168 囚われのゴウイツ
今回は怒鳴り声ではなく、至極まともな声量の、普通の物言いだった。まともな声量とはもちろん、数キロ先から届いた声のことではあるが…。
束の間あって、やっと平常心を取り戻したグドンは、
「あなたは…」
と口を開きかけて、何といえばわからず困惑した。
あなたは誰ですかと訊くのか? そこで何をしているんですか、はどうだろう?
正直、どちらもひどく滑稽に思えた。
では、自己紹介するのはどうだろう? おいらは、半妖でグドンといいます。年齢は十八歳…? まさに噴飯ものでしかない。誰がそんなことを知りたいのか。
「おまえが誰でもかまわない」
その心を読んだように男の声が言った。
「怒鳴らないから、こっちへ来なさい。傷つけないと約束しよう」
今回も、建設的な発言をしたのは相手のほうだった。
ほんの一瞬迷って、グドンは覚悟を決め先へ進み始めた。鍾乳洞内に入ったときと同様、先へ進む以外選択肢はなかった。
今回は、歩くのをやめて宙をゆっくり飛翔して進んだ。歩いて男のところまで行くのは、無駄な時間がかかりすぎる気がした。全速力で飛んでもかまわなかったが、はやり若干の警戒心が働いた。
とはいっても、結果はもちろんどちらも同じだったはずで、グドンの安全は、結局のところ男の手に握られていた。
しばらく飛翔を続け、ようやく遠くに男の姿を目に捉えたグドンは、その光景に思わず目を瞠ることになった。それが想像していたものと、あまりにも大きくかけ離れていたからだ。
男は白髪の老人だった。だが、グドンが驚いたのはそのことではない。老人は裸だった。だが、それもまあよいとしよう。裸の老人はいわゆる露天風呂に入っていたが、それも受け入れ可能な範囲内だ。問題は、老人の背後に広がっている光景だった。
そこにはまさに別天地だった。
老人の背後には、何十本との思える果樹が植わり、その近辺には一面の薬草地が広がっている。さらに老人が自分で耕したらしい田畑があって、その向こうには家畜がのんびり草をはむ牧草地が見えた。さらに遠くには、大きな河が地平線の向こうまでうねうねと蛇行して続いている。グドンの衝撃に最後のとどめを刺すように、空には太陽らしきものまで輝いていた。
ここは鍾乳洞の中ではなかったのか?
どうしても目の前の現実が受け入れられず、グドンは、何度も目を擦り、自分が夢を見ているのではないかと疑い、間違いなく現実だとわかると、もう一度背後を振り返り来た道を確認した。
そこには相変わらず鍾乳洞が続いている。
自分がどうかしてしまったわけではなさそうだった。
それなら、これは、いったい…?
だいたい、大声の主である男は、セイイツの敵で、ここに幽閉されているのではなかったか? それとも、単にグドンの想像が間違っていたというだけの話なのか?
再度、老人へ顔を向けると、事情を察したように相手は彼を手招きした。
まるで糸で引き寄せられるように、グドンは老人のすぐそばまで飛翔し、ゆっくりと地上へ下り立った。
「ここの光景が信じられんか?」
お湯で顔を拭いながら老人がいう。それから、初めてグドンの顔を真近かで見ておやっとなった。
グドンはそれには気づかず、
「おいらは夢を見てるんじゃないよね? ここまでがずっと鍾乳洞で、ここからはまったく別の世界なの? ひょっとして、おいらは、あなたの術にかかって幻覚を見せられてるのかな?」
老人は小さく笑ったあと、
「おまえは、セイイツとどういう関係だ?」
と訊いた。
訊かれたグドンは答えようとして、じっと自分を見つめる老人の顔に口を噤んだ。
「何だ?」
と、老人の笑みが大きくなる。
「あなたの顔、どこかで見たことがある気がするよ」
耐えきれなくなったように、老人は大声でハハハと笑い声をあげた。
このお爺さんは、石像で見たセイイツとそっくりじゃないか? そして、おいらともどこか似通っている。
「これは、どういうこと? 全然理解できない」
混乱する頭で、グドンはやっとそう言った。
「そうだろうな」
老人もやっと大笑いから真顔に戻り、
「まず一つ一つ問題を解決しようか。おまえは目の前に広がっている光景が不思議で仕方ない。違うか? それはきっと、別天袋の存在を知らないからだ」
「別天袋?」
「そうだ。おまえは納戸袋を持っているか? 別天袋はその高級版だと思えばいい。収納できる量がとてつもなく大量で、おまけに植物や動物といった生き物も入れられる」
「これは袋の中なの? この果樹園も、薬草地も、大きな河まで?」
老人は頷くと、小さく手を振った。
とたんに、目の前の大地がふっと消え去り、代わりに、岩以外は何もない鍾乳洞が出現した。鍾乳洞は、老人の背後をしばらく行ったところで行き止まりになっている。
今は、老人の手の中に納戸袋とよく似たものが握られていた。
見開いた目をパチクリさせるグドンの前で、老人が袋を背後へ投げると、先ほどと同じ光景が再び目の前に広がった。
「まあ、太陽は偽物だがな。それでも、植物は問題なく育つし、家畜の育成にも支障はない。一つ持っていると非常に役に立つ妖器だ。これがなかったら、わしはとうの昔に死んでいた」
一時の感動が治まったグドンは、それなら、この鍾乳洞はやはり閉塞された世界で、この老人は囚われの身なのだ、と改めて認識した。
捕えているのはセイイツなのだろうか? だが、とても彼と敵対関係にあるようには見えなかった。
「次は、セイイツとわしの関係だが…」
穏やかな顔で老人は続けた。
「セイイツはわしの息子だ。だから、おまえが、仮にわしの想像どおり奴の息子なら、わしたちの関係は祖父と孫ということになる」
老人に孫と呼ばれても、グドンはあまり驚きを感じなかった。というより、推測どおりという気がした。容姿が酷似しているし、血縁関係者であれば、年齢からみても、セイイツの兄弟ということはあり得ない。親でなければ、その兄弟といったところだろう。実の祖父かその兄弟かは、グドンにとってそれほど大きな違いはなかった。
グドンがひどく冷静な顔をしているので、老人は少し落胆した表情になった。祖父と孫の初めての対面なのだ。もう少し何か感動めいたものがあってもいいのではないか、と言いたげだ。
「皆は、おいらがセイイツの息子だというけど、実際には彼と一度も会ったことがないし、親子かどうかも半信半疑だよ」
グドンが事情を説明すると、老人は本当に驚いた表情になった。
十歳近くまで浮浪児だったことや、渉不城での監禁拘束に関する話をしたときは、とても信じられないらしく、嘘をつけといった顔になった。もし実の息子であるなら、セイイツがずっとそれを知らぬ顔で放置していたのも理解できなかった。
老人は、それからしばらく眉根を顰めてか考えていたが、最後にようやく何度か小さく頷いた。
確かに、息子であるセイイツから一度も孫の存在を聞かされたことがない気がした。
どうも裏に何か複雑な事情があるらしい。
「それじゃ、おまえはどうしてここへ来た? 誰かに、わしが自分の祖父だといわれて、会ってみようと思ったんじゃないのか? いや、それ以前に、どうやってここへ入った?」
「わからない」
グドンは正直に答えたが、老人はその答えが気に入らなかったらしい。
「馬鹿をいうな!」
と初めて怒鳴り声をあげた。
「こんなところまでのこのこ入ってきておいて、どうして入ってきたか、自分でもわからないだと? おまえは阿呆か?」
怒鳴ったといっても、実際には厳しい口調で言っただけだったが、それでも、グドンは耳鳴りがし、後頭部の痛みに頭を抱えた。
老人は慌てて自分の粗忽さを詫びた。だが、詫びたあとで、
「それにしても、おまえは、セイイツの息子にしてはひ弱すぎるな。今までどうやって生きてきた? 誰も身を守る方法を教えてくれなかったのか? もし、ここを抜け出すことができたら、渉不城の奴らには痛い思いをさせてやる必要があるな」
と言ってから、話が本題からそれていることに気づき、
「それより、なぜ、ここへ入ってきたかという話だ」
グドンは、天妖都へ来てからの一部始終を老人に話して聞かせた。
扉のことやボウの誘拐、ここへ誘き寄せられたことなど、何一つ隠さず話した。ボウを救出するには、老人の手助けが不可欠である気がしたからだ。
それを黙ってじっと聞いていた老人は、
「その老女というのはいったい何者なのか…」
と、最後にぽつりと呟いた。
「お爺さんの知った人じゃないの?」
老人は小さく首を振る。それが、知らない奴だという意味なのか、知り合いかどうかわからないという意味なのか、グドンには判別がつかなかった。
「だが、おまえとわしを会わせたかったのは間違いないようだな。だが、その理由がさっぱりわからん」
老人の言葉に深く落胆しながらも、グドンは仕方なく頷いた。
叫び声の主に会えば何かわかるはずだと思っていたが、完全に当てが外れてしまったようだ。当てが外れてもかまわないが、ボウを救い出す手がかりを失ってしまうのが問題だった。それにしても、なぜ彼をここへ誘き寄せたのか、老女の目的がますますわからなくなった。
「それより、まず、そのお爺さんというのはよせ」
と、やにわに老人が言う。
「じゃ、お兄さん?」
グドンが言うと、老人はちっとまた舌打ちし、彼を睨みつけた。食えない餓鬼だ、とでも言いたげだ。
「わしがそんな年齢に見えるか? そうではなくて、二人の関係がはっきりするまで、名前で呼んでいくれ。孫でもない奴にお爺さん呼ばわりされるのは嫌だ。わしはゴウイツ(剛一)という。敬称も何もいらん。ゴウイツと呼べばいい」
「おいらはグドンと言うけど、できれば敬称をつけてほしい。グドンさんでいいから」
老人はグドンを睨んだあと、あははと声をあげて笑った。
「おまえは、セイイツと随分性格が違うな。グドン(愚鈍)か…。なんでそんな名前なんだ。随分失礼な話じゃないか」
名前は浮浪児の仲間がつけてくれたこと、本当の名前が何というのか知らないことを、グドンは話した。
ゴウイツは一瞬哀れむ目になったが、それがむしろ失礼だと気づいたようで、
「何か用があってきたのでなければ、すぐにここを離れたほうがいい」
と話題を変えた。
「どうして?」
ボウの解放に繋がらないのであれば、無意味にここに留まる気はなかったが、それでも、突然、老人が彼を追い返そうとしたのが不思議だった。
「ここに長く留まれば、おまえの命が危ない」




