149 暗流
朝、目が覚めたとき、隣りで寝ているはずのグドンの姿が消えていることに気づいて、ボウははっと上半身を起こした。
驚いたのは、グドンがいなくなったからではなく、彼が旅館の部屋を離れるのに気づかないほど、自分が熟睡していたことだ。
ふと溜息をつき、視線を落として、ようやく自分がまだ裸のまま何も身に着けていないのに気づいた。
気づいて、慌てて寝具を胸元まで引き寄せたが、動悸は治まらず、頬がカッと燃えるように熱くなった。
仙族にとって、肉体的な繋がりはそれほど重要ではないと聞かされていた。それなのに、こんなに疲れ切るほど、わたしは…。
そこまで考え、脳裏で昨夜の喜びを反芻している自分に気づき、改めて恥じらいに身を焦がした。
駄目、駄目、仙族のわたしがこんな欲望に負けるはずがない。しっかりしないと…。
両掌で自分の頬を何度か叩き、慌てて身支度を整えた。
寝具を片付け、ホッと一息ついたとき、卓の上に手紙が置かれているのを見つけた。
今、何時だろう?
ようやくそのことが気になった。
辺りは完全に明るくなっている。真夏ではなく、日が昇る時間も比較的遅いから、もう早朝と呼べる時間ではないはずだ。
グドンの身を案ずる必要はないとわかっていたが、何やら胸騒ぎがして落ち着かない気持ちになった。
朝食は、朝七時からと宿の主がいっていた。
人族は早朝、すべての客が一つの広間に顔を合わせ、一緒に食事をとるのが習わしのようだった。食事の膳を部屋へ運ぶことも可能といわれたが、グドンとボウはどちらも断った。どうせ、ボウは食事の必要はない。グドンも、人族と膳を並べる気はないと言っていた。彼らに正体を知られる恐れはほぼないが、それでも、用心するに越したことはない。
グドンの帰りを待って、すぐに宿を離れよう。
出来るだけ早く天妖都を離れ、どこか別の土地へ行く。
昨日、二人でそう決めた。
そんな思いが通じたのか、部屋の扉が小さくノックされ、顔を覗かせた宿の使用人が、
「お連れ様が、玄関でお待ちです」
と彼女に告げた。
グドンが帰ってきたと早合点したボウは、慌てて髪を整えると、いそいそと部屋を後にした。
帰ってきたグドンがなぜ、自分で部屋に戻らず、ひとに頼んで彼女を玄関へ呼びつけたのか、不思議に思う気持ちすらなかった。
だが、玄関まで出て、そこにチンスの姿を見たとき、彼女は自分がとんでもない勘違いをしたことに気づいた。
「あなたは確か…」
どうして、この女性がここにいるんだろう? 彼女は確かチンスという情報局の幹部だ。グドンにとっては上司にあたる。仮眠所で一度顔を合わせていた。
これはどうもうまくない状況だ…。彼女にもさすがにそれがわかった。
もし仮に、ここにグドンがいたとしたら、やはり情報局の監視能力の高さに舌を巻いたに違いない。これほど早く居所を突き止められるとは、彼も思っていなかった。
「グドンが帰るのを待ってるんでしょうけど、彼は戻らないわ」
チンスが笑顔で言った。
ボウは返事をしなかった。今はリョウという人族の仮面を被っている。
チンスの笑顔がさらに大きくなる。
「わからない振りをしても駄目よ。さっき、あなたは確かって言ったでしょ? それに、人族じゃなくて、ボウなのはわかってる」
また自分は失態を演じてしまった。
しかし、それが却ってボウの気持ちを楽にした。すぐに覚悟を決め、
「戻らないって、グドンはどこにいるの?」
と、相手を睨みつける。
「ふふ。勘違いしないで。彼を拉致したとか、彼があなたを見捨てたとかいうんじゃないから」
そんなことわかってます、と反論したかったが、ボウは黙って頷いた。
この妖族は信用してもいいとグドンが言っていたし、面と向かって彼女と言い争うのはいずれにせよ得策ではない。
「彼はもう任務先に向かってる」
とチンスが短く言った。
「だから、あなたもわたしと一緒に来て。グドンがそこで待ってるから」
ボウは眉根を寄せ考えた。任務? どんな任務にせよ、グドンが今、自ら積極的に任務を受けるとは思えなかった。であれば、任務そのものが嘘か、無理強いされたかのどちらかだ。この人は本当にグドンがいうように信用できる人だろうか?
そんな彼女の疑念をチンスも敏感に嗅ぎとったようだ。
「昨日、グトンとあなたはケンシに置き手紙を残したわよね? もちろん、それを情報局が盗み見すると知っていて残した。違う?」
ボウはやはり黙って頷く。
「その中に書かれていた“扉”の一件だけど、そのことが今、情報局で大問題になってるの。この情報が広まれば、天妖都中が騒動になるかもね」
それは、ボウも分かる気がした。何十もの怪物が眠る倉庫や、鍾乳洞の存在は、人口百三十万の天妖都にとっても、一大発見に違いない。
だいたい、これまで隧道を発見しながら大騒ぎにならなかったことのほうが不思議だった。
だが、それとグドンやボウと何の関りがあるのだろうか? 関心があるなら、自分たちで行って確認すれば済むことだ。二人を立ち会わせる必要はどこにもない。むしろ、情報局が独自に調査し発見したことにすれば、彼らの手柄になるではないか。
「わたしはもう、あの扉のところへ行く気はありません。グドンにもなかったはずだわ。だから、その任務というのは嘘ですよね?」
ボウははっきりと自分の意思を伝えた。
そんな彼女を意外そうに見てから、チンスは小さな尖った歯をのぞかせた。
「あなたは、グドンに相応しくないと思ったけど、そうでもないかもね。でも、あなたは誤解してると思う。昨日までのグドンなら、誘いを断ったでしょうけど、今は違うの。わかる? 扉に関して、あなた方とわたしたちには認識にズレがあったのよ」
「どういう意味ですか?」
彼女の言葉に興味を引かれ、ボウは思わず訊き返した。
「あなたたちが開いたとき、扉の向こうには、三つの世界が広がっていた。鍾乳洞と隧道、怪物のいる倉庫。そうよね?」
それを聞いて、ボウは相手のいわんとすることがわかった気がした。グドンとボウの推測はやはり正しかったのだ。どうした理由からか、あの扉は隧道へしか繋がらないときがある…。
その考えが正しいと証明するようにチンスが言った。
「わたしたちが確かめたときは、扉は一つの場所にしか繋がっていなかった。あなたがたのいう隧道よ」
ボウが驚きもせず黙って頷いたので、チンスは眉を顰めた。
「そのことを知っていたの?」
思わず訊いてしまってから、チンスは内心しまったと舌打ちした。グドンもそれを知っていたとなると、これから話そうとすることに矛盾が出る…。
だが、ボウはそうした彼女の表情の変化には気付かず、
「いいえ。そうではないかと推測していただけです」
と答えた。
チンスは何とか誤魔化そうと、
「とにかく、何十回も扉を開け閉めしたけど、今は隧道にしか繋がらない。だから、グドンの協力が何としても必要になったわけ」
と口早に説明する。
ボウは小さく頷いた。
そういうことなら、グドンが再度扉を確認しに行く気になっても不思議ではないという気がした。これまではただ推測していただけだった。実際にそうだったとなれば、話が全く違ってくる。
「だから、わたしたちはこう考えたの」
とチンスが続ける。
「扉は開く人によって、行ける場所が違うんじゃないかって。あなたやグドンは三か所へ繋がる扉を開けた。でも、わたしたちは隧道へ繋がる扉しか開けない」
ボウは小首を傾げ考えた。
あのとき、扉に触れたのは、わたしとグドンのほかに誰がいただろうか? もちろん、彼ら二人と知り合う前、ケンシたちは隧道へ現れたから、隧道へ繋がる扉を開けられたのは間違いない。でも、それ以外の二か所へ繋がる扉は…。
考えたが、よく思い出せなかった。
「もう一つの可能性は、時間によって、開ける扉の数が違う場合ね」
とチンス。
「今はなぜか、隧道へ繋がる扉しか開けなくなった。いずれにせよ、今できることをわたしたちは試してみるしかないの。だから、グドンには先に廃墟へ向かってもらった。わかる? あなたもすぐわたしと一緒に来て協力して。つまらないことでゴネていないで」
これ以上、我儘な小娘の説得に時間をかけている暇はない。そんな苛々が表情に現れ始めていた。
それでも、ボウはまだ決心がつかなかった。だが、そのいっぽうで、自分には選択権がない気もした。
最終的には、情報局のこの女性を、グドンが信じていたことが、ボウの行動を促すことに繋がった。
「いいわ」
ボウが仕方なく頷くと、チンスは内心ホッとしたが、それを気づかれたくなくてすぐに視線を逸らせた。
もし仮に、今は扉が隧道にしか繋がっていないことをグドンが知っていたとなると、ボウを置き去りにしてまで慌てて廃墟へ向かったというのは、どう考えても無理があるのだ。だが、幸いにもボウはそれに気づかなかった。
二人は一緒に宿を出た。
宿の建物を出て、そこで待っていたチンスの配下の数を見たボウは、やはり自分には選択肢がなかったと思い知った。
チンスの配下は二十人を下らなかった。
中には、仮眠所で会ったミムやボンコたちの顔も見える。情報局ではなく、安全局の制服を着たいかつい男たちの姿もあった。
逆らっていたら、わたしはこの人たちに拉致されていたんじゃないだろうか?
チンスとボウ、情報局の主だった面々は、用意されていた馬車に乗り込み廃墟へ向かった。
自分の横に座り、青白い顔で俯いているボウを横目で眺め、チンスは忸怩たる思いを味わっていた。
自分は嘘をついた。廃墟に到着しても、グドンはそこにはいない。
ただ、扉の一件でボウに話したことはすべて真実だ。今は、何度開けても隧道へしか繋がらない。だが、グドンとそのことで話をしたこともなければ、ましてや、その謎を解明するため協力を求めた事実もない。
すべては上から出た命令だった。
倉庫や鍾乳洞へ続く扉を開けるため、ボウに協力を求めたかったのは嘘ではないが、ボウにとっては一番肝心なはずの、グドンに関する話は嘘だった。
チンスがなぜそんなことをしたかといえば、グドンとボウの二人を引き離すよう、上から命令されたからだ。では、なぜ、そんな命令を下したのかはチンスにもわからない。
実際、彼女はボウを騙せというこの命令に抗った。抗い、情報局からの追放を仄めかされた。
彼女はグドンの一件で、バクが天妖都から追放されたことを知っている。いうまでもなく、その追放の元をつくったのは彼女本人だ。だが、その彼女でさえ、バクが追放されるとは夢にも思っていなかった。自分の手が届かない、とんでもなく上の誰かがグドンに強い関心を持っている。そして、それを邪魔する者をすべて排除しようとしている。それは間違いなかった。
であれば、自分も命令に逆らえば、バクと同じ目に遭うだろうことは自明の理だ。
自分の将来を捨てるかどうかの選択…。いや、実際には、彼女にとって選択の余地などなかった。
一時的に二人を引き離したとして、それが永久に続くわけではない。二人にはどこかでこの借りを返せばいい、と結局、自分に言い訳をするしかなかった。とりあえず、扉の一件が片付けば、二人が再会できる可能性は十分にある、と。
肝心のグドンは今、行方知れずになっていた。突然、ボウがいた宿から消えてしまった。もちろん、ボウを置き去りにするはずがないから、すぐに戻ってくるだろうが、戻ったときはもう彼女は宿にはいない。
あなたが悪いのよ。
そう思いたかったが、本心は、恥ずかしくて二度と彼に顔向けできない気がした。
ボウもチンスも、それぞれの思いで、走る馬車に揺られていた。
廃墟に到着し、扉のある場所へと下りたとき、そこにグドンの姿がないのを見て、ボウは、やはり自分は騙されたと嘆息した。




