170 グドンの悪魔
悪魔の心?
その言葉に、グドンは自分の中に隠れている悪魔を想起せずにはいられなかった。
「わしは妻が別の男を愛したと知り怒りに狂った。あのままだったら、本当に無垢の民を大勢殺していたかもしれん。セイイツは、わしの脳に入りその怒りを封じ込めた。だが、封じ込めはしたが、消し去る能力はなかった。だから、その怒りは今も心の中に残っている」
「それが悪魔の心?」
ゴウイツは頷く。
「セイイツは、悪魔の心を消す方法を模索するのではなく、利用することを考えた。わしが自殺したいと願うと、悪魔の心の封印が解かれ、わしの中で湧き上がる。悪魔が自殺したいと思うはずがない。わしは死の淵から逃れることができるが、いっぽうで、自分の感情を制御するのが難しくなる。怒りに任せ何をしでかすかわからない。だから、ここに監禁されている。いや、監禁されているのではなく、わしが自分の意志でここにいる。悪魔の心が解き放たれそうになったときは、自ら手枷足枷をつけ、自分を拘束する。それでも止めきれなかった時のために、この鍾乳洞がある。ここからわしが出るのは不可能だ。そう細工がしてある」
グドンはすべての疑問が解けた気がした。
初めてこの鍾乳洞へ入った際、グドンが聞いた怒鳴り声は、当時、きっとゴウイツの悪魔の心が解放された状態にあったからだろう。今は、自殺の衝動が抑えられているから、当然、悪魔の心も解放されていない。初めて鍾乳洞へ入ったときと、現在のゴウイツがまるで別人なのはそうした事情があったのだ。
グドンの命が危ないというのは、老人の悪魔の心がいつまた解放されるかわからないからだ。悪魔の心が解放されたゴウイツが、グドンに危害を加えないとは誰も保証できない。
「これでわかったろう? 今すぐここを離れなさい」
ゴウイツの表情には、グドンを思いやる心情が溢れていた。
しかし、グドンは小首を傾げその場を離れようとしなかった。
「何を迷うことがある。ここにいても何もいいことはない。まだそれがわからないのか?」
老人は少し苛々した様子を見せた。
この子は名前の通り、やはり愚鈍なところがあるのかもしれない。自分の孫かもしれぬ目の前の若者に対し、ゴウイツは、愛情と同時に若干の失望を感じないではいられなかった。
「おいらはまだここを離れるわけにはいかないよ。あの老女が離れることを認めてくれるとは思えないし、それを別にしても、ここから逃げ出せば、ボウを探し出す方法がなくなってしまう」
老女は何か目的があってグドンをここへ送り込んだ。それが何かはっきりするまで、絶対にここを離れるわけにはいかない。
「おまえがここで何かすれば、その老女が恋人を解放してくれると思っているのか?」
愚か者を見る目で老人はグドンを睨んだ。
グドンは正直に首を振る。本当に結果がどうなるかはわからなかった。今はただ、掴んだ藁を手放したくないだけだ。
「老女の目的ははっきりしてるんじゃないのか?」
老人があっさり言った。
「え?」
「わしに、おまえを殺させたいのさ」
「殺させて、どうするの? あの老女にどんな得があるのかな?」
「そんなこと知るか!」
ゴウイツが怒鳴ったので、グドンはまた頭を抱えた。
老人が面倒臭そうに舌打ちをする。
「おまえ、わしの脳へ入れるか?」
脈絡なく老人が言った。
それさえ出来ないようなら、自分の孫であることはもちろん、ここにいることも認めない、そんな口調だった。
グドンは、返事をすることなくそのまま老人の脳内へ侵入した。
もちろん、ゴウイツが脳を開放したから可能になったのだ。入れるかと訊かれた時点で、相手がそのつもりだろうと、グドンは推測した。
脳内に入ったものの、グドンはそこがこれまで入ったどの脳とも似ていないことに気づいた。しかも、心のどこかで、老人が話していた悪魔の心を垣間見ることができるのではないか、と期待していたのだが、そんなものは影さえ窺えなかった。
グドンの周囲には白い霧のようなものが色濃くたちこめている。今、自分が見ているのは、老人の脳のほんの一部に過ぎない、グドンはそんな思いを強くした。
「満更、役立たずでもないな」
初めて満足したよう老人の声が呟いた。
「おまえの周囲に白い霞のようなものが見えるだろう? それはいってみれば、迷路の中の壁だ。おまえは、わたしの許可なくそこからどこへも移動することが出来ん。だが、教えようとしているのはそのことではない。その霞の変化をよく観察していろ」
老人が話し終わるとすぐ、周囲の霞の色が変化し始めた。
白から薄い灰色へ、それからさらに濃い灰色へ、最後には黒に近い色へと変わっていく。
「どうだ? これはいわば外部に対する防御壁だ。今は脳の一部しか覆っていないが、脳全体を覆えば、外敵の攻撃を阻止できる。わしの怒鳴り声がおまえを傷つけるのは、声の振動のせいだ。一つは耳、一つは脳へ損傷を与える。耳への損傷は、鼓膜の振動を制御すれば容易く阻止できる。脳への損傷から守るのがこの防御壁だ。どうやるかわかるか?」
グドンの分身が頷くと、ゴウイツはそれを感じとった。
とたんに、何か強い力でグドンは脳内から弾き出された。現実に戻り、目を開くと、すぐそこに老人の顔があった。
「時間をやるから、頭の中で練習してみろ」
言われるまでもなく、彼はその場に胡坐をかいて座ると、脳海に意識を集中し、老人がさっき見せてくれたものをそのまま再現した。
防御壁を作ることに、グドンは難なく成功した。と、同時に白い霞で自分の脳を何層にも分け、万が一、外敵が脳内へ侵入した場合の対抗措置も施した。
すべて終わると、目を開き、老人に頷いて見せる。
グドンの優秀さに安堵したのか、老人はほんの少し笑みを浮かべたが、次の瞬間には、
「脳を開け!」
と容赦なく命じた。
グドンは躊躇なく従った。
彼が従わなくとも、老人は脳内に侵入できる。命じたのはあくまで礼儀上の問題だ。
脳内に、老人の分身が現れた。
手の一振りで、周囲を覆う白い霞を一瞬にして吹き飛ばす。すると、脳全体を包む黒い防御壁が姿を現した。
ぎりぎり合格点か…。
溜息混じりに片頬を緩めた老人の分身が脳内からパッと消える。
「次は、耳の振動だ」
本体に戻ったゴウイツは、間を置くことなくグドンの手を掴んで己の耳元に触れさせた。
「今度は目で見るのではなく、感じとれ」
触れた指の先で、老人の鼓膜が硬化するのがわかった。
ゴウイツは目で見るなといったが、鼓膜がどう変化したのか、グドンにははっきり見えた気がした。
老人に言われる間もなく、それを真似ると、ゴウイツが初めて、
「ほう?」
と驚いた顔になった。
「見えたのか? わしの体内まで透視できるんだな?」
グドンは黙って頷く。
「才能はセイイツに引けを取らんな。おまえが今役立たずなのは、これまでずっと自分を甘やかしてきたからだ」
老人の叱咤に、グドンは口をへの字に曲げ不満を露わにした。
役立たずなのは、あんたの息子が責任を放棄して、おいらを渉不城へ放りだしたせいだ。毎日食うや食わずで、何も学べなければ、誰でも役立たずになる。
だが、そう思ういっぽうで、迫害され弱いまま生きてきたからこそ、今の自分がある気もした。別の自分になっていたら、ボウと知り合うこともなかったかもしれない。だから、良くも悪くもすべてが今に繋がっている。だとしたら、まさに人生万事塞翁が馬ということかもしれない。
ふと我に返ると、老人が何か大声で叫んでいる。
また叱られるのではないか?
グドンは慌てて老人へ注意を向けた。
ところが何を言っているのかまったく聞こえない。それでやっと耳も脳も完全に閉じたままであることに気づいた。
だが、気づきはしたものの、グドンはあえて耳の振動をとめたままにした。
ひとつは、音量の調節がまだ出来そうになかったからだ。下手に鼓膜を開放するとわが身に危険が及ぶ可能性がある。もうひとつは、聞こえない振りで老人を揶揄うのが単純に面白かったからだ。
詰まらなそうな顔でゴウイツが口を閉じると、グドンはやっと耳の制御を解いた。
「ごめんなさい。まだ音量の調節がうまくできなくて」
老人はふんと鼻を鳴らす。おまえが故意にやったのはお見通しだ、と顔に書いてある。
それにはかまわず、グドンは礼を言った。
これでもう、老人の大声に悩まされることはなくなりそうだ。
「老女がおいらをここへ誘き寄せた目的だけど…」
グドンは話題を変えた。
「さっき話していて、一つ思いついたことがあるんだよ」
「思いついたこと? 何だ?」
「お爺さんがいった“悪魔の心”だけど、実は、おいらの中にも同じものがあるといった人がいる。正確にいうと、おいらの魂に悪魔が隠れているということだけど」
「悪魔が隠れていいる?」
ゴウイツは真剣な顔で眉間に皴を寄せた。




