147 夜逃げ
その夜、ジョウジョウとキョウの自宅ではひと悶着起きていた。
室内は何とも重苦しい雰囲気で一杯だ。
職場から戻った父親バクが、突然、天妖都を離れるため荷物をまとめるよう家族全員に告げたからだ。
ジョウジョウとキョウはもちろん、バクの妻で二人の母親であるササ(紗々)も夫の言っている意味が理解できず、細く引かれた眉をただ強く顰めた。
「それは旅行へ行くという意味?」
仙族の町から逃げてきた彼らにとって、これまで家族旅行は無縁の存在だった。旅行などして、見知らぬ仙族と知り合い、万が一にも彼らの素性を知られれば、必ず嫌な思いをすることになるからだ。
天妖都内であれば、ここでの地位や等級がすべてだったし、全員が訳アリの仙族ばかりだから、表立って嫌悪感を示されることはない。だが、よそでなら話は別だった。仙族の社会から締め出された者に対し彼らは残酷だ。例外がいるとすれば、ボウのような世間知らずのこどもだけだろう。
だから、父親の発言とはいえ、ジョウジョウは露骨に嫌悪感を露わにした。
ササとキョウがさらに何か反対する意見を口にしようとしたとき、バクがいきなり背後の壁を拳の腹で叩いた。
壁がドンと大きな音を立て、叩かれた部分が凹んで、その周辺の壁材がパラパラと床に舞い落ちた。
三人は思わずあっと体を竦めた。
何か激しい感情の動きがあったとき、バクが暴力的になるのを三人は知っていた。
「いいか、よく聞くんだ!」
自らの興奮を鎮めようと、彼は一回肩で大きく息をつき、
「上司から、出来る限り早く、この町から出ていくようにいわれた。これは最終決定で、覆ることはない。この町の最上層からの命令なんだ。だから、こどものように喚かないで、最低限持ってゆくものを荷物に纏めるんだ。今すぐ」
そこまでいわれても、三人には何が何だかさっぱりのみ込めなかった。
「また、誰かと喧嘩をしたの?」
口を開いたのはササだ。
彼女の目にはすでに涙がこみ上げ始めている。バクの妻として、夫の気性の激しさを彼女は知っていた。ひょっとして暴力を振るったのだろうか、また、この町でも…。
「そうよ。わたしたちの一生が変わってしまうんだから、ちゃんと説明して」
母親の震えがちな声とは違い、ジョウジョウの声は驚くほど低く落ち着いていた。
これは、彼女が豪胆だったからではない。心のどこかで、こんな町とは早くオサラバしたいとずっと願っていたからだ。そのためなら、両親も弟も捨てるつもりでいた。だから、町を出ることに何ら不満はない。不満なのは、何も事情を説明されずこども扱いされることだ。
「説明?」
これ以上馬鹿げた皮肉はないと言いたげに、バクは失笑した。
「説明を聞きたいのは父さんのほうだ。なあ、キョウ」
「え? おれ?」
突然名指しされ、キョウは戸惑ったが、何やら嫌な胸騒ぎがした。
「おまえに教えられたあのグドンという青年だ」
バクの言葉に、ササとジョウジョウがキョウへ顔を向ける。
「グドン?」
頭が白くなり、無意識に名前を復唱したが、夜逃げとグドンにどう関係があるのか、キョウはさっぱり理解できずにいた。
「あれほど何度も、後ろ盾のいない子か確認したかと訊いたろう。弱い者なら踏みつぶしても構わんが、強い者にはいっさい逆らうな。それがこの町の鉄則だと、何十回いって聞かせたと思う?」
「じゃ、あの子のことで、父さんはこの町を追い出されることになったの?」
それまで冷静だったジョウジョウの顔もさすがに一変した。
「チンスという、グドンの上司を呼びつけたとたん、反対にわたしが自分の上司から呼びつけられた。向こうは、今回の一件に、キョウが関わっていることまで知っていた。呼ばれたときにはもう、父さんを追い出すことが決まっていたようだ。何とか事態の背景を知ろうとしたし、上司にも頭を下げたが、どうにもならなかった。チンスに話を訊きたかっただけだと弁解したが、嘲笑されたよ」
正直、バク自身も、これほど大ごとになるとは思っても見なかった。ここ数十年の努力が訳の分からないことのために一瞬にして吹き飛んだのだ。
チンスが相手なら、踏みつぶせると考えていたし、彼女の上司バンゴコウとも十分渡り合える自信があった。だが、今回の一件はその遥か上の者から出た話のようだった。
怒らせるべきでない相手を怒らせた。一言でいえばそういうことだ。
相手は、何としてもバクを追い出したかったわけではなかったのかもしれない。むしろ、バクの処遇などどうでもよかった可能性もある。だが、相手の舌打ち一つで、バクは吹き飛ぶことになった。つまり、上司たちが忖度した。相手はそれだけ大物だったということだろう。
もう何を調べても、どう頭を下げても失点を挽回できないのはわかっていた。彼に出来るのは、さらに相手を怒らせないため、すぐに身を引くことだけだった。でないと、身を引く自由すら与えられなくなる。
「わかっていると思うが、グドンと仙族の彼女に復讐しようなどとは夢にも思うな」
バクはジョウジョウとキョウに釘を刺した。
「この町の奴隷や女郎が、生まれながらの奴隷や女郎だと思ったら大きな間違いだぞ。彼らとわたしたちの違いはほんの紙一重だ」
父親の威嚇に、蒼い顔のキョウは慌てて頷いたが、姉のジョウジョウはやや反抗的な目で父親を睨んだ。
「わたし一人、ここに残るわけにはいかないの?」
もちろん、残りたいわけではなく、自分をこんな状況に追い込んだ家族を困らせたかっただけだ。元々、仙族の町を離れ、こんな町での生活を強要されたのは父親のせいだったし、今回も、キョウと父親のヘマが原因でこんなことになった。家族に振り回されてばかりの人生に、彼女はうんざりしていた。
「残るのは構わんが、残ってどうする? もうおまえを庇護してくれる者はいないぞ。父さんはおまえの性格を知っている。これまで何人もの仲間の恨みをかってきたろう。おまえは気づいていないかもしれないが、彼らはここぞとばかりに仕返しをしてくる。ジョウジョウにそれが我慢できるか? おまえの等級はいくつだ? 独り立ちするだけの力があるか?」
父親から、これほどあからさまに見下されるのははじめてだった。相手はこんなふうに自分を見ていたのか、とジョウジョウは今はじめて知った。
「わたしこそ、こんな町でわたしを産んだ父さんと母さんを恨むわ。それに、愚かで能無しの弟のことも…」
何とか涙をこらえ、彼女はバクたちに背を向けると、自分の部屋へ戻りバタンと扉を閉めた。
バクは大きく溜息をつき、ササに顔を向ける。
「カネになりそうなものはすべてカネに換える。そのための準備を手伝ってくれ」
家族に事情を話し終わったことで、バクは冷静さを取り戻していた。
「どのくらい時間をもらえるの? 家財を処分する時間はあるの?」
「たぶん…。駄目なら、すべて投げ出して逃げ出すさ。まさかすぐに命を取るとまでは言わないだろう」
「今さら訊いても仕方ないけど…」
ササは何やらいい淀んだ。
「そのグドンという子は上層部にとってそんな大事な存在なの?」
「わたしにもわからない。というより、正直不思議で仕方ない」
そこまでいって、バクはふと息子に顔を向けた。
「おまえは何か知ってるんじゃないか? あの子は何か特別なところのある子じゃないのか?」
怒鳴られることだけを恐れていたキョウは、従順を装い、真剣に考える振りをした。
「何もないと思うけど、ただ、ボウが…例の女の子が、彼には仙族の姿が見えると言っていた。本当か嘘か今も疑問だけど」
「仙族が見える?」
バクとササが顔を見合わる。
「グドンは半妖のはずだろう? 半妖になぜ我々の姿が見える?」
「わからないよ。だから、おれはただのはったりだと思った」
会話の中心になったことで、キョウの心に少しだけ余裕が生まれた。
「それどころか、もっと馬鹿げた話も彼女から聞かされた」
と苦笑して見せる。
「もっと馬鹿げた話?」
訊いたバクは真剣だ。
「グドンは彼女の啓示を受けた伴侶だと話してた。笑えるでしょ?」
だが、バクとササの顔には笑みの欠片も見えなかった。
「啓示を受けた伴侶?」
二人の顔がみるみる蒼ざめる。
「でも、半妖と仙族の啓示なんて嘘に…」
この町でこどもを産んだことを二人ははじめて強く後悔した。二人の姉弟はおそらく仙族の常識を何一つ学ばないまま育ってしまったのだ。
「仙族が、そんな大事なことで嘘や冗談を言うはずがないだろう!」
食い縛った歯の奥から、バクはやっとそれだけの言葉を絞り出した。
「キョウ、あなた、啓示を受けた二人を引き裂こうとしたの?」
息子を見つめるササの顔も悲しみで歪んでいる。
「でも、啓示なんて…」
ありえないよ、そういいかけて、キョウはやっとそこで口を噤んだ。両親の反応が尋常ではない、と愚かな彼にもようやくわかったのだ。
今回の一件で上層部の反応がなぜこれほどまでに強烈なのか、バクはようやく腑に落ちた気がした。半妖と仙族の婚姻など、彼も聞いたことがなかった。ましてや啓示が下りるなどとは…。仮のそれが本当なら、いや、本当に決まっているが、グドンというのは特別な子なのだ。特別の中の特別な存在。
奇妙な話だが、自分たちがこの町を追い出される羽目になったことを、このときはじめて、バクは納得できた気がした。
「さあ、話はもう十分だ。町を出る準備に取り掛かろう」
気分を取り直すと、バクは妻に穏やかな目を向けた。
ササもそれに小さな笑顔で応じる。
ここしばらくなかった夫婦の絆が少しだけ戻った気がした。
大丈夫だ、とバクは自分にいい聞かせた。この町でも一から始めてこれまでやってこられたのだ。よそへ行っても、また一から始めればよい。自分は仙族として落伍者かもしれないが、どこでも強く生きていける自信はある。
バクとササの夫婦が部屋からいなくあったあと、取り残されたキョウだけが、その場にポツンと佇んでいた。




