103 女王蟻
落下を終えたグドンはふわりと羽毛のように地上へ下り立った。
穴は想像したほど深くはなかった。せいぜい百メートルといったところか。落下に要した時間とすればあっという間だ。
落下した先は、もちろん聖地ではなかった。
辺りには一本の薬草も見当たらない。
内心、落下の終点地が怪物の口の中ではないか、と心配していたグドンは、とりあえずホッと胸を撫で下ろした。
たとえ口の中であったとしても、すぐに噛み殺されない自信はあったが、敵と対峙するなら、多少なりとも時間的余裕があったほうがよいに決まっていた。
前方には、広大な洞窟が広がっている。
周辺を見回したが、地面に人族の骨や肉体の残骸のようなものは残っていなかった。
穴へ落ちたものが、全員、ここへ到達するわけではないということか?
グドンは首を傾げ、さらに詳しく周辺を観察した。
落ちた獲物の死骸を何者かが持ち去った可能性もある。だが、地面に引き摺った痕跡は残っていなかったし、この場で食した様子もなかった。
迷うことなく、グドンは洞窟の奥へと進んだ。
進むにつれて、どこからか、鞴で風を送るような、ひゅうひゅういう音が聞こえ始めた。洞窟のどこかに外へ通ずる風穴があって、そこから空気が吹き抜けているのかと考えたが、そうではなさそうだった。
音は正確なリズムで持続的に強弱を繰り返している。自然の風なら、こうした現象は起こりえない。
しかも、しばらく聞いていると、音が次第に大きくなり始めた。
洞窟を抜け、さらにどんどん進んでいくと、いきなりポッカリと開けた広大な土地へ出た。地下であることには変わりはないが、天井高が四五十メートルもあり、小さな公園並みの広さがある。
そこで見たものに、グドンははっと息をのんだ。
横たわっているのは蟻を思わせる巨大な妖獣だった。体長が二十メートルほどもあり全身真っ黒、頭部に触手がある。骨格を含め見た目はまさに女王蟻と呼ぶに相応しかった。
音はその化け物から発せられている。
一目で、化け物の命が風前の灯火であると見てとれ、聞こえていた音の正体は、妖獣がゼイゼイと苦しそうにたてる喘ぎ声だとわかった。
全身が青い液体で濡れていて、六本あったはずの足の一本は途中から捥がれてなくなっている。
青い液体が妖獣の血液なのは明らかで、何者かと戦いで深手を負ったものと思われた。
リョクギダンの話を信じるなら、相手は世代交代を求める若い女王蟻候補と考えるのが妥当だ。
侵入したグドンに気づき、振り向いたその目には、明らかに高い知性が感じられた。
「糞忌々しい妖族め!」
信じられないことに、その妖獣は人の言葉を喋った。
妖獣が喋った? この世には喋れる妖獣がいるの? ひょっとして、こいつは妖獣じゃなく、妖族じゃないのか?
グドンはそう疑った。
当然ながら、妖族と妖獣は同じではない。
妖族は姿かたちを人のように変化させることができるし言葉も喋れる。それに対して、妖獣はあくまで獣で、妖力を持つものの、例外を除いて喋ることができず姿を変えることもできない。
事情を知らない者は、妖族とは、妖獣が進化したものだと信じているが、実際には両者に直接の繋がりはない。妖獣がどれほど長生きし、能力を高めたところで妖族になれるわけではない。
それを示すように、妖族はかつて、妖獣をただの獣とか野獣と呼んでいた。しかし、人族が妖獣と呼んでいることを知り、それに抗う思いから、いっとき人獣と呼んでいたこともあるほどだ。
人族はそれを聞いて大笑いしたが、妖族としては真剣そのものだった。
まあ、公平にいうなら、妖族と妖獣は、人と猿の関係といえばわかりやすい。
以前は猿が人族の直接の祖先と思われていたが、今、そうした考えを持つものは少ない。生き物の進化という点でいうなら、確かに、猿は人族の祖先かもしれないが、それをいい始めたら、魚類でさえ人族の祖先ということになるだろう。
それゆえ、目の前の妖獣が喋ったとき、グドンは心臓が止まるほど驚いた。少なくも彼のこれまでの生涯で、喋る妖獣を見たことがなかった。
「おいらは妖族じゃないよ」
驚きはしたものの、グドンはまったく臆することなく言った。
語りかけながら、同時に相手を事細かに観察する。
この大きさからして、普段なら、やはりグドンが落ちた穴の下で口をあけて待ち受けていても不思議ではない気がした。だが、今は息絶え絶えでそれどころではないのだろう。
自分で自分の足を食いちぎったとも思えないから、間違いなく誰かにやられたのだ。そして、そんな誰かとは次の女王蟻候補に違いない。
「妖族でなかったら何だ? いずれにせよ、おまえのせいで、こんな羽目に陥った」
「おいらのせい?」
いわれのない非難を受けて、グドンは目を丸くした。
「おまえが誰かに痛めつけられたことと、おいらにどんな関係があるの?」
「薬草地で奇妙な妖力を使い、わたしの手下どもに危害を加えたろう。嘘をついてもわかるぞ。あの時の奴とおまえはまったく同じ匂いだ」
言われたグドンは口をあけて笑った。
「それなら、確かにおいらのせいだ」
つまり、弱っているところを、さらにグドンとのやり取りで精力を使い果たし、別の誰かに抵抗する術もなく痛めつけられたということか。ご愁傷様…。
「おまえが何をしにやってきたかはわかっている」
妖獣がグドンを睨みつける。
「殺したければ殺すがいい。だが、簡単にやられる気はないし、仮にわたしを殺したところで、おまえは何も手に入らん。いずれそれがわかるだろう」
「つまり、おまえを傷つけた奴のこと?」
「もう話は終わりだ。さあ、かかってこい!」
言うが早いか、どこからともなく、無数の大蟻が妖獣の周りに湧いて出た。
グドンがここへ来る前から準備を整えていたようだ。
前方だけでなく、前後左右、彼の周囲をぐるりと埋めるように取り囲んでいる。
グドンの機先を制するように、無数の蟻たちは口から何かの液体を吐き出した。
液体がかかった周囲の岩石は、シュウシュウと音を上げて溶け始める。強烈な匂いが辺りに立ち込め、白い煙があがった。高濃度の酸のようだ。
何千、何万という大蟻から吐き出された大量の酸は、岩石を溶かすと同時に、窪んだ地面に黒いシミをつくり、それがやがて液溜まりとなって最後には小さな池に変わっていく。
グドンは宙に舞い上がり、同時に、大蟻たちに腔妖術をかけた。
一部の大蟻は彼の指示を受けたように、体の向きを変え、仲間たちへ向けギ酸を噴射する。ギ酸は容赦なく同胞の体までも蝕み始めた。
やがてグドンの命令を受けた半数の大蟻が、残り半数と、組んず解れずの激しい戦闘を開始した。
グドンは酸の池を避けて地上へ下り、自らの全身を炎で包み込んだ。
近づこうとする大蟻が悲鳴のような金属音を上げて燃え上がる。
敵も味方も区別なし、燃える大蟻に近づくものは、さらに燃えて灰燼と化した。
制御を失った大蟻が散り散りに広大な空間へ広がっていく。一部は自ら酸の池に飛び込み、断末魔の叫びをあげながらドロドロに溶けていく。
グドンが束の間の勝利に息をつく暇もなく、妖獣が彼に向かって突進してきた。それまで息も絶え絶えだったことが嘘のような俊敏な動きだ。
妖獣はやはり口から何か吐くと同時に、その鎌のような鋭い手でグドンの首を掻き切ろうとする。
ギンッ!
グドンの持った小剣がその鎌と激突して火花をあげた。
何とか小剣で妖獣の力を受け止めようとしたが、その衝撃はグドンの想像をはるかに上回っていた。
弾き飛ばされた小剣は彼の手を離れ、彼の背後どこか遠くへ消え去っていく。
得物を失った彼はもう完全に無防備だった。
妖獣が続いて繰り出す手刀に、グドンはきりきり舞いで逃げ惑う。
自分も絶対に何か武器を手にれなくては駄目だ。
グドンはそのことを肝に命じた。
だが、妖獣の攻撃はその間も途切れることなく執拗に続く。
グドンはやっとの思いでその場から飛びのくと、そのまま洞窟の天井近くまで上昇した。
とたんに妖獣の目が光る。
見下ろすと、洞窟のほうから大ぜいの見知った顔が駆けてくるのが見えた。
中にはホウカやリョクギダン、アサホの姿もある。
彼らの後ろを大量の大蟻が追いかけていた。
リョクギダンの体はすでに一部が大蟻のギ酸でやられ、溶けて醜く歪んでいる。
「助けて、グドン!」
ホウカが上空の彼へ向け泣き叫ぶ。
咄嗟に上空から降下しようとしたグドンは、心の何かに警告を受け、動きを止めた。
これは罠だ!
人族のアサホはもちろん、リョクギダンでさえ、あの穴を底まで落下して助かるはずがない。
おいらが見ているのは幻覚だ!
「おまえの幻覚はおいらには通用しない。まだわからないのか?」
グドンは海岸での修練を思い起こし、周囲一帯に自らの幻覚を放った。
遠くから押し寄せる大波だ。
空間が激しく振動し、幻覚と幻覚が衝突する。
周りの空気が一度大きく揺れると、波にさらわれるようにホウカたちの姿が消えていく。
続いて、妖獣の立つ地面がぬかるみ始め、そこから湧き出した大量のギ酸で、妖獣が溺れ始めた。
妖獣は必至で抵抗するが、ギ酸の量はどんどん増えていく。まるでギ酸の大海に放り込まれたようだ。
「小僧、おまえの幻覚になど、騙されんぞ!」
そう叫んだものの、溺れまいとする本能から、手足をばたつかせる動作を止められない。
それを見た上空のグドンが笑った。
妖獣は何もない地面で一人、のたうち回っている。
「そんなところで、なぜ踊ってるの? ほら、左足を持ち上げないと溶けてしまうよ。次は右手。あ、また左の足だ」
「キーン!」
グドンの哄笑をかき消すような大音量で妖獣が金属音を発した。
これがこの獣の本当の声なのだろう、とグドンは思った。思った瞬間、言葉にできない悪い予感に背筋が凍る。
何か変だ!
頭の中では、まだ金属音が響いている。
耳を塞ごうとしても、まるで音源が自分の頭の中にあるようで遮断できない。
おいらの頭の中に何かいる!
グドンがそう感じた刹那、突然、妖獣の姿が脳裏に浮かび上がった。
妖獣に脳海へ入られた! これはまさに小犬が使ったのと同じ能力じゃないか!
だが、グドンは慌てなかった。
グドンも自らの脳海に入り応戦する。
グドンの分身が妖獣の分身と睨み合った。
次の瞬間、グドンは脳海から自分以外の全てを締め出そうと眼力に力を込める。
パンと泡が弾けるように、頭の中の妖獣が消えてなくなり、脳内に静寂が戻った。
本体へ戻ったグドンが妖獣を睨みつけると、相手は畏怖と驚愕で何歩か後ずさる。
これほど簡単に脳海から締め出されるとは思ってもみなかったようだ。
「お、おまえ、どこでこんな能力を身につけた!」
悲鳴のような声に、グドンはせせら笑って、
「おまえの母さんが手取り足取り教えてくれたんだ」
今度はおいらの番だとばかりに、グドンは妖獣の脳内へ侵入する姿勢をとった。
妖獣はそれを敏感に感じ取り、クリルと体を反転させると、一目散に逃げ始める。
もう勝負はついていた。
「逃げられるとでも思っているのか?」
グドンはかまわず跳躍すると妖獣の背中に飛び乗り、自らを全身炎と化した。
妖獣が一気に燃え上がる。
その金切声に洞窟内の空気が震えた。
「妖族のおまえたちはいつも我々を傷つける。いつか天罰が下るぞ!」
「おあいにく様、天罰を受けるのはそっちだよ。人族をあれだけ犠牲にしておいてよく言えたものだ」
グドンが飛び降りると、妖獣は火だるまになったまま奥へ奥へと逃げていく。
高熱で溶けた蟻の尾が本体から千切れて地面へと落下した。
「死にたくない。まだ死にたくない!」
もう数本しか残っていない足で、それでも必死で逃げようとするが、自分の体重すら満足に支えられず、ゆっくりゆっくりと地面を這っていくしかない。
妖獣が生き延びる余地はなさそうだった。
その光景に、グドンはホッと溜息をつきそうになる。
そのときだ。自身の目を疑いたくなるようなものが、突然、奥から飛び出してきた。




