135 ボヤ
翌朝、グドンは、情報局の中枢がある建物へ来るよう、チンスからの伝言を受けとった。
そのことを知ったヤスやボンコら四人は、長々と嘆息した。自分たちの予感が的中したとわかったからだ。
通常なら、新人、それもまだ見習い中の分際が、いきなり情報局の中枢に呼ばれることなどありえなかった。
落胆と羨望の眼差しで見つめる四人と共に、グドンは中枢部に入った。
ここで自分はどんな仕事に就き何を要求されるのか、グドンの心には期待と不安が入り混じっていた。期限たった十日の見習いに、彼らが何を求めているのか、興味と同時にもちろん警戒心も働いていた。情報局はもちろん、この町のほとんどの者はグドンの能力を知らないはずだ。それにもかかわらず、彼を特別扱いしようとするのは、なぜだろうか?
滞在期間が十日と知ったときの、ヤスたち四人の反応を、グドンは今も思い出す。それは、チンスや情報局の彼に対する扱いが、いかに異常であるかを物語っていた。
もしかして、グドンの出生の秘密を知っているのだろうか? 蟻巣島での奮闘の情報がもうここまで流れてきた? だが、どちらもありえない気がした。
だとしたら、どんな理由が考えられるだろう?
そのことをまず尋ねようと考えていたグドンだが、顔を合わせるなり、チンスは、
「二人きりで少し話がしたい」
と彼に顔を寄せ耳打ちしてきた。
それこそ、チンスの吐息がかかるほどだった。
その様子を眺めていたヤスやボンコらは、目玉が飛び出しそうなほど驚いた。そして、次の瞬間、チンスがそちらへ目を向けると、慌てて見なかった振りを装った。
「おいらに何をさせるつもりなの?」「あなた、この町の誰と知り合いなの?」
狭い部屋に入るなり、二人は同時に声を発した。
顔色からして、チンスが彼の質問に答える気がないのは明らかだった。仕方なく、グドンは、
「ケンシたちとは知り合いだよ」
と答えた。そのことは彼女も知っているはずだった。
「彼と彼の配下の半妖、あとは、奥さん…」
「半妖は除いて」
チンスがすかさず条件を付けた。
「それと、あなたを嫌っていそうな奴」
「じゃ…」
広場でボウと一緒にいた仙族の青年のことが脳裏に浮かんだ。彼の表情から、それがわかったのか、
「仙族も除いて」
と、チンスが付け加える。
グドンはしばらく真剣に考えて、
「じゃ、誰もいない。少なくとも情報局の人以外は…」
「妖族は? 妖族に知り合いはいないの?」
「いない」
これは即答だった。
「ここへ来るまで、本物の妖族も魔族も見たことがなかった」
今度はチンスが黙ってしまった。
「あなた、意外に役立たずね」
それが彼女の感想だった。
グドンは何やら嫌な予感がした。
チンスはおいらの身元調査をしている? それなら、今やっていることに成果が出なければ、きっと渉不城のころまで遡って、どういう半妖か調べようとするだろう。そうなると、父親がセイイツであることを知られてしまう。知られれば、平穏な生活が終わってしまうかもしれない。
おいらが渉不城の出身であることを天妖都の誰かに話したろうか?
もちろん、ケンシたちには話している。だが、しばらくは帰ってこないはずだ。チンスの部下がわざわざ彼らを探しに行くとも思えない。それなら、多少の時間的猶予はあるかもしれなかった。十日後、ここを離れれば、あとはどうでもよい。
だが、このときのグドンは、ボウが自分たちの素性をすでにアダに漏らしてしまったことを知らなかった。
グドンは一瞬、自分の素性を探らないようチンスに頼もうかと考えた。だが、やめにした。それではまさに墓穴を掘るようなものだ。チンスと自分の関係もまだそれほど深いものではない。チンスが、極端に彼に肩入れするいわれはなかった。
「別の部屋へ移りましょ」
雰囲気を変える口調で、チンスが言った。
「これから、あなたに基礎的な訓練を受けてもらう。厳しいけど、頑張って」
二人が別室へ移ると、そこに三十代と見える女性が待っていた。
彼女はボヤ(菩埜)と名乗った。
チンスとは対照的に大柄で、巨大なバストを着衣で懸命に抑え込んでいるが、完全には隠せていない。だが、それよりも特徴的なのは大きな瞳だった。顔全体の大きさからして明らかにバランスを欠いている。決して醜くはないが、一度見たら忘れられない容姿だった。
「この子があなたの教育係よ。とりあえずはね」
チンスが彼に紹介した。この子というのはボヤのことだ。チンスからすれば、三十代でも四十代でも、こども扱いらしい。
ボヤは小さく苦笑して、
「水準一へ入る予定だと聞いたけど?」
とグドンへ顔を向けた。外見同様、大人の女性の声だ。その声の心地のよさに、グドンは束の間うっとりと聞き惚れた。
チンスがゴホンと咳払いする。
グドンははっと我に返り、彼女に視線を移した。
「ボヤの声には、相手を陶酔させる力があるの。気を付けないと、知らないうちに彼女の前に跪くことになる。ボヤもいい? こどもを揶揄ってる暇はないのよ」
冗談と思えぬチンスの口調に、ボヤも厚い唇を引き締めた。
「すみません」
グドンは、自分がいとも簡単に相手の術にかかってしまったことに驚きを禁じ得なかった。
この女性の能力は、蟻巣島の女王蟻の幻覚能力より上かもしれない。しかも、大げさな動作をすることもなく、瞬時に彼を陶酔状態へ追い込んだ。
グドンは、改めて自分の未熟さを痛感した。
己が井の中の蛙と自覚しなければ大変なことになる。世の中には、凄い能力を持った者が幾らでもいる。
ボヤの質問に対しては、チンスが彼に代わって答えた。
「グドンは、脳幹室のことは何も知らない。一から教えてあげて。基礎の基礎から始めないと駄目。無理だと思ったら、途中でも中断して。何かまた、別の方法を考えるから」
ボヤはチンスの発言に戸惑ったようだ。
「検査や試験を通過したんじゃないんですか?」
チンスが首を横に振る。
ボヤの顔が蒼ざめるのが、グドンの目にもはっきりとわかった。
「そんなことは認められないはずですよね? わたしに彼を…」
何か言いかけ、慌てて口をつぐむと、ちらりとグドンへ視線を向ける。
「殺させるようなもの?」
平然とチンスが言った。
「でも、上からの命令なの」
これは、この町で一番効果のある台詞だが、チンスとは一番縁遠い台詞でもあった。チンスは上からの命令という言い訳を嫌悪している。それをあえて使ったということは、皮肉であるのはもちろん、今回の一件に強い憤りを感じていることを示している。
チンスは、グドンに向き直った。
「これからあなたにやらせようとしていることは、とても危険なの。わかる? だから、拒絶して、この町をすぐ離れるとあなたがいっても反対しない。どうする?」
チンスの強い口調に戸惑いつつも、
「まず、なぜ、おいらにそんな要求をするのか訊きたいけど…」
と訊いた。
訊いたところで答えないのはわかっていたし、さきほど別室で彼女から、誰かに嫌われていないかと訊かれたことで、凡その理由がわかった気もした。どこかの大物妖族が、彼に嫌がらせしようとしているのだろう。少なくとも、チンスはそう考えている。
だが、グドンには、本当にそんな相手には心当たりがなかった。
ほんの一瞬、脳裏に浮かんだのは小犬の妖獣だ。
とはいえ、小犬に強い悪意があったとも思えないし、ここまで彼を追いかけてきたというのも信じられなかった。
「やるにしろやらないにしろ、仕事の内容を詳しく話してほしいな。でないと、判断ができない」
その言葉を待っていたように、チンスは脳幹室や情報に関すること、水準一から五の違いや、そこへ入るための基礎課程についてあらましを説明した。
時折、そこにボヤも口を挟んだ。
チンスはこの任務に乗り気ではないらしい。言葉の端々に、何とかグドンに拒絶してもらいたいとの意図が透けて見えた。
実のところ、グドンは脳幹室についてすでに知っていた。
昨日、チンスとのやり取りがあったあと、天妖都について脳内にある情報を精査したのだ。こうした都会にあっては、幸運を期待することや油断は許されない、そう感じたからだ。
その中の情報に脳幹室に関するものもあった。
だから、チンスとボヤがなぜこれほど緊張しているのか、なぜ情報局の申し出を拒否して町を離れるよう唆そうとするのか、その理由もわかっていた。
だが、承知の上で、グドンは脳幹室の仕事をやってもいいと思っていた。大量の情報を受け入れることは自分にとって危険性はないと、直感が彼に告げていたからだ。
迷って見せているのはただの演技だった。
説明を聞き終わると、グドンはボヤに顔を向けた。
「あなたは、水準幾つの施設で働いてるの?」
「水準四よ。なぜ?」
「ボヤの脳は、その情報量に耐えられているの?」
自分をボヤと呼び捨てにされたことに、彼女は少なからず腹を立てた。口をへの字に曲げ答えないでいると、横からチンスがとりなす。
「言語能力が未発達なのよ、グドンは。あなたを呼び捨てにしたのも悪気があったわけじゃない」
「耐えられているわ」
ボヤは短く答えた。
「それなら、その訓練を受けてみてもいい」
グドンの返事は、二人の予測とは違ったようだ。
チンスは大きく溜息をつき、ボヤは鬼の形相で舌打ちした。
「それは、わたしでも水準四が務まるなら、自分に基礎の訓練が耐えられないはずはない、という意思表示なの?」
思わぬボヤの剣幕に、グドンはたじたじだった。
頭を掻きつつ、チンスに助けを求める。
「この子にそんな皮肉をいう頭はないのよ。思いついたことをただ口にしてるだけ」
二人の部下が喧嘩をしても何も良いことはない。とりわけ、こんな複雑な状況下では、悩みが増えるだけだった。
これで喧嘩は終わりにしようとしたチンスを、グドンの声が遮った。
「いや、皮肉をいうつもりはないけど、意図するところはその通りかな」
チンスとボヤの表情が固まった。
「愚か者ね、あなた」
チンスの口調も厳しくなる。
それでもグドンは続けた。
「誤解させたのなら謝るけど、おいらに、ボヤを侮辱する気持ちはないよ」
「だから、まず、ボヤと呼び捨てにするのをやめて」
グドンはそれを手で制し、
「ほかの誰かに出来るのなら、おいらも試してみたい。必ず脳が破壊されるのなら御免だけど、そうならない可能性もあるなら、やらせてほしい。そういう意味だよ。それと、おいらは喋り方を直す気はない。ボヤはおいらの上司じゃないし、ここに長居する気もない。でも、侮辱する気はないんだ。それどころか、ボヤの能力に敬服している。どうしても気になるなら、会話の最後に、あなあたを先生と呼ぶのはどう? 色々教えてもらいたいし」
じっと値踏みする目でグドンをねめつけたボヤは、
「いいわ。必ずよ。必ず先生と呼ぶ、いいわね?」
「いいよ。先生」
言われたボヤは、満更でもない顔でフンと鼻を鳴らした。
それを恐れ入った表情で眺めていたチンスが、こんなうまい方法をどうして自分が思いつかなかったのか、と溜息をついた。
「それなら、わたしのことも、これからチンス先生と呼ぶこと。わかる?」
チンスはグドンに指を突き付ける。
「チンス先生、チンス先生」
グドンが連呼すると、チンスは口をあけてあははと大笑いした。
彼女の口元から、またギザギザした小さな歯がのぞく。グドンはそんな彼女を本当に可愛いと思った。どうかすると、八十七歳だと忘れてしまいそうだ。
ボヤは改めてチンスとグドンを見比べる。
この二人はどんな間柄なのだろう?
ボヤはチンスがあんなふうに口をあけて笑うのをはじめて見た。グドンをただの小僧と見下して三下扱いすれば、痛い目に遭うかもしれない。
彼女は改めてそう肝に銘じた。




