグドンは反論した。
「いや。扉はもう開いた。おまえはすぐにでもここから出ていける」
「扉が開いた?」
唖然として、グドンは訊き返した。
「さっき、扉の錠前が解除される音がした。おまえは耳を塞いでいたから聞こえなかっただけだ」
扉のほうを振り返ったグドンは、反論の言葉が見つからず口をぱくぱくさせた。
「だけど…」
「試しに一度、外の世界へ戻ってみるといい。おまえの恋人も解放されているかもしれない」
何か詫びるような口調で老人はグドンを促した。その声はなぜか憐憫と悲哀、疲労感に満ちている。
老人の態度が急変した理由を知りたい、とグドンは心底願った。
「お爺さんは…」
「わしはおまえのお爺さんじゃない」
ゴウイツは静かに遮った。言葉にどこか先ほどまでとは違う響きがあった。
「だが、おまえの爺かどうかはともかく、その気があるなら、またここへ来ればいい。わしに教えられることがあれば、何でも教えてやろう」
それだけ言うと、老人はグドンの返事を待たず背を向けた。その背中は先ほどまでよりずっと小さく、老けたように見えた。
ゴウイツが果樹園の向こうへ姿を消すと、別天袋の口が閉じたらしく、目の前の光景が変化した。今は、湯船の向こうに鍾乳洞の壁が見えるのみだ。
老人がやったのだとグドンにはわかった。
剥き出しになった鍾乳洞の岩壁を長々と見つめたあと、グドンは嘆息した。そして、くるりと体の向きを変えた。
とにかく一度、鍾乳洞から出るほかはなさそうだった。
ゴウイツが言うように、ボウが解放されている可能性があるのなら、それを確かめてみなくてはならない。
グドンはゆっくり歩き始めたが、やがて宙に飛び上がると、全速力で飛翔を始めた。




