166 方位計
グドンは、牢獄に監禁されて以来、何度目かの朝を迎えた。
窓に嵌まった鉄格子の向こうから、空が薄っすらと白み始めているのが見える。
目を覚ましたグドンは、起きるのも面倒に感じ、寝ころんだままどんどん明るさを増していく空を眺めていた。
牢獄の中では、とにかくやることがなかった。
それでも、初めの数日は、これまでに手に入れた能力に磨きをかける努力をしたが、すぐにそれにも飽きた。磨きをかけるにも限界があったし、この狭い部屋の中にいては、修練によってどれほど能力が向上したか確かめることさえ難しかった。
当面、この部屋から一歩も抜け出せそうにないことも、彼の行動を消極的にしたし、やる気を削いだ。
仮にボウの肖像画でも所持していたら、一日ぼっと眺めて過ごしたろうが、もちろん、そんなものも持っていなかった。
ところが、この日の朝、グドンは何かがこれまでとは違うのを肌で感じた。
周囲を見回したが、牢獄はこれまでと同じ牢獄だ。何一つ変わったところはない。自分以外に生き物の気配はなく、誰かに覗かれている様子もない。寝ている間に、こっそり食事が置かれていた、というようなこともなかった。
ここ数日、彼は完全な飲まず食わずの状態だった。それでも生きてこられたのは、ボウから得た能力のお陰だった。
喉の渇きと飢餓感が限界にきたグドンは、ボウたち仙族の能力を模倣することを考えた。彼らはこの世にあるすべてのものから、エネルギーを吸収し生き永らえる。それと同じことが自分にもできないか試してみたのだ。
結果は成功だった。
万物の精気、つまりエネルギーを吸い取るとまではいかなかったが、水分に関しては、湿った牢獄内の空気から自由に水蒸気を吸収することができるようになった。ここが牢獄でなかったら、精気のほうも何とかなったかもしれないが、天然の生物がいっさいない状況では、飢餓感を解消するほどの精気を得るのは難しかった。それでも、飢え死にするようなことはなくなった。
ボウと同じ条件で生活できるようになったと知り、グドンは監禁状態にありながらささやかな喜びを感じた。
それはともかく、外見上、牢獄内はこれまでと何も変わった様子がなかった。それなのに、何か違うと感じたのはなぜだろうか? もちろん、彼の気のせいということもあったが、グドンは自分の第六感を信じた。
グドンはまず、改めて壁をすり抜けようと試みた。
そして、前回同様失敗した。
鉄格子のはまった窓から瞬間移動することも試したが、やはり駄目だった。ほとんどの可能性を試し、それがすべて失敗に終わったとき、さすがに自分の感覚に対する疑念がわいた。
何日も牢獄に閉じ込められ、どこか精神的におかしくなっているのではないだろうか? いや、気がふれるというか、心が病み始めているといったほうがわかりやすいかもしれない。
ところが、疲れを感じ何となく手をついた鉄製の扉に、グドンは細かな振動を感じて思わずその手を引っ込めた。その振動は掌を通じ彼の全身に伝わった。
変化の源はこの扉だ! 確信したグドンは、少しだけ力を込めて扉を蹴った。
想像どおりというべきか、扉は僅かに鈍い金属音をたてて向こう側へ開いた。
いつの間にか、扉の鍵が外れていたのだ!
開いた扉から身を乗り出し、一応は周囲を確認したものの、グドンは、そこに誰か隠れていて自分を襲ってくると警戒した訳ではなかった。
扉の鍵はたまたま開いていたのではない。誰かが故意に開けたのだ。つまり、グドンが牢獄を離れるのを相手が許したということになる。許しておきながら、邪魔するような矛盾する行動をとるはずがない。
周囲を確認したのは、むしろ、誰かいてほしいと期待したのだが、案の定、囚われていた牢獄の周囲には、看守も含め人っ子一人いなかった。
この牢獄はどこにあるのだろう? おいらがいるのは今も天妖都の町の中か?
出られることがわかって、まず気になったのはそのことだ。
とりあえず建物から出ることにしたグドンは、通路の突き当りに見えた長い石造りの階段を下りて地上へ出た。
彼の囚われていた牢獄は、何と建物の最上階にあった。
鉄格子の向こうに空が見えていたから、地下ではないと想像できていたが、それでも最上階とは驚いた、牢獄としては、あまり相応しい場所とはいえない。牢獄というより、悲劇のお姫様が幽閉されたお城の中といった感じか。
建物から外へ出たグドンは、牢獄がやはり町の中にあったことを知った。建物のすぐ傍に天妖都の城壁が聳えていたからだ。
ただ、城壁の一部が見える一方、周囲は森に囲まれ、ほかの建物や民家などは一切見えない。そうしたことからすると、どこか町の外れ、普段はひとの近づかない場所にあると思われた。
牢獄のある場所はわかった。だが、問題はそこからだ。
ここからどこへ行って、何をすればよいか? もちろん、ボウを探しに行くべきだが、何から始めればよいだろうか?
途方に暮れていたとき、信じられないことが起こった。グドンの体のどこかから振動が伝わってきたのだ。
また先ほどの変化の徴候かと思ったが、今回は彼の能力が感知したわけではなく、実際に何かが振動していると気づいた。
納戸袋の中だと気づくのに時間はかからなかった。
慌てて納戸袋を取り出したグドンは、振動の源が何なのかすぐわかった。
それは妖器店でボウと一緒に購入したあの方位計だった。
あのとき店主は、勾玉の所持者が危機に陥ると、それが振動となって方位計に伝わると言っていた。当時は、まがい物を売りつける商口と思っていたが、方位計は今、間違いなく振動している。
しかも肝心なのは、方位計がある一定の方向を指し示しているこどだ。
グドンは空に飛びあがり、その方向へ視線を向けた。
方位計は、城内へ入るのに通った正門の方角を指している。指してはいるが、本当の目的の場所は、城門ではなく、その遥か先である気がした。
ともかく、彼は城門へ向け飛翔した。
時間にすればわずか十数秒だ。瞬間移動を使う必要さえない。彼も、方位計の指す場所を見誤らないためにあえて瞬間移動しなかった。
城門の上空まで来たとき、グドンは方位計が指し示している方角を見て、思わずあっと声を上げた。
それはグドンが何度も行った廃墟の方角を指していた。
もちろん、目的の場所がその手前や遥か彼方にある可能性もあったが、グドンにはなぜか、廃墟そのものであると直感でわかった。
心配することがあるとすれば、これが罠かもしれないということだ。しかし、今のグドンにはそれは重要ではなかった。罠だろうが何だろうが、これまでいっさいなかった手掛かりを掴んだのだ。たとえ罠であったとしても、喜んでその罠にかかるつもりだった。
彼は迷わず廃墟へと瞬間移動した。
瞬間移動する直前、彼の目の前に、ボウの姿が見えた気がした。
廃墟に下りたグドンは、方位計に従い、さらに秘密の入口を通って中へ入った。
方位計は間違いなく扉のほうを指している。
焦る思いを抑えながら先へ進もうとしていたグドンは、確認のために再び方位計を見下ろし、思わず顔を歪めた。それまで、勾玉の方向をしっかり指していたはずの針が、突然あらぬ方向を向いてしまったからだ。
それは勾玉の位置が変化したのではなく、方位計と勾玉の連絡が突如途切れた印象だった。
方位計の針は今や、目的地を見失い、その場でゆらゆら揺らめいている。
これは、どういうことだろうか?
考えても無駄と判断したグドンは、そのまま扉の前へと進んだ。
扉は、彼が倉庫へ出入りしていたときと、今も何一つ変わっていない。
その前に立ち、改めて方位計を近づけてみたが、まるで何の反応もなかった。
途方に暮れるとはこのことだった。
グドンは何やらペテンにかかった気がした。先ほどまで、あれほど期待に満ちていたものが、今は嘘のように途方に暮れている。まさにぬか喜びもよいところ。これが詐欺でなくて何が詐欺だろう。
誰かに揶揄われている気さえした。
グドンは、方位計を扉に投げつけたい衝動にかられた。
こんな玩具が、自分をボウのところへ連れて行ってくれると信じるほうが、どうかしていた。この糞忌々しい、玩具の方位計め! そう思うと、これを売りつけた妖器店の店主までが何だか憎らしくなってきた。
怒り心頭に発しながら、それでも、何とか冷静になろうと努力した。
とにかく、少し落ち着いて考えてみよう。
牢獄の建物の前で方位計を見たとき、針は確かに扉のほうを指していた。
あれは見間違いではなかったし、何かの偶然でもない。玩具だろうが、何だろうが、方位計はちゃんと機能していた。それなら、勾玉は当時、確かにこの位置にあったということだ。
では、そのあと、どこへ消えたのか?
考えれれる唯一の場所は扉の中だ。そうでないなら、地上へ出るしかないが、寝台下の入口を通って外へ出たのなら、彼がそれに気づかぬはずはない。
仮に扉の中へ入ったとして、その先どこへ向かったのだろうか?
普通に考えるなら、石造りの牢獄だろう。
となると、何らかの理由で、ボウがいったん牢獄を出てここに現れ、再び牢獄へ戻ったということか? たとえば、牢獄からやっと逃げ出したのはよいが、すぐに捕まって連れ戻されたとか?
いや、そうとは思えなかった。相手がそんなに易々とボウを牢獄から逃がすはずがない。
勾玉は今、ボウではなく別人が持っていると考えるべきだ。具体的には、ボウに暴力を振るっていたあの老女だろう。老女は奪った勾玉が方位計と対であることを知らず、所持したまま牢獄を出てしまった。しかし、それにすぐ気づいて牢獄へ戻った。だから方位計が反応した時間が短かった…。
この場合、方位計が機能したのは、単なる老女の失策ということになる。
だが、グドンはすぐにそれも否定した。
これは、偶然や失策ではなく、故意に行われたものだ。老女は、何かの目的をもってこの扉の前に現れた。その目的とは、間違いなくグドンをここへ誘き寄せることだ。
では、何のために誘き寄せたのか? この扉の前には何も罠といえそうなものはない。
これは、どういうことか?
老女が彼を誘き寄せたかったのは、ここではなく、扉と繋がる四か所のうちのどこかということだろうか? つまり、牢獄、隧道、鍾乳洞、倉庫の内のどれかだ。
この中のどれだろう?
グドンはまず石造りの牢獄を候補から外した。
罠である限り、グドンが罠のある場所まで行けなければ話にならない。だが、幸か不幸か、今の彼には、石造りの牢獄へ行く手段も能力もない。
次に、隧道を候補から外した。勾玉が今隧道にあるなら、方位計がその行方を見失うはずはない。隧道は唯一、地理上、確実に三千キロ以内にある。
残る二つは倉庫と鍾乳洞だ。
このうち、罠が仕掛けられている可能性がより高いのは、鍾乳洞と思えた。倉庫はあまりに狭いし、罠を仕掛けるとしたら、木箱の怪物を目覚めさせグドンと戦わせることくらいしかない。そして何より、グドンは以前、倉庫の中で長時間作業をしたことがある。そのとき、何もせず放っておいて、今さら罠を仕掛けるために誘き出すというのは理屈に合わない。あのとき、グドンは、買い出しのために一時倉庫を離れている。罠を仕掛けようと思えば、機会はいくらでもあった。
そこまで考えたグドンはふと、なぜ老女が鍾乳洞の中ではなく、扉の前まで彼を誘き寄せたのかと疑問に感じた。
ひょっとして、それは、先ほどの隧道の話の逆で、方位計の有効範囲から外れてしまうからではないのか? 仮に実際の倉庫や鍾乳洞がここから遠く離れていたら、有効範囲が三千キロしかない方位計は役に立たない。だから、とりあえず、ここまでおびきよせた。
そう考えると…。
「あ!」
グドンは自分の愚かさに頭を抱えた。
策士策に溺れるとはこのことか? 下手の考え休むに似たり、と牢獄内でそう思ったばかりではなかったか? 老女が誘き寄せたかった場所がどこかは、扉を開いてみればすぐにわかることではないか?
老女はそこへグドンを誘き寄せたいのだ。それをグドンが思案して何になる? 無駄な時間と労力を費やした自分に、グドンは腹が立って仕方なかった。
思わず大きく溜息が出たが、それでも、気を取り直し扉を開けてみた。
一番最初は倉庫が現れた。方位計は無反応だ。次いで隧道。ここも無反応だった。最後に、鍾乳洞に繋がっている扉を開いたグドンは、自分の体が震えているのがわかった。
方位計が反応している!
やはり、老女は、グドンをここへ誘き寄せたかったのだ。
勾玉は、間違いなくこの鍾乳洞の中にある。
とはいえ、ここにボウがいるとは思えなかった。これは罠であって、彼女をグドンへ返すための儀式ではない。老女の目的が何であるにせよ、よからぬ魂胆があるのは目に見えていた。
それでも、グドンは逸る気持ちを抑えながら鍾乳洞へ足を踏み入れた。
これで、少しだけボウへ近づいた。
彼はそう確信していた。




