133 脳幹室
情報局の中枢部が入った別の建物では、チンスが彼女の上司バンゴコウ(蛮蜈蚣)を前に業務報告を行っていた。
「チンスはさすがに仕事が早いな。例の青年を引き入れるには、もう少し時間がかかると思っていたが」
バンゴコウが満足そうにいう。
がっしりした体格の中年男で、頭がツルツルに禿げ、眉もほとんどない。それでも、どこか大物俳優を思わせる魅力のようなものがあった。容貌が美しいだけでなく、大人の男性の色気に溢れている。彼に誘われて、拒否できる女性はあまりいないはずだった。
だが、残念なことに、目の前のチンスは数少ない例外だった。
「わたしの功績じゃありません。思わぬ助太刀が現れたんです」
あっさり誉め言葉を受け流すチンスに、バンゴコウは「ほう?」と問う顔になったが、彼女は気づかぬふりをした。
チンスはバンゴコウが嫌いだった。
この男は正直虫が好かない。上司として最低限の対応はするが、それ以上の無駄話はしたくない。誉め言葉も聞きたくなかった。そんな思いが完全には隠せていないこともわかっていたが、それもチンスは無視した。
「これから、彼をどう扱うおつもりですか?」
チンスは短く訊いた。
うん。とバンゴコウは考える振りを装ったが、グドンをどう扱うか、今後の方針がとうに決まっているのは、チンスにもわかっていた。
「脳幹室へ入れよう」
束の間あって顔を上げた彼は、しかつめらしく言った。
「脳幹室? 十日しか滞在しないこどもを?」
演技ではなく彼女は驚愕に目を丸くした。この何十年で、こんな荒唐無稽な話は聞いたことがない気がした。
脳幹室というのは、情報局のいわば中枢の中枢、集まった情報がすべて蓄積されている重要拠点だった。蓄積し、その情報を様々に処理する。脳幹室なくして情報局の存在はありえない。
脳幹室へ入るとは、この情報局を束ねるための要、つまり要職に就くことを意味した。
だが、チンスが驚いたのは、そうした要職にグドンが抜擢されたからではない。脳幹室の仕事は要職であると同時に、能力のない者が入ることはそのまま死を意味するほど、危険な仕事でもあったからだ。
脳幹室の仕事が何かを考える前に、情報局に集められた情報がどう処理蓄積されるかに目を向けると、情報はまずモルゴと呼ばれる機器に蓄積されることになる。そこで局員による情報の取捨選択が行われるのだが、情報は一か所に集められるわけではなく、情報の出所により小さく区分け処理される。その第一ステージを局内では水準一と呼んでいる。
水準二では幾つかの水準一から上がってきた情報が統合され、さらに取捨選択されて、次の水準三へ送られる。こうした作業が合計四回繰り返される。つまり水準は全部で五つあり、最高が水準五というわけだ。
分かりやすくいうなら、世界に百万の人がいるとして、百人の単位が水準一、それが十集まった千の単位が水準二、さらにそれが十集まった万の単位が水準三…といった具合だ。
ここで脳幹室へ話を戻すと、水準一で処理された情報は、次の水準へ移されるだけでなく、同様に、情報局の局員の脳へも移送される。その作業を行うのが脳幹室だった。当然、水準二やそれ以降でも同じことが行われる。
なぜそんなことをするかといえば、モルゴが壊れて情報が破壊されるのを恐れるためではなく、あくまで情報を最大限に利用するためだ。
もちろん局員は機器から直接必要な情報だけ取り出し利用することもできるが、それでは、情報の価値をすべて引き出すことはできない。情報を全体として把握することはできないし、局員の能力によって、利用の幅が著しく狭まる可能性もある。
そのため、すべての情報をモルゴ同様に吸収し、把握、活用する人材が必要になるのだ。脳幹室へ入るとはそうした人材となることを示している。彼らは博士と呼ばれ、情報局のなくてはならない存在として常に尊敬されている。
無論、博士となるためには高い能力が必要とされる。とりわけやっかいなのは、彼らの脳へ移送される情報量が半端ではないことだ。妖族にしろ、半妖にしろ、人族にしろ、普通の者はそんな情報量に耐えられない。簡単な話、無理に移送しようとすれば脳が破壊されてしまう。待っているのはよくて植物状態、悪ければ死だ。
それゆえ、人選は極めて慎重、厳格に行われる。何度も繰り返し検査が行われ、選ばれた後も、特別な教育を一年近く受けることになる。
その要職へバンゴコウはグドンを送り込もうとしているのだ。厳しい適応検査や試験、訓練を経ることなく、直接に…。
これでは、グドンを殺害しようとしているのと何ら変わりがなかった。
「上からの命令でね」
珍しくチンスが顔色を変えたのを見て、責任回避する口調でバンゴコウが言い訳した。
上とは誰か、とはチンスも訊かなかった。訊いたところで答えるはずがないからだ。代わりに彼女は、
「わたしに死刑執行役になれと言うんですか?」
と尋ねた。
「死ぬと決まったわけではない。実際、博士は何人もいるからな」
苦笑交じりに、バンゴコウはそう嘯く。
チンスは束の間上司と睨みあった。
笑顔で目を背けたのは、バンゴコウのほうだ。
「お嬢さんにはやっぱり無理か…」
チンスは自らの幼い外見を愚弄されるのが一番嫌いだ、と彼は知っている。知っていてあえて揶揄った。相手の弱みを刺激して命令に従わせようとしたのではない。そんなことは無理だとわかっていた。彼はただ、反抗的な態度をとるチンスを侮辱したかっただけだ。
「無理なら、別の者にやらせることにする」
「わたしが勧誘した局員ですよ」
そう言ったチンスだが、それは若干事実と異なるとわかっていた。グドンは彼女が見つけた人材ではない。監視するよう上から命じられた人材だ。
「そうか?」
案の定、バンゴコウは揶揄する顔つきになった。
彼女は強く唇を噛む。
「どうして、あのこどもにこんなひどい真似をするんです? 何か特別な理由があるんですか?」
「上からの命令だと言ったろう。命令に対し、わたしは根掘り葉掘り訊いたりしない」
言葉の裏には、だから、おまえも何も訊くなとの含みがあった。
チンスはしばらく黙って考えた。
自分が断れば、バンゴコウは本当に別の人選を当たるだろう。それでは、グドンを手助けすることさえできなくなる。
「やります。でも、彼が死んだら、遺体の処理はあなたが自分でやってくださいね」
バンゴコウはもう話はすんだというように、掌をひらひらと振って見せた。
早く出ていけという意味だ。
実際、チンスはすぐ彼の部屋を出て、周囲の備品が飛び上がるほど強く扉を閉めた。
バタンと大きな音が鳴り響く。
バンゴコウはそれには動じず、溜息をつくと、
「本当に、あの小僧にはいったいどんな価値があるのか…。いや、価値がないから、死んでもかまわないといった扱いをするのか?」
と呟き、また何もなかったように手元の仕事へ戻った。
自宅への帰り道を行く馬車に揺られながら、チンスはバンゴコウとの会話を反芻していた。
情報局を出たときは、興奮で爆発寸前だったが、今は冷静さを取り戻している。そうして冷えた頭で考えてみると、改めて、バンゴコウの要求の不可解さが鮮明になった。
グドンという田舎者の青年に自殺まがいの仕事を押し付けて、情報局、いや、天妖都は何をしようとしているのか?
いったいどんな利益があるのだろう?
グドンが脳幹室での試練に耐えられると思っているのか?
チンスは首を傾げずにはいられなかった。
脳幹室での仕事に就く局員は、すぐに水準一の作業を開始するわけではない。水準一の前に、基礎を身に着ける準備段階がある。それは、これまでの長い歴史の中で蓄積された古い情報を学習することに他ならない。水準一へ上がってくる情報はすべて新しい情報ばかりだから、その元となる古い情報を身に着けていなければ用をなさないのだ。
だが、準備段階とはいっても、特殊な能力を持った者以外、とても受け入れられる情報量ではなかった。しかも、そうした基礎知識を新人は一年以上かけて身に着ける。
それでは、グドンはどうか? 彼にはわずか十日しか時間がない。その短い時間に、いったい何をしろというのか?
これは、どう考えても一種の処刑であり、グドンがそれを受け入れるなら自殺行為にほかならなかった。
しかも、仮にこうした基礎訓練に耐えられたとしても、グドンはこの町に長居するつもりのない、いわば通りすがりの旅行者だ。町の秘密を晒すだけ晒して、逃げられたら元も子もないではないか。
これはどう考えても理屈に合わなかった。グドンをただ危険に晒そうとしているとしか思えない。でも、なぜ?
やはり、ここで考えるべきはバンゴコウへ命令を出したのが誰かということだ。
バンゴコウの言葉を信じるわけではないが、今回の一件が彼自身の考えとは思えなかった。もっとずっと上の者、八十三のバンゴコウより、等級がさらに高い妖族に違いない。
チンスはそれらしい妖族を思い浮かべようとしたが駄目だった。彼女の知る限りそんな妖族はいない。
懐から伝音符をとり出すと、彼女は何人かの知り合いに連絡をとった。グドンという青年や脳幹室送りの一件に関し、何か知っている者がいないか確かめるためだ。
そんなことをすれば、バンゴコウに知られる恐れがあったが、強い好奇心には勝てなかった。
それともう一つ、チンスは一構成員として組織を大事にしていたが、いっぽうで、今回の一件は彼女の良心の許容範囲を超えている気がした。最低限の原則さえ歪めてしまうなら、組織に属している意義などなくなってしまう。
今回のような仕事をやるならやるで、ちゃんとした理由付けが欲しかった。
だが、残念ながら、コネを最大限利用しても、グドンやバンゴコウの命令に関する情報は得られなかった。連絡を取った者の中には、バンゴコウより等級が上の者もいたが、それでも、彼らからは何も知らないという答えが返ってきた。
理解ができない。こんなことはありえないのに…。
彼女は可愛らしい口元を歪めた。こんな命令を出すからには、グドンとの間に何か特別な関係があるはずだ。だが、田舎者のグドンに、そんな知り合いなどいるだろうか? しかも、その人物は、グドンを苦境に陥れようとするいっぽうで、彼の能力にかなり信頼をおいているようにも見える。
こんな矛盾したことってある?
とにかく、グドンにもう一度会ってみよう、と彼女は結論付けた。相手が誰かわかるとしたら、たぶん、それはグドン以外にいない。
チンスは、さらに何か所かに連絡を取ると、伝音符を置き、腕を組んで目を閉じた。




