108 縦洞窟
「変? 何が? 地下へ向かっていること? アサホはまだ何か隠していると思うの?」
彼女の問いに、グドンは小さく首を振った。
「わからない」
不安に囚われたまま、さらに下へと向かうと、突然、先頭のアサホが足を止めた。
必死の思いで階段を駆け下りていた他の者たちは、前へつんのめるように慌てて立ち止まる。何人かは前に立つ者の体にぶつかり、重なり合って倒れた。
誰もが、こんなに早くアサホが立ち止まるとは思っていなかったのだ。
殿を歩いていたグドンとボウはその被害を免れたが、怪訝な顔になり、互いに目を見かわした。
前方を改めて確認すると、地下へ下りる階段がそこでぷつりと途切れていた。
階段の先は短い通路が水平に続いていて、その先の壁に鉄製と思える扉がついている。
また扉か…。
心中、誰もがそう愚痴った。
「グドン、仙族の彼女を連れて、ここまで下りてきて」
アサホはほかの者たちを無視するように言うと、二人を急かせるように招き寄せた。
二人の行く手に立って前を塞いでいた者たちは、一瞬の逡巡のあと、体をずらせてグドンとボウに道を譲る。
あの扉の向こうに、さらに下へと続く階段があるのだろうか?
誰もがそう想像したが、グドンはそうではないと確信していた。もしそうなら、この扉で前後を隔絶する必要はない。それならば…。
グドンとボウは階段を下まで下り切り、アサホの隣に立った。
「この先へはわたしも行ったことがないの」
とアサホは告白した。
「この鍵は、以前、リョクギダンから預かったもの。そのとき、この先には海底隧道があって、島から抜け出すことができると教えられた」
「リョクギダンが?」
意外に思ったグドンは眉を顰めた。
この先の通路をリョクギダンが作った? そんなことはあり得ない気がした。それに、鍵をアサホに預けたというのも奇妙だ。
彼の疑念を察したようにアサホが説明する。
「リョクギダンはこの鍵をある人から預かったそうよ。その人は、リョクギダンにこの鍵を渡し、次に誰かこの通路を使いたいという人が現れたら、扉を開けてやってほしいと頼んだ」
「ある人? 頼まれた?」
グドンは、突然脳裏に浮かんだある思いに気を取られながらも、反射的にそう訊き返していた。
脳裏に浮かんだのは、はるか彼方から蘇った微かな記憶の断片だった。
「その人は、そう言い残して、この扉の向こうへ消えたそうよ」
アサホが続ける。
「リョクギダンは扉を再度施錠し、わたしにこの鍵を預けたの。多分その当時のリョクギダンは、すぐにこの島を離れるつもりでいたと思う。だから、本来話すべきでない事情をわたしに話して、鍵を預けた」
「その人というのは、誰なの?」
黙ってしまったグドンに代わり、ボウが質問した。
「わたしは会っていないし、リョクギダンもよく知らない人みたいだった。ただ、中年のとてもきれいな女性だと話していたわ。この世にこんな美しい女性がいるのかと驚いたと」
中年の美しい女性…。
その言葉を聞いたとき、グドンの中で何かが音をたてて弾けた。
彼は顔色を変え、思わず激しく体を震わせる。蘇った記憶が何なのか、彼にもようやく分かった気がした。
扉のことに気を取られていたボウは、グドンの変化に気付かず、さらに質問を続ける。
「あなたは、この先に何があるか、確かめようとしなかったの?」
アサホの性格からして、扉の存在を知りながら、少しの好奇心も抱かず放置したとはとても思えなかった。
「リョクギダンが言ったのよ。この扉を開けても、わたしや彼には何の役にも立たない。それどころか命を捨てに行くようなものだと」
「命を捨てに行く?」
さすがにボウも息をのんだ。
「それは、扉の向こうに何かいるということ?」
そう訊いたとき、グドンが信じられないほど荒々しい動作でアサホから鍵をひったくった。これにはアサホだけでなく、ボウも唖然とし思わずあっと声を上げた。
しかし、グドンは二人の反応など一顧だにせず鍵穴に鍵を差し込むと、迷うことなく扉を解錠した。
ガチャリと大きな音がして鍵が外れ、ほんのわずかに扉と壁の間に隙間が開く。
さらにグドンがドアの持ち手に力を込めると、その形状からは信じられないほど軽く扉が手前へ開いた。
中を覗いた誰もが、驚嘆の声を上げた。
扉の向こうには何もなかった。
ただ暗闇が延々と奈落の底へと続いている。
それは聖地へ下りる穴とは比べ物にならない巨大な縦洞窟だった。
垂直方向へはもちろん、水平方向にもどれほどの大きさがあるのかまったく目視できない。
どこからともなく吹き上げる風に、その場にいた誰もが思わず後ずさった。
階段を下りながら感じた違和感はこれだったんだ、とグドンはようやく理解した。
女王蟻の住処へ下りる穴でさえ、百メートル近くの深さがあった。これが海底隧道へ続く階段となれば、その何倍もの距離を下りなくてはならないはずだ。そんな人工の階段がこの世に存在するだろうか?
おそらく、海底隧道へいくには、この縦穴を飛び降りるしかないのだろう。
だが、グドンの一番の衝撃はそこではなかった。
一番の衝撃は、自身の記憶だ。
かつて、おいらはここへ来たことがある! グドンは今、そう確信していた。正確にいえば、この扉の前ではなくこの縦洞窟の底、海底隧道の中だ。昔、自分はそこに立ち、ある人が戻ってくるのを待っていた。とても美しい中年女性、グドンを渉不城へ連れて行ったあの女性だ。
グドンは渉不城を離れるにあたって、ずっと不思議に思っていたことがあった。それは、もっと幼かったころ女性に連れられ渉不城の町へ入る際に、自身が湖を通った記憶がなかったことだ。
湖を渡るには、町の半妖と共に舟に乗る必要がある。だが、そうした記憶がまったくなかった。
町の半妖は、グドンを連れた女性が突然どこからともなく現れたと噂していた。それはつまり、グドンたちが海底隧道を通って渉不城へ入ったからではないのか? 隧道は蟻巣島の海底だけでなく、その先も地下を通り渉不城まで続いている。
そう考えると、何もかも辻褄があう気がした。
それにしても、自分はなぜ海底隧道のことを忘れていたのか? 考えられる理由としては、中年の女性が彼の記憶に何か細工をしたということだ。
「グドン! グドン!」
誰かが何度も自分を呼ぶ声に、グドンははっと我に返った。
見ると、ホウカ、いや、ボウが心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。
「ふふ。大丈夫だよ」
グドンは照れ隠しにボウに向かって小さく笑うと、アサホに向き直った。
「ここから、どうやって底まで下りるの?」
アサホは返事をしなかった。
別にグドンも彼女を皮肉る気などなかった。ただ単純にアサホの計画を訊きたかっただけだ。しかし、アサホの青ざめた表情を見れば、答えは聞くまでもなかった。彼女も、この扉の向こうがどうなっているか、本当に知らなかったのだ。
「こうなると、あなただけが頼りね」
アサホには珍しく縋りつくような声を出した。
背後で何人かが唾をのみ込む気配がする。
振り向くと、自分たちが下りてきた階段の先を見上げている者もいる。
これから上へ戻って助かる見込みはあるだろうか? そんな計算をしているのが誰の目にも明らかだった。
だが、答えは言うまでもなく否だ。上へ戻っても彼らを待っているのは死だ。
とはいえ、この縦穴へ飛び降りることは、その死をさらに早めることにしかならない、と誰もが知っていた。
「どうすればいいんだ!」
誰かが絶望の声を上げると、それに付和するようにすすり泣きが聞こえた。
「半妖なら、空を飛べる!」
屈強な男の一人が大声を上げた。
「おれはこいつが聖地の縦穴へ飛び込むのを見た。一緒にいる女もだ。二人はまだ生きている。だから、もしその気があるなら、我々を助けることができるはずだ」
アサホも彼に目をやったが、すぐにその視線を足元へ落とした。
確かにグドンにはその力があるかもしれない。だが、一度に全員を抱きかかえて下ろすのは無理だ。一人ひとり底まで下ろしていて、全員を救う時間的余裕があるとも思えなかった。誰がどう考えても、グドンに全員は救えない。
それなら、仮にグドンが自分を優先的に下ろしてくれたらどうだろう?
だが、その考えもすぐに否定する。いったい、何が悲しくてグドンがそんなことをしなくてはならないの? わたしはグドンを殺そうとした。たとえそのことを知らなとしても、好意を持っていないことは気づいていただろう。それに、相手が別の誰かなら、条件次第で交渉が成立するかもしれない。だが、グドンにだけは、そんな手は使えそうになかった。
アサホだけでなく、誰の顔からも血の気が失せていた。
いっぽうでその目は、血走っている者もいれば、絶望で光を失っている者もいる。
そのすべての目が今、グドンへ向けられていた。
グドンは溜息交じりに縦穴の底へ目をやった。
ここにいる全員を救うことは可能だろうか?
方法が皆無ではない気がした。だが、自分にやれるかどうか自信がない。
迷っている暇はなかった。時間は刻一刻と過ぎていく。周囲の揺れは先刻より確実に強まっていた。
グドンは決意を固め目を閉じた。
彼のそのあとの行動に、ボウを除く全員が彼の正気を疑った。グドンはその場に腰を下ろすと、胡坐をかき、何と瞑想を始めたのだ。
「こいつ、何のつもりだ?」
誰かが呟くと、
「自分だけ助かりたいなら、さっさと一人で逃げればいいじゃないの。こんなことして嫌味だわ。わたしたちが全員飛び降りて死ぬのを待つつもりなの?」
グドンに掴みかかろうとする者もいたが、ボウがそれを造作もなく跳ねのけた。
その男は、三メートル近くも飛んで階段の上に落下すると、体を打ち付け動かなくなった。
彼女の思わぬ反撃に、あたりはしんと静まり返った。
こいつも半妖なのを忘れていた! いや、今は仙族か。彼らがその気なら、全員を穴の下へ投げ落とすことくらい造作もないのだ。ようやくそのことに気付いたようだった。
何人かはその場にしゃがみ込み、絶望から頭を抱えた。
また、すすり泣きが聞こえ始める。
男の一人がフラフラと巨大な縦穴のほうへと近づいたが、誰も止める者はいなかった。
皆、精神的な限界が近づきつつある。
男がまさに死への跳躍を始めようとしたとき、グドンが目を開き、立ち上がると、男に歩み寄って肩を叩いた。




