148 瞬間移動
その夜、グドンとボウは、人族のいう初夜を迎えた。
もちろん、グドンにとっては特別な一夜だったが、魂の繋がりを第一と考えるボウにとってどれほどの意味があるのか、ほんの少しだけグドンは気になった。
いっぽうボウは、肉体の繋がりを持つことで、グドンの自分に対する愛が少しでも深まってくれればいい、と心から願っていた。
だが、そうした思いや願いは、唇を重ね、体をまさぐりあう間に、頭のどこかへ追いやられてしまった。
二人はただ互いを求め合った。求め合い、さらに深く繋がろうとした。そこに肉体と魂の違いはなかった。
相手をすべて自分のものにする。それだけが大事だった。
二人は溺れるようにいつまでも相手を貪った…。
夜中に目を覚ましたグドンは、静かに寝息を立てているボウを起こさぬよう、そっと部屋を離れた。
離れる際、丸く白い彼女の裸を目にし、もう一度抱きしめたい欲求にかられたが、何とかそれを抑えた。
『すぐに戻るから安心して』
それだけ記した短いメモを残した。
こうすれば、彼女が目を覚ましたとき、グドンがいないことに気づいても慌てないですむはずだった。
グドンは姿を消す能力を使い宿を離れると、そのまま上空へ飛び上がり、難なく城壁を飛び越えた。
今夜は久しぶりに、ひと気のないところで修練をするつもりだった。ボウには申し訳ない気がしたが、誰の目も気にせず、自分一人になって修練に没頭できる久々の機会だった。
天妖都を離れ、廃墟とは反対方向の、周り一帯が赤土や小さな石ころだらけの荒廃地へ出ると、地上へ下りて、さらに人目につかない物陰を探した。辺りには生物の気配はないが、遠くには崩れかけた建築物もみえた。こんなところにもかつては誰か住んでいたらしい。まさに兵どもが夢の何とかだ。
しばらくしてようやく目当ての場所を見つけ、腰を下ろすと胡坐を組んで瞑想状態に入った。
今回試したいのは、妖器店で見つけた手鏡の能力だ。そして、もう一つ、時間があれば、特殊な眼鏡を通しても変身を暴かれないようにする能力と、相手が変身している場合に、悪意がある場合のみ、それを見破る能力も身につけたかった。
彼はまず妖器店で鏡を使い瞬間移動したときの記憶を脳海に再現した。
あのとき、空間が幾重にも折り畳まれるように歪むのがわかった。
それははじめ小さな変形だったが、やがてはぺしゃんこになるまで折り畳まれ、最後には一枚の薄い膜になった。向こう側が透けて見えるほどの薄い薄い膜だ。
その膜を通り抜けると、自分が扉の前まで移動しているのがわかった。
そこで一度、グドンは目を開けた。
荒廃地の先には地平線が見えている。つまり、目の前には障害物が何もない。その光景を目に強く焼き付けた。
再び目を閉じ、脳海に先刻見た光景を思い描く。そして、自分と地平線の間の空間を極限まで歪めていった。
歪み切ったところで、最後に残った膜を通り抜ける。
目を開けると、直前までグドンがいた場所とはまったく別の光景が広がっていた。やはり荒廃地の中ではあるが、他人の視線から身を隠してくれる物陰はない。
瞬間移動に成功したとグドンにもわかった。
修練はこれで終わりではなかった。
今回の試みで、実際目に見えている場所への瞬間移動は可能であると確認できた。次の試みは、視界内にはない場所への移動が可能かどうかの確認だ。
ここで、グドンはいったん崩れかけた建築物の傍へ移動した。その中で状態の良い建物を選んで、その外壁の前に立つ。
グドンはその建物には入ったことがないから、中の様子はまったくわからない。その状態で、室内へ瞬間移動しようとしたが、まるで駄目だった。
壁をすり抜けられないというのではなく、まったく何の反応も起きない。
見えていない場所、記憶にない場所への移動はできないのだ。
次に、瞳を凝らし、壁の向こう側を透視した。この力は、いわば、仙族の内臓を見たときと同じ能力だ。瞬時に目の前の外壁が透明に変わり、中の様子が鮮明に浮かび上がる。
グドンは再度、部屋の中へ瞬間移動しようとした。
結果、今度は反応はあったが壁に強くはね返された。
はじめから、外壁を破壊するつもりであれば、建物内への侵入も可能だったかもしれないが、それでは試みの主旨から外れてしまう。
間に障害物がある場合、その障害物を破壊しない限り瞬間移動はできないとわかった。
現状、これが自分の限界といえそうだった。今は、やれることの精度をできるかぎり上げるしかない。
そう感じた彼は、移動距離を変え、場所を変え、様々な条件下で確実に移動できるよう修練した。
その中で、空中での瞬間移動には思わぬ困難を伴うことがわかった。
視覚上、空中の景色はどこも同じように見えるからだ。とりわけ夜間はそうだった。明確な到達点を決めず移動することは、空間を歪める際の障害となった。開始点と到達点が鮮明であってこそ空間を折り畳むことができる。移動目標が曖昧ではそれが難しいのだ。
グドンは目を閉じ、脳海内で模擬的に瞬間移動することを試みた。その際、目標到達点に印をつける。
結果的にこのやり方はうまくいった。
現在の彼にとって、脳海内の模擬空間と実際の空間での試みは、どちらも同じ結果をもたらす。もちろん、グドンがそれを望めばの話で、模擬と実際を分けたいときは話が別だ。今視界内にない旅館の壁を想像し修練する場合は、結果を模擬空間のみに限定して行う。実際の旅館へ移動してしまうわけではない。
瞬間移動の修練には思わぬ副産物もあった。どちらかといえば、悪い副産物だ。
広葉樹の生い茂った森を向こう側まで通り抜けたときのことだ。目標地点に到達して背後を振り返ると、元いた地点からそこまでの広葉樹が、すべて根こそぎむしり取られていた。まるでその間だけ巨大な生物が樹木を粉砕しながら走行したように。
空間を歪め極限まで畳むと、その間にある物体はすべて破壊される。それゆえ、この副産物は大きな武器になるいっぽう、思わぬ被害を生む危険性も孕んでいた。人混みの中を彼が瞬間移動すれば、その間にいた生き物はすべて命を失うことになる。これは冗談ごとではすまされなかった。
そうした被害を与えぬよう、途中にある物体を避けて空間を歪められないか試したが、結果は失敗に終わった。残念ながら、瞬間移動の能力は今のところ使い勝手の悪い能力と言わざるを得なかった。
それでもグドンは落胆することはなかった。能力は少しずつ向上させていけばよい。
以前の経験から、一度手に入れた能力は、その後特別な修練を繰り返さなくとも、時間の経過とともにその力が向上することを、グドンは知っていた。腔妖術もそうだし、空を飛ぶ能力もそうだ。手に入れたばかりのころと今では、能力に雲泥の差がある。
情報局でチンスたちを気絶させた際も、以前の彼なら、あれほどうまく能力を制御できていたか疑問だった。
瞬間移動の能力も、やがて今ある問題点が自然解消されるかもしれない。グドンはそうなってくれることを願った。
次いで、グドンは眼鏡の能力について考えてみた。
彼の目的は、眼鏡の効果を阻止し、ボウの変身がバレないようにすることだ。そして、もう一つ、悪意を持って近づく者の本当の姿を見抜けるようになること。
二つの内の後者は、眼鏡の力というより、相手の悪意を感じる力だ。悪意を感じとり、相手の本来の姿を覗き見る。そうすれば騙されることもない。
だが、眼鏡にそんな力があるわけではないから、真似ることもできない。さらに、ホウカに変身してグドンに近づいたとき、彼女は必ずしも悪意があったわけではないから、事情はもっと複雑だった。
結局、これは、特別な能力ではなく、グドンが経験を積み重ね大人になるしかないとの結論に至った。
最後に、眼鏡の効果からボウを守る方法だが、これもグドンには解決のしようがないと気づいた。なぜなら、そこにグドンの能力は何も関係していないからだ。彼が、ボウの能力を高めたり下げたりすることは出来ない。同様に、仮面の能力を高めたり、眼鏡の効果を下げたりすることも出来なかった。
どちらかといえば、それは妖器師たちの仕事だ。だから、もし機会があれば、妖器を作る職人に会い、ぜひ話を聞いてみたいと思った。店の主人は、職人の居場所を教えてくれなかったが、知りたければ、グドンには知る方法が幾らでもある。何しろ、グドンの脳内は、この町に関する無駄な情報で溢れているのだから。
修練を終えたグドンは、何もない荒れ地の中で横になった。
もうすぐ日の出時間ということもあり、あたりは凍えるような寒さだったが、グドンは気にもならなかった。無意識に彼を包んだ炎が体を温めていた。温かな湯船に浸かりながら微睡むように、彼は静かに寝息をたて始めた。
ゆっくり、ゆっくりと胸が上下する。
グドンは夢を見ていた。
夢の中でグドンは仙族が見える眼鏡をかけていた。そこへボウが現れた。ホウカの仮面を被ったボウだ。だが、なぜか、彼にはすぐに彼女がホウカではなくボウで、仙族であるとわかった。
輝き…。
正確にいえばそれは輝きではなかったかもしれないが、彼女を包み込む光の粒子のような物体が、属する種族を明確に示唆していた。
続いてチンスが現れた。
チンスは人族の姿をしていたが、やはり妖族の輝きを纏っている。
続いてアリフラが現れた。彼が纏っているのはもちろん魔族の輝きだ。
そのとき、グドンはふとあることに気づいてあっとなった。
自分は輝きを見ているのではない、感じているのだ。では、眼鏡の能力と無関係かというと、間違いなく眼鏡の能力だった。ただそれは何かを見るための能力ではなく、感じる力を増幅させる能力だ。輝きは見るのではなく、感じる。そのための増幅器が眼鏡だった。
しかし、輝きの存在に気づいた今のグドンには、眼鏡がなくとも輝きを感じとることが出来た。もう増幅する必要はない。
視覚に頼らず彼らの輝きを感じれば、今後は相手がどの種族に属しているか自然にわかる。これで、少なくとも仮面のせいで属する種族を見間違えることはなくなるはずだった。
夢はまだ終わらなかった。
続く夢の中で、グドンは手鏡を手にしていた。指で触れると瞬間移動できるあの手鏡だ。
グドンの視線の先には広葉樹の森が広がっている。その林の向こうには大きな池が見えた。彼は池の畔を鏡に映し指先で触れた。
次の瞬間、グドンは池の畔に立っていた。
振り返った彼は何か妙だと気づいて小首を傾げた。
背後には通過してきた広葉樹の林がそのままの姿で広がっている。
あ! 樹木が一本も粉砕されていない。
自分が能力を使って瞬間移動した際には、空間が折り畳まれたせいで、そこに存在した物体はすべて粉砕されていた。
なぜだろう? 両者の違いはどこにあるのか?
グドンは手鏡で同じ動作を繰り返した。今回は池の畔から森の向こう側への移動だ。
指で鏡の表面に触れた瞬間、空間が歪むのを感じた。そしてもう一つ、自分の姿が粒子の大きさまで縮小されていくのがわかった。
そうか! 移動する物体が小さければ、折り畳む空間の断面の面積も小さく出来るんだ。粒子大の空間が折り畳まれても、周りの物体はほとんど影響を受けない。森の向こう側で姿を現す直前、グドンの体は再び元の大きさに戻った。
これなら、周囲に被害を出さず瞬間移動できるはずだった。もちろん、故意に被害を出したいのであれば話は別だ。
夢の中のグドンは、思わず大声で笑い始めた。
これはすべて、夢の中に現れたボウのお蔭だ! 彼女はおいらの福の神だ。何の根拠もないが、今回の収穫は全部、彼女の恩恵という気がした。
グドンは、夢の中にボウの姿を求めた。姿を求めその肌に触れようとした。だが、現れた彼女の姿はなぜか朧気で、肌はふわふわすべすべしていた。
まるで全身が柔らかな毛で覆われているみたいだ。
そう思った瞬間、夢がパチンと音を立てて閉じた。
しかし、グドンが目を覚ますことはなかった。
今は疲れ切ったようにぐっすりと眠っている。
柔らかな炎に包まれながら、朝日が昇っても、彼は静かに寝息をたてながら昏々と眠り続けた…。




