138 誤解
だが、グドンはとんでもない思い違いをしていた。
彼が眠りついたとき、ボヤはチンスと協議などしていなかった。彼女は相変わらず彼と同じ室内にいて、操作盤の上に突っ伏すように眠りこけていた。
グドンが眠りについてしばらくしてから、ボヤはやっと何かの呪縛から解かれるようにはっと目を覚ました。そのとき、自分の頬が涙でぐしょぐしょに濡れていることに気づいた。
なぜ濡れているのか、ボヤにはよくわかっていた。
彼女はずっと夢を見ていた。別の自分が送った長い長い一生の夢を…。
夢の中の彼女は、やはり天妖都で生活を送ったいたが、情報局の局員ではなく、幼いころ親に女郎屋へ売り飛ばされた娼婦だった。
彼女はその生涯を無数の男性たちにただ犯されながら過ごした。それ以外には何もない一生だ。
女郎にも格付けがあり、格付け上位の者は華やかな生活を送れたが、外見がぱっとしない彼女は、その他大ぜいの女郎として残酷な扱いを受けながら日々を送った。
やがて彼女は年を取り、ほとんどの男性から見向きもされなくなった。
それは女郎にとって一種の解放であるはずだったが、実際には、以前にもましてひどい生活がボヤを待っていた。まさに動物以下の生活といってよい。極く稀に相手をする男性も動物以下の屑ばかりだった。
彼女は老いて、体を女郎特有の病にも蝕まれた。
そんな最悪の環境、最悪の状態で生涯を終えようとしていた。
こんなの間違っている。これがわたしの一生のはずがない。
心の中でそう何度も叫んだが、答えてはくれる者はおらず、横たわる煎餅布団の悪臭が消えることもなかった。
そして、ついに最期のときがやってきた。
これでもう辛い思いをしなくても済む。これは解放、解脱だ。やっと安物の喜劇のような一生が終わる。そう自分を慰めようとしたが、なぜか、頬を留めもなく涙が流れた。流れた涙に噎せ呼吸もままならないほどに。
さようなら、わたしの一生…。
そう心の中で呟いたとき、何かがパチンと弾けた。
ボヤは、操作盤の上でうっぷしたまま目を覚ました。覚ましたのはよいが、しばらくの間、呆然として身動きできなかった。いったいどうなっているのか、まったく状況が把握できない。
わたしは夢を見ていたの?
やっとそう思い至ったとき、彼女は大慌てで体を起こし、グドンが棺桶と称した情報伝送装置のほうへ視線を投げた。
装置はすでに扉があき、その向こうに、床に倒れたグドンの姿が見えた。
ボヤの顔からみるみる血の気が失せていく。
改めて操作盤を見ると、三十二区域すべての基礎情報が操作され、伝送されていた。
すべて伝送された? 誰へ? 答えは訊くまでもなかった。
最悪だったのは、その情報伝送の操作を行ったのが自分以外にはいないことだった。
彼女は必死で記憶をたどったが、そんな操作をした覚えはなかった。だが、そんな言い訳を誰が信じてくれるだろうか?
確か、半妖の基礎情報を三分の一伝送したあと、情報の分類と凝縮をデモンストレーションして見せた。やがて、それも終わり一区切りついたことで、ひどく退屈に感じたことを覚えている。
肝心なのはそこからだ。
退屈に思って、そのあと、わたしは何をしたのだろう? 残念ながら、その後の核心部分を彼女は何も覚えていなかった。
退屈で居眠りしてしまった?
それはあり得ないことではない気がした。しかし、居眠りする前に、大量の基礎情報をグドンに送り付けることなどありえない。
でも、待って…。わたしは、なぜかグドンに強い反感を持っていた。だから、寝ぼけていて無意識に彼を傷つけようとやってしまった可能性はないだろうか?
そんなことはありえないと思う。思うけれど…。
立ち上がったボヤの顔が歪んでいた。
改めてグドンへ視線を向けたが、どう見ても死んでいるとしか思えない。情報過多により、彼の頭が粉々に吹き飛んでいないだけまだマシだった。
チンスに対して何と言い訳すればいいのだろう? 寝ぼけれていて操作を誤った? しかも、誤ったあともずっと居眠りしていた?
ボヤは思わず泣きたくなった。
クビだ! 情報局をクビになってしまう! それだけじゃない。これは業務上のありえないミスで局員を死へ追いやった、いわば犯罪だ。怒ったチンスからどんな制裁を課されるかわからない。
思わず感情が爆発しそうになり、気づいたときは人族の姿から素の自分に変化していた。
その姿は猿に似ていた。だが、普通の猿とは違い、大きな耳が横に垂れ、真ん丸な目が顔の半分を占めている。顔を覆った手には指が六本あり、どれも異様に長かった。
その失態に気づくと、ボヤは慌てて人族の姿に戻ったが、職場で醜態を晒した羞恥心は、彼女の混乱にさらなる拍車をかけた。
後悔、猜疑、憤怒、羞恥…。
それらが綯交ぜとなり、彼女の平常心を奪っていく。
自分の見た夢が、床に横たわるグドンが見せた幻覚だとは思いもしなかった。
グドンの死をなかったことには出来ないか?
彼女は必死でその方法を考えた。遺体をどこかへ隠し、わたしは彼がどこへ行ったか知らないことにする。そんな馬鹿げた妄想に頭が破裂しそうになっていたとき、背後で部屋の扉が開いた。
「どんな状況?」
見ると、扉の向こうから、チンスが顔を覗かせている。
ああ、神様。あなたは何と無慈悲なんでしょう!
もう完全に終わった。わたしの人生はこれで終わり。あの女郎の生涯よりもっと悲惨な結末が待っている…。
そう思ったとき、目の前が暗くなり、ボヤはその場に崩れ落ちた。
チンスは、状況がまったくのみ込めなかった。
とんでもなく大きな音を立てて、自分の目の前で床に倒れたボヤ。さらに奥を見ると、情報伝送装置の中で、やはりグドンが倒れている。
この二人は、ここで何をやっていたの?
状況を把握できないのは同じでも、ボヤと違い、チンスは冷静だった。
まずグドンの傍に歩み寄り、彼の状態を確かめる。
呼吸しているし、脈もしっかりしている。ただ眠っているだけだ。
はじめての経験で疲れ切っただけだろう。
それにしても、この部屋を出て、横になる場所を探す暇さえなかったのだろうか?
仮に半妖の基礎情報三分の一でこうした状態に陥ったとすると、水準一の情報伝送は試してみるまでもない。彼をただ死へ追いやるだけだ。
次いでボヤのところへ戻り、彼女の状態を確かめる。
こちらもちゃんと呼吸していた。
床に倒れた際に打った額が赤く腫れ始めているが、妖族の体が丈夫にできているのは、誰よりもチンス自身が知っている。
気を失っているのは、倒れたときの怪我とは無関係だろう。
いったい、彼女はなぜ気絶したのか?
操作盤を確認すると、朧気ながら現状を把握できた気がした。
グドンは、彼女たちが想像していたより遥かに高い能力を秘めていた。半妖の基礎情報の三分の一どころか、一気にすべてを吸収し、さらに他区域の基礎情報へも手を伸ばした。
これを許可したのはボヤの判断だろうか?
基礎情報を次々に吸収していくうち、グドンの能力にもやがて限界がやってくる。最後は耐えきれなくなり、ボヤに助けを求めようとしたが、装置から出ようとしたところで力尽きた。
恐らくボヤはグドンを殺してしまったと誤解したのだ。
恐慌状態の中、何も判断できずにいるところへ、わたしが顔を覗かせる。
ボヤはホッとすると同時に、自分の失策に思い至り絶望して気を失った。
きっと、そんなところだろう、
倒れたままのボヤを見下ろし、チンスは溜息をついた。
彼女がグドンを危険に晒したのは間違いない。では、どう処分するのが妥当だろうか?
降格? 局から追い出す?
どちらも自分の思いとは違う気がした。
ボヤが自分の判断で、基礎情報のすべてをグドンへ伝送したことは、むしろ評価できる。
何もかも彼女の判断を仰がねば行動できない者が、チンスは嫌いだった。
それに…。
何より大切なのは、グドンの飛びぬけた能力をボヤが知ってしまったことだ。ここで降格させたりすれば、その情報がどこかへ漏れてしまう危険性がある。
問題を難しくしているのは、グドンの能力の高さを上司たちが望んでいるかどうかで、それをチンス自身が把握できていない点だった。
今回の結果がグドンにとって吉と出るか凶と出るか判断できない。
とりあえずは秘密にしておくのが賢明だろう。
だとすれば、ボヤを抱き込んで秘密厳守を命じたほうが役に立つ。それに、これからもグドンの教育係は必要だ。
情報局での彼の教育はまだ始まったばかりだから、このまま教育を続けさせ、外部に向けて彼の能力を小出しに報告すれば、上司たちの思惑も自然と明らかになるかもしれない。
そう判断すると、チンスは先にボヤの目を覚ますことにした。
ボヤはすぐに意識を回復した。
しかし、強く瞑ったまま意地でも目を開けようとはしない。
いい年をして現実逃避をするつもり?
チンスは今度こそ腹をたてた。
「あなた、妖族の姿に戻ってるわよ。裸のままで下着一つ身に着けていない」
チンスはボヤの耳元で囁いた。
飛び起きたボヤは、条件反射的に下半身を掌で覆い隠そうとし、指が服に触れたことで、やっと騙されたことに気づいた。
「正式にあなたをグドンの教育係に任命します」
ボヤが何か言い訳を始める前に、チンスが真っすぐ彼女の目を見つめて言った。
「これがうまくいったら、昇格も検討する。その代わり、今日ここで起こったことは絶対に他言しないこと。誰に対してもよ。わかる?」
正直、チンスのいったことなどまるで把握できていなかったが、ボヤは何度も唾をのみ込み、とにかく必死の形相で頷いた。
許してもらえるなら、何でも従う覚悟だった。
そして、優しい救世主であるチンスへ縋るような視線を向ける。
「ありがとうございます、チンスさん。でも、でも…。グドンの死体は、どう処分したらいいでしょうか?」




