107 鍵
逃げるんだ!
自分に言い聞かせると、グドンはよろめきながらも立ち上がり、聖地の分岐点に繋がる穴の下へと駆けだした。
「ボウ…」
彼女を助けなくては。そのことだけが頭にあった。
穴の下まで到達し、飛び上がったグドンが上昇を続ける間も、両側の壁がバラバラと崩れ落下していく。
落下する土砂は小さな欠片から、やがて数メートルにも及ぶ巨大な岩石へと変化していた。
穴の頂上へ達したときには、揺れの激しさで、グドンはもうまっすぐ立っていられなかった。
島全体の崩壊が始まったのか?
そうとしか思えないほど激しい揺れだ。
直接戦闘とは関係がないとしても、これは、おいらが妖獣を殺したことと何か関係があるんだろうか? 女王蟻の命がこの島の存在そのものと繋がっていたとか? だとしたら、今島に残っている島民の息の根を止めたのは自分ということになる。
だが、そんなことがあり得るだろうか? どう考えても話に無理がある気がした。
それに、今は、自分を責めたり、島が沈む原因を考察しているときではない。
ボウは、グドンが離れたときのままの格好で地面に倒れていた。
ボウを抱き上げると、彼は全速力で聖地の出口へ向かって滑空した。
通路には人っ子一人いない。
入口から地上へ飛び出したときも、付近には誰もいなかった。
それがせめてもの救いだった。
どうみても、島の崩壊は先ほどの戦闘場所付近から始まっている。それなら、女王蟻が巣くっていた箇所から離れれば離れるほど、安全性が高まるはずだった。
ここからどこへ向かうべきか? 滑空しながらも、グドンは考えた。
海岸か? 桟橋へ出れば、まだ舟が残されているかもしれない。いや、このままボウを抱いて空を飛んでいくのはどうか? それが、一番早く安全な方法にも思えた。だが、それでは今島に残っている者たちを見殺しにすることになる。
そんなことを考えていたとき、視線の先に動く人影が見えた気がした。
あれは、アサホじゃないか?
グドンは思わず動きをとめた。
見ると、アサホが自分の屋敷の中へ駈け込んでいく。
とっさに、グドンは方向を変え、アサホのあとを追うことにした。
彼女は島から逃げもせずに、ここで何をしているのだろう?
彼女が島から逃げる手段を何も講じていないとは思えない。桟橋で船に乗るのが一番安全と判断したなら、必ず桟橋へ向かうはずだ。屋敷に戻るということは、何かそれなりの理由があるからに違いない。
もちろん、彼女が混乱し、正常な判断力を失っている可能性もある。
グドンはそうでないことに賭けた。
屋敷の入口で、彼が空から下降したとき、胸元でくぐもった声が聞こえ、ボウが意識を取り戻した。
「ここは、どこ? わたしはどうなったの?」
自分がグドンの腕の中にいることも、彼女は理解できていないようだ。
だが今は、詳しい状況を話している暇はなかった。
閂のかかった屋敷の門を、グドンは蹴破った。
その激しい物音に、ボウがびくりと体を震わせる。
グドン…。そう、グドンがわたしを動けなくして…。術をかけられたまま置き去りにされたんだ。でも、今、彼が一緒にいるということは、化け物との戦いにはケリがついたということか? でも、それならなぜ、こんな緊迫した表情をしているの? まるで何かから逃げようとしているように見える…。
彼女は衝撃で急速に記憶が戻ったらしく、彼の腕の中で抗うようにした。
「とにかく、わたしを下ろして。自分で歩けるから」
言われるまま、グドンはボウを床に立たせたが、いっぽうで、さらに何か喋ろうとするのをしっと唇に指をあてて制し、周囲の物音に耳を澄ませる。
ほんの微かにどこかで人の動く気配がする。
誰かがトントンと板状のものを踏みながら駆け足で移動していく。
階段だ。上の階へと階段を駆け登っている。
もちろん、その誰かとはアサホに違いなかった。
ボウへ何の合図を送ることもなく、グドンは音のするほうへ駆け出した。
ボウはいったん追いかけようとして考え直し、その場に留まった。
上の階へ行ったまま下りてこないことはないだろう。それなら、ここで待っていたほうが、グドンの足手纏いにならずにすむ。
彼女は、まだ朦朧としたままの頭をはっきりさせようと、額を擦りながら、その場に腰を下ろした。
いっぽう、アサホのいる部屋へグドンが飛び込んだとき、彼女は金庫の中から何か取り出している最中だった。
一瞬、金目の物を取りに戻ったのかと思ったが、そうではなさそうだった。だいたい、今さら財産を取り出したところで何の役にも立たない。手遅れだ。それに、彼女のことだから、財産の大半はとうに運び出しているに違いなかった。
案の定、アサホの手に握られているのは、小さな鍵が一本だけだ。
「こんなところで何をしているの? 島は沈みかけてるのに!」
背後からグドンが声をかけると、アサホはゆっくり振り返った。
驚いた顔も見せず、小さく笑っている。
まるでグドンが来ることを予期していたかのようだ。
「あなたこそ、こんなところで道草を食っていていいの? あ、そうだった。仙族の彼女とは会えた? あなたを追って穴の下へ下りていったと聞いたけど」
グドンはアサホを睨んだあと、小さく溜息をついた。今は、無益な皮肉や当てこすりを言い合ってる場合ではない。
「島が崩壊しかけてるのに、なぜ、屋敷へ戻ったの?」
グドンが訊いた。
「ひょっとして、その鍵のせい? それが逃げるのに必要だから危険を承知で戻ったの?」
アサホもすぐに真顔に戻った。
「今から船を出しても、もう間に合わない。生き延びる唯一の命綱がこの鍵よ」
と鍵を掲げて見せる。
「でも、説明している暇はないわ。すぐに地下へ下りないと。あなたが一緒に来てくれるなら、歓迎する」
グドンは頷くと、何も言わず彼女に近づいてその腰に腕を回し、小さく飛び上がった。
そのまま階段の上を地上階まで飛翔して下りていく。
二人が戻ってくるのを見たボウが立ち上がった。また例の仮面をかぶり、ホウカの顔に戻っている。
グドンは着地するとその場にアサホを下ろし、
「そうだ、リョクギダンは? 彼と一緒じゃなかったの?」
訊かれたアサホは一瞬素に戻り、表情を暗くしたあと、
「島を離れたわ。あなたが穴の下へ下りたあとすぐにね。何か凄くショックを受けたようで、ぼんやりしたまま舟に乗り込んだ。きっと今は海の上よ」
その原因をつくったのはあなたじゃないの?
彼女はそう訊きたげな視線をグドンへ送ったあと、
「でも、彼には、あれが一番よかったのかも。もっと早くここを離れるべきだった」
「そう…」
とグドンは頷き、
「それで、これから、どうするの?」
アサホはちらりとボウへ目をやったが、彼女の容貌には何も触れず、
「だから、地下へ行くのよ」
「地下?」
グドンの顔が曇る。
地下へ下りても、今の状況から逃れられるとは思えなかった。島全体が崩れてしまえば地上も地下も関係ない。
彼女も彼の気持ちが分かった様子で、
「そこから、海の下を通る隧道へ出られるの。そのための扉を開く鍵がこれ」
と、余計なことはいわず、再び手に持った鍵を掲げる。
グドンとボウは驚きに目を瞠った。
海底を通る地下隧道?
この島の地下に、本当にそんなとんでもないものが通っているというのか?
本当だとして、誰が作ったのか?
古族? それとも、妖族?
グドンやボウはにわかに信じられなかった。
アサホがさらに何かいおうとしたとき、屋敷の入口から、二十人ほどの男女がどやどやと駆けこんできた。
「逃げるなら、おれたちも一緒に連れて行ってくれ」
男の一人がハアハアと息を切らせながらアサホに懇願した。
「桟橋には全員が乗れるような船はもう一艘もない」
と、別の男が事情を説明する。
「それに、小さな舟で沖へ出ても、島が沈めば渦に巻き込まれて沈んでしまう」
先ほどの男の傍から中年の女が声を張り上げた。
どんな理由で彼らが島に残っていたにせよ、今は島を離れることで必死なようだ。残った島民の大半がここに揃っているといってよかった。
これで、彼らを見捨てたと自責の念にかられずすみそうだ、とグドンは皮肉交じりに考えた。結果がどうなろうと、あとはもうおいらのせいじゃない。
「とにかく、今すぐ地下へ下りるのよ」
ほかの人間を無視するように、アサホはグドンに言うと、目の先に見えていた下りの階段には見向きもせず、先頭を切って廊下を屋敷の奥へと進み始める。
誰もが不審な思いを抱きながらもあとに続いた。
彼女はどこへ行こうとしているのか? 地下へ下りるんじゃなかったのか?。
不安の入り混じった視線が集まる中、アサホは入り組んだ廊下を右へ左へ何度も曲がりさらに奥へ進む。
最後にたどり着いたのは、行き止まりにあった小さな部屋の前だった。
見た目は居室というより倉庫か納戸に見える。
彼女は動きを止めることなくその扉を開けると、先頭を切って部屋の中へ入った。
全員が彼女に続く。
室内には、所狭しと古びた家具が積まれていた。それ以外には何もない。
こんなところへ来て、彼女は何をするつもりなのか?
島主と言えど、事態の急変でパニックを起こし、異常な行動をとり始めているのか?
彼女以外の全員が呆然と周りを見回す中、アサホは何もいわずそのガラクタを片付け始めた。
誰もが彼女を手伝うべきか考えあぐねていた。ほとんどの者は、ただ苛立ちと不安のこもった目で、じりじりとアサホの動きを見守っている。
アサホは、ガラクタをいくつかどけると、さらに薄汚れた箪笥に手をかけた。
ガタン!
大ぜいの目の前で、箪笥は意外にも横滑りし、そこにさらに奥へ続く扉が現れた。
多くの者があっと声を上げる。
隠し扉だ!
こんなところに扉をつけて、この奥にいったい何を隠しているのか?
ほかの者たちが何かを尋ねる暇もなく、アサホは扉を開け中へ入った。
奥には階段があって、どうやら、そこから地下へ下りられるようになっているようだ。
アサホは後ろを振り返ることなく、無言で階段を下り始めた。
誰もが先を争って彼女のあとに続く。
殿から、グドンとボウもあとを追った。
今や地面の揺れは、さらに激しさを増している。その影響は地下へ下りても変わらなかった。
ボウは、隣を歩くグドンへちらりと目をやった。
どうして、島が突然こういう状態になったのか、グドンに訊いてみたい気がした。だが、今はそんな余裕はないし、理由を知ったところで彼女に何かできるとも思えない。それより気になるのはグドンの表情だった。彼女と並ぶように下へ下へと進みながら、彼の表情がどんどん険しくなっていくのが見てとれる。
「どうしたの?」
彼女は訊かずにはいられなかった。グドンはきっと、何か自分が気付かないことに気付いて憂慮しているのだ。
「何か変だ」
グドンは短く答えた。




