167 ドミアールの魂胆
これでもう何度目だろうか?
ボロ屑のように床に倒れていたボウは、やっと激痛から解放され、疲れ切った顔を上げた。
目の前には、これまで同様、冷ややかな目をした老女が立っていた。
「これでやっと、三百六十七。これほど病に鈍感な種族がいるとは驚きね。いったい、いつになったらこのお勉強は終わるのかしら?」
まるで、今やっている作業が遅々として進まないのは、ボウに責任があるかの如く、ドミアールは苛々した口調で彼女を罵った。
「このあとに、まだ治療法を教えなくてはならないのよ。どれだけ、わたしの時間を無駄にしているかわかる?」
ボウは返事をしなかった。口を開いて何か喋れば、懲罰が待っているとわかっていたからだ。懲罰とは、いうまでもなく次回与える病の数が増えることだ。
だから、何も言わず、ただ心の中で、
「この頭のいかれた糞婆!」
とだけ毒づいた。
自分の中に、これほど汚い言葉を使える部分が隠れていたことに、彼女は正直驚かざるを得なかった。ここ数日でまるで別人になってしまった気さえした。
今なら、もっと上手にホウカさんを演じることができる、そんなふうに思えた。
「でもね、今日は気分がいいから、少しだけあなたに休憩時間をあげる」
突然、ドミアールは笑顔になった。
よからぬ予感に、ボウは思わず身構える。この女性の気分がよくなった理由がなんであれ、万人にとって不幸であるのは間違いなかった。
「これは、あなたのお陰でもあるのよ」
「わたしのお陰?」
ボウは思わず訊き返さずにはいられなかった。
「そう。あなたの玩具がとっても役に立ってくれたの」
「わたしのおもちゃ…?」
ドミアールはいったい何を言っているのか? そう訝り、眉根を顰めていたボウは、はっと何か思いついた様子で、自分の体を探り始めた。
玩具といわれ、思いつくものは一つしかなかった。方位計についていたあの勾玉だ!
だが、着衣のどこを探しても勾玉は見つからなかった。
考えてみれば、それはわかりきったことだった。最後に見たとき、勾玉は彼女の手に握られていた。それがいつの間にかなくなっている。それなら、気を失っている間に、ドミアールが盗ったとしか思えなかった。
「あれをどこへやったの? すぐに返して!」
無駄と承知で、彼女は言った。今、グドンと繋がれる唯一の希望があの勾玉なのだ。
「それは無理ね。だって、もう私の手元にはないんだもの。でも、安心して。今はあなたが一番信用しているひとの手の中にあるはずだから」
一番信用している…? グドン? グドンがどうして勾玉を持っているの?
ピンときた彼女は改めて老婆を睨みつけた。
「あれを何かの悪だくみに使ったのね? グドンを引き寄せるのに使ったんでしょ?」
称賛するようにドミアールが拍手した。
「正解!」
「なぜ、そんなことをするの? グドンはあなたの大事な孫じゃないの?」
蒼ざめた顔でボウは訊いた。
ドミアールがグドンの祖母だとはもう微塵も信じていなかったが、少しでも相手に皮肉を言いたかった。それにほんの少しだけ相手の良心に訴えたいとの思いもあった。
「大事な孫だからやっているのよ」
ドミアールは平然という。
「嘘だわ。愛していたら、傷つけるような真似をするはずがない。あなたがグドンのお婆さんという話が嘘か、孫を愛しているのが嘘か、そのどちらかよ」
こんなことを言えば、激しい懲罰を受けるのは目に見えていたが、もう黙ってはいられなかった。
「あなたはいったい誰なの? あなたの目的は、わたしを虐めることじゃなくて、グドンでしょ? なぜ、グドンを傷つけようとするの?」
ドミアールは失望したように嘆息した。
「小娘さん、愛情は色々なのよ。断言するけど、この世の中に、わたしほどあの子を愛している者はいないわ。あなたも含めてね。もし仮に、あの子を殺そうとする者がいたら、そいつには永遠の苦しみを与えてやる。死ぬ以上の苦しみをね。それに考えて見て。わたしがなぜあなたを殺さないと思うの? 万が一にも、あの子が悲しむのを見たくないからよ。今、あなたを躾けてあげてるのも、あの子のため。わかった?」
老婆の言葉を聞いたボウは、混乱せずにはいられなかった。
ドミアールの口調から、これは彼女の本心かもしれないと感じたからだ。どんなに変に思えても、この老婆は間違いなくグドンを愛している。
それなら、なぜ、こんな彼を苦しめる真似をするのだろう? グドンを誘き出して何をさせるつもりなの?
「でも、成長するためには試練も必要でしょ?」
混乱する彼女に、答えのヒントを与える口ぶりでドミアールが言った。
「試練なら、多少の痛みは伴うわ。今のあなたがそうであるようにね」
「試練?」
「そう。自分と自分の力を取り戻すためには、それが必要不可欠なのよ」
意味不明なことを言うと、ドミアールはまた真顔に戻った。
「さあ、休憩時間はもうお終いよ。余計な口答えをした罰を与えないとね。今日は切りのいいところで百にする? 早めに基礎を終えて、治療法のお勉強へ移りたいでしょ?」
言うが早いか、屈みこんだドミアールは、ボウの全身に指先で触れていった。
もう苦しむ顔をして、ドミアールを喜ばせるのはやめにしよう。そう決心していたボウだったが、思わず体をくの字に曲げ、苦痛に顔を歪めた。
これほど痛みに弱い自分が情けなかった。
でも、大丈夫、と彼女は必死で自分にいい聞かせた。この痛みもいつか必ず終わるときがくる…。
痛みに耐えながら、彼女は、そのときが訪れるのをじっと待った。
鍾乳洞へ入ったグドンは、何かを探すように岩だらけの地面を見下ろしながら歩いた。
鍾乳洞には、ボウだけでなくきっと老女もいない。グドンはそう確信していた。
だが、それ以外にも、もう一つ予測していることがあった。
勾玉が今どこにあるか、だ。
きっと鍾乳洞のどこかに投げ捨てられているに違いない。そう睨んでいた。ボウや老女以外の誰かが勾玉を所持して鍾乳洞にいる、とは思わなかった。
恐らく、老女は勾玉を持ってここへ入ったあと、適当に投げ捨て牢獄へ戻ったはずだ、というのがグドンの推測だ。
勾玉を持ったままこの鍾乳洞に残れば、それが誰であるにしろ袋の鼠だ。どうやってもグドンと鉢合わせすることになる。
鍾乳洞は、隧道のように左右両方向へ続いているわけではなく、溶岩が流れる割れ目のある奥へと一方向へしか続いていないからだ。しかもその道には距離に限りがある。
つまり逃げ場はなかった。
初めて鍾乳洞へ入ったとき、グドンは、最後まで進むことができなかった。それは余程の能力の持ち主でない限り同じなはずだ。であれば、グドンをここへおびき寄せた誰か、恐らく老女が溶岩の瀑布までいって、そこで自分を待ち伏せするしかない。だが、そんなことをしているとはとても思えなかった。
老女はグドンと対面したくない。だから、こんな回りくどいことをしたのだ。彼をここへおびき寄せた理由が何かはわからなかったが、もう当初の目的を達したはずだ。あとはどんな結果が出るか、牢獄で待っていればいい。馬鹿面下げて、ここに残っている必要はなかった。
案の定というべきか、勾玉は扉からそれほど離れていない場所で見つかった。
勾玉を拾い上げて納戸袋に仕舞いながら、グドンは、立ち止まることなくそのまま先へ進んだ。
グドンには、老女が何をさせたいのか、大方わかったような気がした。
この先にあるのは、まず溶岩の滝だ。だが、これが彼女の考える目的の場所とは思えない。溶岩は危険ではあるが、越えられないことはない。実際、前回は越えた。
老女が行かせたいのはその先、前回叫び声をあげていた男のところだ。
十中八九、グドンとあの男を対面させたいのだろう。
だが、わからないのは、対面させてどうしたいのか、だ。
だいたい、グドンは前回、男の傍に近寄ることさえできなかった。近寄れもしないのに、老女が期待するような何かが起こるとは思えない。
最高幹部たちとの戦いを経て、今は、多少は能力が上がっているかもしれないが、前回と比べどれほど前へ進めるか、正直、自信はなかった。
グドン自身自信がないのに、老女は自信を持っている? ひょっとして、老女はグドンの実力を買いかぶっているのではないだろうか?
さらに大きな問題は、仮に男のいるところまでいけたとして、それが何になるのか。男にグドンを殺させる気か? だとしたら、なぜ、そんな回りくどいやり方をするのだろう? 殺す気なら、天妖都の最高幹部たちに殺させればよかったではないか?
だいたい、怖気づいたグドンが逃げ出さない保証もどこにもない。相手が怪物のような奴なら、おいらは迷わず逃げ出すよ。それが、彼の偽らざる正直な気持ちだ。ボウが怪物に囚われているならともかく、そうでないなら、理由もなく怪物と対峙するのは御免被りたかった。
もちろん、ボウが怪物と一緒にいるとも思えなかった。グドンでさえ近づけなかった場所に、ボウが耐えられるとは思えない。だとしたら、老女の目的は何だろう?
いくら考えても答えは出ない。まさに堂々巡りだった。
グドンは考えることを放棄した。どうせ、このまま先に進むこと以外、彼には選択肢がないのだ。
一番恐れているのは、選択肢がどれほど危険に満ちているか、ではなく、選択肢がないことだ。その選択肢が与えられた以上、どれほど危険だろうと、罠だろうと、喜んで飛び込むつもりでいた。
前回とは違い、今回はゆっくり歩いて進んだ。それゆえ、温度の上昇はそれほど急激ではなかったが、それでも、溶岩の瀑布が近づくころには、強い熱気で徐々に汗をかき始めていた。
結果的には、難なく瀑布に到着すると、前回と同様の方法でそれを飛び越え、さらに先へ進んだ。
前回は、この辺りから男の怒鳴り声が聞こえ始めた。
グドンは警戒を一層強めた。
男の怒鳴り声から身を守るため、何層もの風の鎧で全身を包みこむ。これで、どれほど耐えられるか試してみるつもりだった。
瀑布を離れるにつれ、気温は急激に下がりつつある。
唯一警戒すべきは、やはり男の声だった。
とりわけ問題になるのは頭部への影響だ。
前回は、気づかぬうちに目、鼻、耳から流血し、あのままこの場に留まっていれば、間違いなく命を落としていた。
今回も、命の危険を感じた場合には、いったんこの場を離れるしかないが、可能であればこの場に残って耐える能力を磨き、少しずつでも男へ接近したかった。
それでも駄目ななら、最後は大声で、自分がセイイツでないことを伝えてみる。それで相手がどう反応するか、グドンは是非とも確かめてみたかった。
自分の声が向こうへ届かない心配はしなかった。声量が彼の何倍もある以上、聴力も彼をはるかに凌いでいるはずだ。それなら、グドンの声が相手の耳に届く可能性は十分あったし、その反応如何によって、次の行動を考えればよいと考えた。
ところが今回は、グドンの警戒に反し、男の声はいつまでたっても聞こえてこなかった。
これは、いったい、どういうことだろう?
ひょっとして、男は留守なのか?
男の声が聞こえない現状を、グドンは喜ぶどころか、一層の警戒心をもって迎えた。
グドンの計算だと、現在地から男のいる場所までは少なくとも数キロ離れているはずだ。前回は、この位置が彼の限界だった。ということは、声が聞こえないからといって無暗に接近すれば、実際に怒鳴り声が聞こえ始めたとき、致命傷となる危険性があった。声を聞きながら、いっぽうで自分の状態を確認しつつ徐々に前進するのであれば危険も少ないが、いきなり、強烈な一発を見舞われたら対処のしようがない。
もしかして、男はそれを狙っているのだろうか?
いや、そうではないだろう。なぜなら、男は前回グドンをセイイツと勘違いしていたからだ。グドンは男の声量に耐えられないが、セイイツにとっては、きっと何でもないただの怒鳴り声だ。男にもそれはわかっているはずだった。
仕方なく、グドンは最後の手段を使うことにした。
「おーい! そこにいるのが誰か知らないけど、おいらはセイイツじゃないよ! 悪意はないから、大声で怒鳴らないで! 今からそっちへ行くけど、おいらは、あなたの怒鳴り声に耐えられないから!」
叫び終わって、しばらく相手の反応を待ったが、何も起こらない。
鍾乳洞内は、ただしんと静まり返ったままだ。
もう一度試してみようと、口を開けかけたとき、小さく舌打ちする音が聞こえた。
え? 今、舌打ちした? 舌打ちした音が、数キロ先のここまで届くの?
愕然とするグドンの耳に、疲れ切った男の声が聞こえた。
「大声で怒鳴っているのは、おまえのほうじゃないのか? ちびっこ」




