105 怖い。でも忘れられない
彼の誤解を察したのか、ボウが小さく笑った。
「笑うの?」
「大丈夫。ホウカさんは安全よ」
と彼女は言った。
「あのとき、タンタンも一緒だったの。ホウカさんが溺れかけたとき、わたしが彼女と入れ替わって、彼女はタンタンが陸へ運んでいった。水中を通ったから多少は水をのんだかもしれないけど、命の心配はいらないはず。タンタンに感謝しないとね。彼女は、あなたが思っているほど悪い子じゃないの」
タンタンの性格はともかく、今は、ボウをここから連れ出すことが先決だった。
振り返って妖獣たちに目を向けると、戦いはまだ続いていた。女王蟻の頭はほぼ食い尽くされ、今は女王候補三頭の戦いへと舞台が移っている。
どれも手足が欠損し全身青い血で濡れているが、まだまだ力に溢れていた。
グドンは彼女の手を掴むと、降下してきた穴のところへ向けて駆け出した。
「きみは地上へ戻るんだ。あの三頭が相手となると、きみを守る自信がない」
それはグドンの本音だった。若い三頭は明らかに女王蟻より手ごわそうだ。
元の女王蟻は寿命が尽きて力が弱っていた。グドンの幻覚にあっさり負けたのもきっとそのせいに違いない。仮に全盛期だったら、あれほど簡単に脳海から締め出せたかどうかもわからなかった。
しかも、母親の頭部を食した三頭は、明らかに初めて見たときより脅威を増していた。体が大きくなり、動きも格段に素早くなっている。それはきっと、奴らが女王蟻の脳を消化吸収したせいだ。だからこそ、彼らはグドンには目もくれず女王蟻の脳を求め激しく競い合ったのだ。女王蟻の脳を食することが自分の能力向上に繋がる、と本能的に知っていたのだろう。これこそがまさに能力の継承である、と。
であれば、今の彼らと戦って、グドンにどれほどの勝ち目があるか、本当に未知数だった。
二人は散々駆けて、やっと地上から落下した穴の下まで到着した。
そこで見たものに、ボウは思わず目を逸らせた。
それは人族の死体だった。いや、死体の残骸といったほうが正確だ。
激しい衝撃で少し窪んだ穴の中に、かつて人族だったと思しき物体が、無残な姿を晒している。しかも今は、その残骸に無数の大蟻が群がっていた。大蟻は、残骸をさらに細かく切断し、運搬に適当な大きさに小さくしたものを、次々にどこかへ運び去っていく。
きっと、食糧庫へ運んでいくのだろう、と二人は想像した。
穴の下が人の遺骸で汚れていなかったのは、こうした理由があったのだ。
それにしても、ここになぜ人族の死体があるのか? 上から飛び降りて無事に済むと思ったのだろうか? もし、強欲に駆られて飛び降りた者がいたとすれば、まったく救いようがない気がした。
蟻たちは、二人の出現で一時的に作業を中止し、少し距離をとったままグドンたちの動向を窺っている。
二人がここを去るのを待ち、再び作業を再開するつもりのようだった。
「きみ一人で地上へ戻れるよね?」
グドンは真剣な眼差しをボウへ向けた。
ぐずぐずしていると、自分たちも目の前の人族の二の舞だった。
「何を言ってるの? あなたも一緒に逃げるのよ!」
わが子の無謀を責めるように、ボウが気色ばんだ。
それでもグドンは首を横に振る。
「駄目だよ。奴らをここで殺さないと、また犠牲者が出る。一匹でも生き残れば、アサホはそれを利用して金儲けをしようとするだろう。そのために犠牲者が出ようとお構いなしだ」
ボウにも、彼の言うことがよく理解できた。少数の犠牲者に目をつぶるのはしかたない、とアサホならそうした考え方をするだろう。社会にとってそれは必要悪であり、一種の誤差でしかない。社会全体が不幸になるのと、少数が不幸になるのと、とちらを選択するべきか? 答えは明白だ。少数の犠牲など、全体から考えればゼロに等しい。つまり、誤差だ。
女王蟻がすべて死滅しないかぎり、アサホやアサホと考えを同じくする者たちは、必ず蟻巣島を元通りに復活させようとする。そして、また多くの犠牲者が出る。
それはわかっていたが、ボウにとってはやはりグドンの命のほうが大切だった。
今はとにかくグドンに死んでほしくない。
口を開こうとした彼女をグドンが制した。
「きみは、おいらと繋がろうとしたとき、自らの意思で離れていったよね? 初めは、仙族のいう婚姻に失敗したのかと思ったけど、あとからそうじゃないと気づいた。きみは、おいらの中で何かを見て、一つになることを拒絶したんだ。つまり、おいらから離れることを選択した」
まさに冷や水を浴びせられた思いで、ボウはその場に立ち尽くした。全身が硬直したようで動けない。体だけでなく心も一瞬にして凍り付いたようだった。
「だから、きみがおいらの安全にそこまで拘るのは、少し違和感があるよ」
とグドンは静かに言った。
言われた彼女は、かつてグドンの魂の奥底で見たものを思い出した。ほんの少し思い出しただけでも、身震いが止まらなくなるほど悍ましいもの…。絶対に傍に近寄りたくない。だから、自分はグドンと繋がらないことを決めた。
確かにその通り。いわば彼との関係を断ち、婚姻を放棄する道を自分は選んだのだ。それなのに、なぜ、今ここに立ち、彼の安全以外に何も大事なものはないと思っているのか?
もちろん、これは矛盾だ。だが、それこそ、ボウがこっそりここまでグドンについてきた理由だった。
グドンが怖い。でも、忘れられない。心の中のそうした矛盾に気付いたからだ。それに、グドンが悪魔のような存在だとはどうしても信じられなかった。
何としてでも、それを確認しなければ…。
「わたしを地上へ追い返すために、そんな冷たいことを言ってるのはわかってるわ」
ボウはやっと口を開いた。
「でも、無駄よ。わたしをいくら非難しても構わないけど、今はどっちにするか選んで。わたしとここを離れるか、二人で一緒に死ぬか」
しばらくして、グドンはふと笑みを漏らした。
「まるで、ホウカみたいだ」
ボウはツンと顎を反らせた。
「ホウカさんがこんなことを言うかしら」
「言うよ。自分の意思を通すためなら、何でも言う」
真剣に考える顔になったボウに、グドンは笑みを大きくした。
「揶揄ったのね?」
拗ねたように彼女はグドンを睨む。
いつものボウだ、とグドンは益々彼女が愛おしくなった。
「わかったよ。二人一緒に地上へ戻ろう」
言うが早いか、グドンは彼女の腰に腕を回した。
「待って。わたしは自分で…」
飛べるからと抗おうとしたが、二人の体はふわりと宙に浮き、すぐに猛スピードで上昇を開始した。
普段、自分が空を飛ぶのとはまったく違った感覚にボウは圧倒された。
強い力でぐんぐん地上へ向け上昇していく。
上を向いたままだと風圧で呼吸ができないほどだった。
海岸で見たグドンの飛翔訓練を彼女は思い出した。
あのときと同じ速度で、宙へ舞い上がっている。そう思うと鳥肌が立った。
怖いと思う間もなく、気づくと聖地前の分岐点まで到達していた。
地面に足を下ろしホッとしたとき、彼女は金縛りにあったように身動きできなくなった。
騙された、と気付いたときには、もう手遅れだった。
「リョクギダンたちは、もういなくなったみたいだ」
ボウを地面に座らせ、周囲を見回しながらグドンが言った。
分岐点の前には誰一人残っていない。
ここで、ボウの意識は完全に途切れた。
「でも、念のために仮面は被らないほうがいいかもね。このままなら、きみは誰にも見えない。大丈夫。おいらはすぐに戻ってくるから」
ボウにはもう聞こえていないとわかっていたが、グドンは彼女の体をそこに横たわらせると、そう話しかけ、そのあと、再び穴の中へ身を躍らせた。




