112 海水?
隧道の一部が土砂に埋まったことで結果的に幸いしたことの一つは、どちらへ進むか迷わずにすんだことだ。いっぽうはもう完全に土砂に埋まり行き止まりになっているから、進みようがない。
さらに都合の良いことに、グドンの判断では、埋まったのは渉不城へ繋がる方向だった。今さら町へ戻る気がない彼にとっては、これ以上の結果はなかった。
「それにしても、なぜ、蟻巣島は崩壊したんだろう?」
ボウに支えられて歩きながら、グドンは崩壊した縦穴のほうを振り返った。
「おいらが女王蟻を殺したからとは思えないし…」
世代交代するのはこれがはじめてではないし、女王蟻の死と島の崩壊が直接関係しているとは思えなかった。同じように、女王の後継者の死が崩壊に直結したとも思えない。だとしたら、なぜだろう? 偶然? そんなことはとても信じられなかった。
同じ疑問を、ボウも抱いていたようだ。
島主アサホが離島しなかったのも、島が崩壊するとは予期していなかったからだろう。たとえ女王蟻が死んでも、島は残り、一大産業である薬草栽培は何の問題なくまた再建できる、そう考えていたからこそ、離島の道を選ばなかったのだ。それなのに、今回はこれまでの常識を覆す何かが起こった。それは何か?
「でも、おいらの一番の心配が現実にならずにすんでよかったよ」
とグドンが言った。
「一番の心配?」
「うん。よくあるように、島の崩壊はつまり、島の沈没に繋がるんじゃないかと思ったんだ。仮にそうなった場合、一番怖いのは海水だった」
ボウはあっと声を上げそうになり、思わず掌で口を押えた、
「この隧道に海水が流れ込んだら、もう逃げる場所がない」
この長い長い隧道が海水で満たされ、その中で溺れて藻掻く自分の姿を想像すると、ボウは誰かに鼻を塞がれたような息苦しさを覚えた。
彼女は改めて背後を振り返り、
「もうその心配はないんでしょ?」
とグドンに助けを求める視線を送る。
「おいらに訊くの?」
グドンは声に出して笑った。
「笑い事じゃないと思うけど…。少し走ったほうがよくない?」
背後から何かが追いかけてくる気がして、ボウは身震いした。
「それとも、きみを抱いておいらが空を飛んでいく? そう頼んでるの? この痛みに苦しんでいる怪我人に?」
「冗談をいっている場合? 何なら、わたしがグドンを抱えて空を飛ぶわ」
「おいらは、それでもいいよ。だけど、歩いたほうが速い気がしないでもない」
大真面目に答えるグドンに、ボウは優しく体当たりした。
「あ、痛い!」
「自業自得よ」
グドンは揶揄うのをやめ、延々と続く隧道の先へ目をやった。
「次の出口まで、どれくらい距離があるんだろう?」
自分でも思わず溜息が漏れた。
「少なくとも、蟻巣島から次の陸地へ辿り着くまでの距離ね。まさか、海の真ん中に出口があるとは思えないから」
グドンは頷きながら、別のことを思案し始めた。この隧道を誰が、どんな目的で作ったのかということだ。
誰がという疑問の答えは簡単だろう。十中八九セイイツだ。直径三十メートル、距離は最低でも百キロを超えているはずだ。彼以外にこんなものをつくれる者はいない。
建造理由は、単純に秘密の通路が必要だったからかもしれない。離れた町の間を秘密裏に行き来する理由は思いつかなかったが、逆にいえば、セイイツには、特別な理由など必要なかったのかもしれない。ただ単に、人に見られたくないとか、この方法が最短で目的地へ着けるからとか。いずれにせよ、セイイツにとっては朝飯前の作業だったろう。
グドンが黙ってしまったことで不安になったのか、ボウが今まで以上に自分の体重を彼に預けてきた。
思わず微笑んで何か話題を探そうとしたとき、グドンは遠くで微かな物音を聞いた気がした。すぐに歩くのをやめ、音のしたほうへ耳を澄ます。
何か嫌な予感がしたのか、ボウも足を止めた。グドンの腕を握る手に思わず力がこもる。
「何か音が聞こえる」
グドンが言うと、ボウの顔から一瞬で血の気が失せた。
ほら、だからいったじゃない、あのときすぐに駆け出していれば…、とは思わなかった。たとえ、ずっと駆けてきたとしても、何キロも違わない。海水が流れ込んできたとしたら、その程度の距離はあってもなくても同じだろう。
「海水? 海水が流れ込んできたの?」
彼女は自分でも声が震えているのがわかった。
「いや、違うと思う」
自分を慰めようとして、グドンが気休めをいっているのじゃないか。ボウはそれを見極めようとして、グドンを見つめた。
「どこかで聞いたことのある音だ。あれは確か…」
呟いたグドンは今来た道を振り返り目を凝らした。
暗い隧道の中にあっても、今の彼には、ずっと遠くまで鮮明に見渡すことができた。
三キロほど先の地点から、何かが急激な速度で二人に接近していた、
グドンも束の間それが海水ではないかと疑った。
なぜなら、その物体は薄く平たく、波打つように押し寄せてきていたからだ。
だが、色が海水とは違うと気づいた。
押し寄せてくるのは一色に見えるが、実は何色もの個体が集まってできたものだ。
「あれは…、大蟻だ!」
七号薬草地の幻覚で見たのと同じ、一面を絨毯のように覆った色とりどりの大蟻が、群れを成して迫ってくる。どこから下りてきたのか、蟻巣島の大蟻が縦洞窟を伝って大量に隧道へ侵入したようだ。
海水ではなく、大蟻だとわかったが、ボウはとても喜ぶ気にはなれなかった。
「どうして?」
それが彼女の第一声だった。どうにも納得できない様子だ。島は崩壊し、縦穴の底も土砂や岩石で埋まっている。いったい、どこに彼らが侵入してくる通路があったというのか? しかも、押し寄せる海水と見間違うほどの数? 残った島民は、二人を除いて死に絶えたというのに、大蟻は被害を受けなかったのか?
だが今は、そんな不満を口にしているときではなかった。
「心配することはないよ」
思わず駆け出しそうになるボウの心配をよそに、グドンはあっさり言ってのけた。
彼女を励ますつもりでいったわけではなさそうだ。
「どうして? 隧道を埋め尽くすほどの数なんでしょ?」
「そうだけど、大蟻は恐らく空を飛べない」
言われて彼女は、自分の愚かさを恥じるように苦笑いを浮かべた。
確かにその通りだ。蟻は空を飛べない。わたしたちは飛べる。いくら数が多いといっても、大群の波が永久に続くわけではないだろう。それなら、何とかやり過ごすことができるはずだ。
「あれ? ちょっと待ってよ」
とグドンが言う。
また揶揄われているのではないか、とボウは疑う目になった。
「まさか、羽蟻がいるとか言うんじゃないでしょ?」
彼女が言うと、あははとグドンが笑った。彼女の聡明さに驚いたようだ。正直、羽蟻とは考えてもみなかった。
「羽蟻もいるかもしれないけど、蟻は、地面だけじゃなく。隧道の側面や天井も埋め尽くしている」
「天井を埋め尽くす?」
恐怖にボウの顔がひきつった。
「そう。おいらたちが宙を飛んでいるときに、それが天井からばらばら落ちてきたら…」
「あ!」
思わず自分の髪を手で払いそうになるボウを見て、グドンは大笑いした。
「グドン!」
引っかかってしまった自分が悔しくて、彼女は顔を赤くして地団駄踏んだ。
「あなたは、どうして、そんなふうにふざけてばかりいるの!」
恨む視線で睨みつける。
そんな彼女をうっとり眺めながら、これが痘痕も靨というものだろうか、とグドンは考えていた。怒っても、泣いても、笑っても、拗ねても、ボウは天使のように可愛い。
思わず見取れていると、彼女の顔が一変した。
「もう手遅れだわ」
振り向いた彼女の視線の先に、やってくる大群の先頭が見え始めていた。




