159 ボウの危機
「え?」
思わぬことをいわれ、グドンは一瞬戸惑った。
「わたしがセイイツのことを恨んでいるはずだ、とおまえは言ったろう? 正直に言うが、恨んではいない。なぜか? 奴の目には傲慢の欠片もなかったからだ。あるのは、悲しみと絶望だけ。わたしを見る目も悲しみに満ちていた」
「おいらもそんな目をしているというの?」
「まだ悲しみに淀んではいないが、どこかよく似ている」
グドンはどきりとして返事に窮した。
ジョフウコの言葉をどう受け取ればいいのかわからなかった。これは皮肉か、それとも何かの警告か?
そんな彼に助け舟を出すようにジョフウコは言った。
「今さら聞くのも何だが、扉を開けてどうするつもりなんだ?」
「ある女性を助けたいんだ」
「もしかして、牢獄にその女性が閉じ込められているのか?」
グドンが頷く。
「だったら、役に立つかどうかわからないが、合鍵を使ってくれ」
今回は、相手が本当に自分を思って言ってくれているとグドンにもわかった。きっと、ジョフウコの言葉に裏はない、不思議にもそんな気がした。
「ありがとう」
グドンは礼をいったが、ジョフウコは、
「あまり自分を追い込むな。生きるのが辛くなるぞ」
と気遣う目線で溜息をついた。
グドンには合鍵を使う気がないと察したようだ。血で汚れた合鍵を使うより、別の方法を探して女性は助けるつもりだ、と。
グドンはそれ以上何もいわず、別れの挨拶さえせずにジョフウコの脳を離れた。
一人残されたジョフウコは、名残惜しそうにグドンが消えた空間をしばし眺めたあと、再び溜息をついて目を閉じた。
ジョフウコの脳から出たグドンは、倉庫を離れる決心をした。
もうここで出来ることはない。
まだ中を確認していない木箱はいくつもあったし、その中に、ボウが気にしていた仙族がいるかもしれなかった。だが、今は、それを確認する気には到底なれなかった。
ジョフウコの木箱の横に立ったまま、グドンは、中で横たわるジョフウコを見下ろした。
視線はいうまでもなく彼の足元へ向かう。
何の変哲もない布製の靴だ。その中敷きには、ジョフウコのいう合鍵が隠されているはずだった。
だが、ジョフウコが予測した通り、グドンはそれに手を付けるつもりはなかった。手を付けるのは、あまりにも虫が良すぎると思ったからだ。あれだけジョフウコの生き方を否定しておきながら、その厚意には甘えるというのでは、恥知らずもいいとこだ。
唯一気になったのは、こうした行動をボウが許してくれるかどうかだ。
牢獄の中を覗けたとして、それが彼女の救助に繋がるとは思えなかったが、どんな小さな可能性も今は無視できない状況にあった。その機会を放棄して、綺麗ごとをいうグドンを、ボウは悲しく思うかもしれない。
だが、今のグドンにはこれしか選択肢がない気がした。
ボウには頭を下げて謝ろう、そう心に決めた。
ボウの行方を突き止めるため、グドンに残された方法はあと一つしかなかった。彼とボウを引き離すようチンスに命令を出した最高幹部たちと会うことだ。
だが、それが容易に叶うとは思えなかったし、叶ったとして、彼らがすんなりボウを解放してくれるとは思えない。力の対決は避けられそうになかった。
結局、自分も最後は力に頼るしかないのか…。まさに溜息の出る思いだった。しかも、対決したとして、彼らに勝てる自信は、今のグドンにはまったくない。
肝心なのは、彼らが自分に何を求めているか、だった。
最高幹部はグドンがこの町を離れることを望んでいない、とチンスは言った。では、彼をここに足止めして、何をさせるつもりなのだろうか?
それがグドンにはさっぱりわからなかった。
何かさせたいのなら、それをグドンに明示しなくては、何も始まらないではないか? 目的をあやふやにしたまま、彼に圧力だけをかけるのは愚の骨頂といえる。彼らはなぜそんな真似をするんだろうか?
考えても結論は出そうになかった。
とりあえず、チンスの上司と話をする。それ以外の方法を今は思いつかなかった。
グドンは、倉庫を離れるため、いったん姿を消して扉を通り抜けようとした。
だが、彼が扉に触れたとき異変が起こった。
再び、何か所かの目的地へ通ずる鍵型の穴が現れたのだ。穴だけでなく、その上部には“表示”が浮かんでいる。ただこれまでと違うのは、鍵穴が三か所ではなく、四か所だったことだ。隧道、鍾乳洞、倉庫と並んで、今は石造りの牢獄も見える。
見えたのは牢獄の床や壁だけではなかった。そこにボウの姿までがはっきりと見えた。
彼女は誰か年配の女性と向かい合うように立っていた。女性はこちらに背中を向けているから顔は見えないが、囚人の一人なのか、身なりがひどく薄汚れているのが見てとれる。
その老女の手が突然ボウの腹部に伸びた。
その光景を見ていたグドンは思わず、
「あ!」
と声を上げた。
ボウは逃げる素振りを見せたが、老女の動きの素早さには到底及ばない。腹部に衝撃を受けたボウは、思わず体を前かがみに屈ませる。束の間あって、見上げた彼女の顔は恐怖と苦痛で歪んでいた。
グドンの目には、ボウの額に浮かんだ大粒の汗までがはっきり見えた。
ボウが怪我をしたのは明らかだった。
表情の歪みがさらに大きくなり、その痛みを耐えようときつく唇を噛んでいる。実際にはただ唇を噛んでいるだけだったが、グドンの目には、噛んだ唇から真っ赤な血が顎へと流れ落ちるのが見えた気がした。
グドンの体が怒りに震えた。
「やめろ!」
そう叫びそうになったが、そんなことをしても無駄なのはわかっていた。効果がないばかりか、グドンの存在さえ向こうへは伝わらないだろう。
それでも、目の前に見える鍵穴へ向かって全力で飛び込みそうになった。
次の瞬間、それまで見えていた光景がパッと消えてなくなり、代わって、新たな光景が現れた。
ボウは牢獄の石畳の上で横たわっていた。
見るも無残な姿で、その顔には血の気がまるでない。きつく閉じられた瞼がときより痙攣するように震える以外、ほとんど動きも見られなかった。
それでも、彼女がとんでもない苦痛と戦っていることが、グドンにも伝わった。
ボウは死にかけている。グドンはそう確信した。
もし、相手の目的がグドンを怒らせることにあったとしたら、完全に成功していた。
グドンは自分の体が憤怒で何倍にも膨らんだ気がした。
血管という血管が今にも破裂し飛び散りそうだ。
相手が誰にしろ、故意にこうした光景をグドンに見せているのは明らかだった。しかも、見えた二つの光景からして、今起こっている状況ではない。少なくとも、一つは過去に起こったことだ。
相手にはそれを再現して見せている。
それ以上見るに堪えず、その光景から目を背けると、グドンはその場を離れ扉を通って廃墟へと戻った。
だが、これまでと違い、寝台下の入口を経由して外へ出たものの、もう姿を変えることもなく、いったん上空へ飛び上がることもなかった。
グドンは天妖都の城壁を脳海に思い浮かべた。
次の瞬間、彼の体はすでに城壁の前に移動していた。
彼の背後には、新たに道が作られたように、何もなくなった直線の空間が続いている。
体を縮小することなく、瞬間移動した結果だった。
それを振り返ることなく、彼は城壁を飛び越え、さらに情報局へ瞬間移動した。
彼の中にほんの少し残っていた冷静な心が、移動する直前、体を小さな粒子に変えた。そのお陰で、彼の背後には瓦礫が広がることもなく、引き裂かれて粉々になった生き物の死体が並ぶこともなかった。
グドンは情報局へ飛び込むと、そのままチンスの部屋へ向かった。




