160 バンゴコウの死
あれから何日経ったろうか?
今のボウには、もうそれさえもあやふやだった。
ドミアールからはじめて攻撃を受けて以降、体の状態は日に日に悪化している。
はじめの一日はそれでもまだ我慢が出来た。腹部の痛みは激しかったものの、頭の中で色々なことを考える余力が残っていた。ドミアールを呪い、グドンは今どこで何をしているだろうと想像する力があった。だが、それ以降は、考える力さえ彼女の中から奪われていった。
何も考えられず、一瞬一瞬をただ痛みに耐えるのみ。何かの弾みで、ほんの少し痛みが治まると、唯々それが永久に続いてくれますようにと一心に願った。
ドミアールの言う、これが何の病で、原因がどこにあるかなどといった御託は考えもしなかった。考えたところで無駄なことはわかっていた。治療師の最低限の知識があればともかく、病や治療にまったく無知な自分に、ドミアールの求める答えが出せるはずがない。
病が自分で告白する? 馬鹿々々しいにもほどがある。その汚い口をひん剥いて、お尻の穴に突っ込んでやりたい、そんな衝動にかられた。
ボウは生まれてはじめて誰かを憎むということを知った。
その相手がグドンの血縁者であることは残念だったが、それも相手のついた嘘に決まっていると考えることにした。
それに、どうせ、もうすぐすべてが終わる。
心残りなのは、グドンと過ごせるはずだった数百年の時間を失ってしまうことだった。いや、数百年なんて贅沢はいわない。せめて死ぬときだけでも、グドンに傍にいてほしかった。だが、今となっては、それも贅沢な願いであり、叶わぬ夢だ。
今や激痛は、腹部だけでなく全身に広がっている。
ほんの少し身動きするだけで、呼吸が止まりそうになり、激しい痛みで生まれてきたことを後悔する羽目になった。
それでも彼女はほんのわずかに腕を引き寄せ、握っていた掌を開いた。
開いた掌に勾玉が握られていた。
妖器店でグドンが買ってくれた方位計の付属品だ。
これを握りしめていれば、必ずグドンが助けに来てくれる。今はそれだけがボウの心のよりどころだった。
グドンには自分の危機が伝わっているだろうか? 今は空を飛んでこちらへ向かっているところ? この牢獄がある建物の外で、看守たちと戦っている最中なの?
次の瞬間にも、扉が開いてグドンが姿を現す気もしたが、いっぽうで奇跡は起きないと諦めている冷静な自分もいた。
もう腕を上げている力も残っていない。
目の前に何か見えた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
グドン? グドンが来てくれたの?
次第に視界がぼやけ始め、彼女は深く暗い奈落の底へ引き込まれて行く錯覚に襲われた。
そのとき、誰かが耳元で何か囁いた。
「自己免疫性大腸炎の一種。原因は魔族病原体七十二号。仙族が感染すると、免疫の抗体に異常が生じ、大腸の一部を異物と判定、攻撃を始める」
不思議なことに、聞こえたのはボウ自身の声に似ていた。
「ほら、出来たじゃないの」
遠くで、誰か別の女性の声がした。ドミアールだ。
「でも、正解を出すのが遅すぎたわね。残念でした」
それが、ボウの記憶に残った最後の言葉だった。
突然、グドンが自分の執務室へ現れたときも、チンスは驚かなかった。
いつか必ず訪ねてくると感じていたし、それは彼女が望んでいたことでもあった。
ここ数日、彼女は、上司や天妖都の最高幹部たちに仕返しする方法を探し求め、必死に動き回っていた。だが、残念ながら、その成果は皆無に等しかった。
幹部たちの防御がそれだけ強固なのか、彼ら自身がグドンの件に関しては大した情報を持ち合わせていないのか、どちらかだった。
いずれにせよチンスにはお手上げ状態だった。彼らがグドンに何を求め、何をさせようとしているかわからなければ、反撃のしようがない。
いっぽう、グドンの素性調査についても何一つ進展はなかった。
ボンコたちの調査能力が劣悪だとは思えなかった。報告がまったく上がってこないのは、渉不城の情報統制がそれだけ厳格だと思うほかない。ただ、二日前、渉不城以外の場所からグドンの情報を得られる可能性がある、とボンコから連絡があった。
今はその結果を待っている状態だ。
だが、こうした状況を打開するもっとも有効な方法は、グドンが動いてくれることだった。彼女はそれを心待ちにしていたが、ここ数日、まったく動きがなかっただけでなく、彼がどこにいるのかさえわからなかった。
そんな中でのグドンの来訪に、チンスは思わず白い歯を見せそうになり、相手の強張った表情に慌てて口元を引き締めた。
「ボウのことがうまくいってないのね?」
うまくいっているはずがなかったが、それ以外、言葉が見つからなかった。
グドンはそれには答えず、
「あなたの上司のところへ連れて行ってくれる?」
と有無を言わせぬ口調で要求した。
チンスは、頷くと同時にすぐ椅子から立ち上がった。
もちろん、グドンを止める気などなかった。それどころか、不謹慎といわれようが、グドンとバンゴコウの対話を自らの目と耳で確認したくて仕方なかった。
グドンを連れてバンゴコウの執務室を訪れ、扉をノックすると、
「ちょっと待ってくれ!」
と室内からやや苛立ちの籠った声が聞こえた。
驚いたのは、溜息交じりにチンスが笑顔を向けようとしたとき、隣りにいたグドンがいきなり扉を蹴破ったことだ。
扉は、向こう側へ倒れるのではなく、バンッと大きな音をたて木っ端微塵になって吹き飛んだ。
机の向こう側に座り、何かの機器を操作していたバンゴコウは、顔を上げたものの状況がのみ込めず呆然としている。
「機密情報に接していたから、接続をまず切断する必要があったんだ」
と言いかけたが、明らかにそんな状況ではないと気づき口をつぐんだ。
それはチンスも同様だった。隣りに立っているのが、自分の知っているグドンとは思えなかった。それどころか、扉が一瞬で吹き飛んだことさえ現実だと受け止めきれない。それは、蹴破られたというより、足で触れただけなのに扉が自ら破裂した感じだった。
彼らの驚愕と混乱にはかまうことなく、
「あなた方は、ボウをどこへ連れて行ったの?」
と、グドンは前置きなく尋ねた。
バンゴコウは何とか余裕を見せようと、笑顔を取り繕った。だが、グドンが一歩前へ出たことで、その笑顔をひっこめるしかなくなった。相手から強い殺意が感じられたからだ。
「答える前に、まず考えたほうがいいよ。それで、あなたの運命が決まる」
さすがにバンゴコウも不快を隠せなくなった。普段から権力に守られ、かしずかれるのが当然の中で生きてきた男だ。気を遣い、お追従を言うのは相手のほうで、自分ではない。
この世間知らずの小僧は自分を王様か何かと勘違いしているようだ。誰とどんな関係があって、最高幹部がなぜこいつに注目しているのか知らないが、自分自身には何の力もないとわかっていない。それを頭に叩き込んでやらねば。
「わたしは何も知らんね。そのボウというのはいったい…」
誰なのか、と嘯こうとしたが、バンゴコウにはもうそのチャンスがなかった。
グドンの体がやにわに炎に包まれた。
周囲の空気が震え、音のないはずの炎がボンゴコウの耳には轟々と響き渡っているように聞こえた。
炎は一瞬で執務室の天井まで達したと思うと、すぐにそれを突き破り、さらに上層階へと吹きあがった。
もし、建物の外に立って見ていた者がいたとしたら、最上階の屋上から吹きあがった炎の柱が天まで上るのを目撃したことだろう。
炎はあっという間にバンゴコウの体ものみ込んだ。
「グドン、やめて! この人は首謀者じゃない!」
チンスが叫び声をあげたが、建物の破壊音で完全に打ち消され何も聞こえない。いや、たとえ、それがグドンの耳に届いていたとしても、何の効果もなかったのははっきりしていた。
バンゴコウは何が起きたか把握することすらできず、大きく口を開けたまま、自分の顔や手足が溶けていくのを見守るしかなかった。
「あなたが何も知らないのはわかっている。ただの役立たずだ。でも、意識したしないにかかわらず、ボウを傷つけることに加担した。だから、それなりの報いを受けてもらう」
冷静そのもののグドンの声が、チンスをさらに震え上がらせた。
気が付くと、炎は自分をも包み込んでいる。
だが、不思議なことに、体には何の異常もなく、少しの熱さも痛みも感じなかった。
これは自分の能力ではなく、グドンが守ってくれているからだ、と彼女にはわかった。グドンはまだ冷静な心を残している。それなのに、これほど残虐な行為を顔色一つ変えず行っている。バンゴコウや幹部たちはいったいボウに何をしたの?
バンゴコウが燃え尽きるのを待つことなく、グドンは穴の開いた天井から上空へと飛び上がった。
自分を包み込んでいた炎が消えると、チンスは慌てて部屋を出て下層階へ向かった。
外でこの後の状況を見守るためだ。
自分にはもうグドンを止めることなど出来ない、とわかっていた。また、グドンの行為が、このままで済まされるとも思えない。最高幹部たちが現れ、必ず彼に鉄槌を下すはずだ。
結果がどうなろうと、それを見ないではいられなかった。
チンスの予想はすぐ形になって表れた。
炎に包まれたグドンが上空でいくらも待つことなく、一人の妖族が空を飛んで姿を現した。
中年に差しかかったばかりに見えるその妖族の女は、グドンを見ると、不敵な笑みを浮かべた。
「あなたがグドンね。わたしは…」
彼女が自己紹介を始めようとするのを、グドンは手で遮った。
「黙って。あなたが誰かなんて知りたくない。ボウをどこへやったの? 誰の命令でこんなことをやっているの?」
グドンは、端からバンゴコウなど相手にしていなかった。すべてはもっと上の者を誘き出すためにやったことだ。少なくともグドンを天妖都に足止めし、そのためボウを利用しようとした理由を知っている者を。
女は大きな胸をさらに強調するように突き出すと、
「誰に口をきいているの?」
と口をへの字に曲げた。
「おいらをここに足止めしたのは、あなたじゃないよね? あなたはただの使い走りだ。おいらが知りたいのは、あなたのご主人様だよ。犬に用はない。ご主人様が誰で、ボウをどこへやったかだけ教えて」
侮辱された女は、怒るどころか、平静さを取り戻した様子で笑って見せた。
「それは、あなたの能力次第ね。自分の力で喋らせてごらんなさいよ」
そういうと、あっという間にグドンから数百メートル遠ざかる。
その速度に、グドンも眉を顰めた。
瞬間移動を使わず、普通に空間を移動するだけなら、おそらく今のグドンよりも速い。
警戒するグドンの前に、突如、十数体の妖獣が現れた。女が後退したのはこいつらに空間を空けるためだ、とグドンにもわかった。
妖獣の一体一体から蟻巣島の妖獣にも引けを取らぬ強い妖力が感じられる。蟻巣島のころのグドンなら、これほど多くの妖獣を相手にする能力はとてもなかったはずだ。だが、今のグドンは平然としていた。
妖獣と向かい合うグドンの視界に、新たに三人の妖族が出現した。
女を含め、最高幹部はこの四人ということか。二人は老人、一人は三十代前半の若者だ。もちろん、それは外見上のことに過ぎないが。
三人は自ら手を出す気はないらしく、お手並み拝見とばかりにグドンの様子を観察している。老人の一人は腕組みをする余裕さえ見せていた。




