151 牢獄の老婆
扉が閉まったとたん、チンスは恐慌に襲われた。
この扉はもう二度と開くことはない。少なくとも、見知らぬ石造りの空間へは。なぜか、そんな確信めいたものがあった。
手をかけ、狂ったように扉を開こうとしたが、案の定、開いた先は隧道へと続く通路の前だった。辺りはしんと静まり返り、物音一つ聞こえない。
もちろん、ボウの姿はなかった。
チンスは全身から血の気が引くのがわかった。
自分の荒い呼吸音だけが耳の奥で大きく響く。
慌てて扉を閉め、再び開いたが、結果は同じだった。
二度、三度、四度…。
何度繰り返しても、扉の向こうに見えるのは隧道ばかりだ。
背後から近づいたヤスとミムが、チンスの腕を優しくとらえてそれをやめさせた。
「もう無理です。さっき見た場所へは繋がりません」
二人を振り返ったチンスの目は、怒りに燃えていた。
「なぜ?」
そう口にしたものの、チンス自身にも問いかけの意味がよくわからなかった。
当然のように、ヤスとミムは戸惑った顔になる。部下の愚かさを嘆くように、チンスは喉の奥で唸り声をあげた。意味が分からないの? 愚かね。なぜというのは、もちろん…。
怒鳴りつけようとして口を開こうとしたが、唇が震えるだけで言葉にならない。
そうだ!
その瞬間、どうして、“なぜ”と問いかけたのか理解できた気がした。なぜ、わたしはこんな役目をさせられたのか? そして、もう一つ、なぜ、ボウはどことも知れない石造りの空間に閉じ込められることになったのか?
今回起きたことが、偶然発生したいわゆる事故だとはとうてい思えなかった。間違いなく、これは誰かが仕組んだ巧妙な罠だ。仕組んだのが誰かはわからないが、組織を通じ、チンスはその罠にボウを陥れるため片棒を担がされた。
まあ、それは仕方ないとしよう、とチンスは自分に言い聞かせた。元々、組織とはそうしたものだ。利用できるものは何でも利用するし、その際、個人の感情などいっさい考慮されない。
彼女が一番気になったのはそのことではなく、実際には起こらなかったある可能性についだった。もし仮に、ボウより先に自分があの石造りの空間へ入っていたら、どうなっていたろう?
ボウがあの空間へ一人で入ったのはたまたまに過ぎない。チンスやほかの者たちも一緒に中へ入った可能性は十分にあった。今回の一件に唯一偶然があったとしたらそこだ。
その場合、チンスたちがどう扱われていたかはいうまでもなかった。彼らが必要なのはボウだけだ。チンスなどただの余計なお荷物に過ぎない。そのままボウと一緒に置き去りにされるのならまだいいが、場合によっては、口封じに殺されていたかもしれない。仮に今回の罠を仕掛けたのがチンス自身なら、たぶん、そうしただろう。
チンスは胸に激しい憤りが込み上げるのを抑えられなかった。
わたしは捨て駒として利用され、もう少しで殺されるところだった!
だが、悔しさが込み上げるいっぽうで、頭のほうは急激に冷えていった。
今は、何としてもグドンを見つけることが肝心だ。この扉をもう一度開けられる者がいるとしたら、それはグドンしかいない。
チンスは部下たちに改めて視線を向けた。
「グドンを探すのよ。使える者は全員使って。それと、ボンコ!」
太った青年を手招きし、その耳元に唇を寄せて囁く。
「渉不城に本当にグドンという青年がいたかどうか調べて。彼に関することなら何でもいいから、とにかく、根掘り葉掘り調べるの。あらゆる情報をほじくり返して。わかる? それと、このことは誰にも内緒にすること。バンゴコウはもちろん、すべての上司に対してもね。わかるよね?」
ボンコは頷くと、すぐ彼女の前から姿を消した。
ヤスやミムたちも、とうに部下を引き連れ出口へ向かっている。
「誰か知らないけど、あなたはわたしを殺そうとした。そのことは、どんなことがあっても許さない」
そう呟くと、チンスは尖った小さな歯で自分の唇を強く噛み締めた。
石造りの牢獄…。
「あなたは、グドンやセイイツを知ってるんですか?」
とボウが訊く。
老婆は顔にかかっていた髪をかき上げ、じっと彼女へ視線を注いでいる。
露わになった老婆の顔には、深い皴が刻まれていた。それでも、若いころはきっと、はっとするほどの美人だったに違いないと思わせた。完璧に整った目鼻立ち、どこか高貴な匂いのする出立…、彼女がかつてどこかの国の大スターだったといわれても、ボウは疑わなかった。
だが、ボウが注目したのは相手の美しさではない。目を奪われたのは、顔の輪郭や目、鼻、口の一つ一つがどことなくグドンと似ていたことだ。
セイイツが話していたグドンのお嫁さん? 老婆は確かにそう言った。普通に考えるなら、老婆とセイイツは血縁関係あると見てよいだろう。自分をお嫁さんというからには、当然、グドンとも縁戚関係にあるはずだ。
「グドンのお母様?」
何も答えない老婆に向かい、ボウはさらに質問を重ねた。もちろん、外見上、老婆はグドンの母親ではありえない。だが、関係がはっきりする前から「お婆様ですか?」と訊くのは失礼な気がした。万が一にも、グドンの母親の姉であった場合、相手の不興を買う怖れがある。逆に、若く見られて腹を立てる女性はいないはずだった。
想像どおり、老婆の表情が目に見えて柔和になった。
「頭の良い子ね。礼儀もわきまえている。きれいな顔をしているけれど、それは本物の顔? それとも、仮面をかぶっているの?」
グドンとの関係を知っているということは、自分が仙族であることも知っているのかもしれない。ボウは何も言わずホウカの仮面を脱いだ。
「本当に仙族なのね…。もういいわ、仮面をつけて。そのほうが話しやすいし」
ボウは意外に感じたが、それを表には出さず再びホウカの顔に戻った。
この人は仙族の姿が見えないんだわ。
老婆の反応から、ボウはそう感じとった。グドンとどんな関係にあるにしろ、仙族を目視できる能力は備わっていない。
「あなたは今、訊きたいことが一杯あるでしょ?」
と老婆が微笑みかける。
「このお婆さんが誰で、どうしてここに囚われているのか、自分がここへ連れてこられた理由は何か」
ボウは隠すことなく頷いた。
もう一つ、“セイイツが話した”という言葉の持つ意味を知りたかった。つまり、グドンの父セイイツは今も生きていて、最近、会ったことがあるのかどうか。
「答えられることには全部答えてあげる。でも、このまま話を続けるのは、さすがに不作法よね?」
老婆は鎖に繋がれた手を軽く振った。
とたんに牢内が明るくなり、石造りの壁や天井が薄紅色の漆喰に覆われる。床も美しい大理石に変化し、老婆は、その上に納戸袋から取り出した木製の卓や椅子を並べていった。
信じられないことに、いつの間にか、老婆の手枷足枷までが消えてなくなっている。汚れて皴のよった着衣も新しくなり、肌艶までも幾分若返って見えた。
最後に老婆は、急須や幾つかの湯飲みを用意し、
「あなたはお酒はいける口?」
とボウに尋ねた。
彼女は首を小さく横に振る。
お酒どころか、お茶さえ飲むことは滅多になかった。
「じゃ、お茶ね。さあ、座って頂戴」
ボウは言われるまま、老婆の向かいにある椅子にかけた。
これほど簡単に環境を変えられるのなら、なぜ、汚れた身なりで石畳の上に直に座ったりしていたのか?
不思議に思っていると、老婆はそれを見透かしたように、
「目に見えているものを信じないで。すべてまやかしよ。当たり前ですけど、手枷、足枷も外れていない。そう見えるだけ。こうして模様替えをするには凄い精力を使うのよ。今は精根尽き果ててもうヘトヘト」
ボウが驚いて席から立とうとすると、老婆は可笑しそうにふふと笑った。
「あながち冗談ともいえないけど、まあ、そこまでひどくもないわ。さあ、座って」
これは、このお婆さん流の冗談で、いわば挨拶代わりだろうか?
わたしと親密になりたくてあんなことをいったの?
怪訝に思いながらボウが座ると、老婆はお茶を注いだ湯飲みを彼女の前に置く。
すぐに自分の湯飲みにも注いで、ボウの反応を待つことなく、おいしそうに口をつけた。
それに倣うように、ボウも一口お茶をのむ。
お茶はまやかしではなく本物だった。熱くはないが、ほどよく温かい。
「わたしはグドンの父方の祖母よ」
老婆はいきなりそう言った。




