102 グドンの父
「ボウ?」
リョクギダンが二人へ訝かしげな視線を向ける。
「それなら、わたしもここに残るわ。どこへも行かない」
一瞬言葉に詰まった彼女だが、すぐ強情を張るように言い返した。
「だから、ここは危険なんだよ」
「その言葉はそのままお返しします」
呆れた顔で溜息をつくと、グドンはリョクギダンへ視線を移した。
「彼女をここから連れ出してくれる? この一件が片付いたら、おいらもすぐに追いかける。そのとき、おいらに出来るお返しなら何でもするから」
リョクギダンは失笑し、
「わたしが求めるものをきみが与えてくれるとは思えないが、いいだろう。女の子が危険な目に遭うのを見たくはないからな」
というが早いか、前に出てホウカの腕を掴んだ。
「何をするのよ! 放して!」
彼女も必死で抗うが、単に腕力でなら、リョクギダンのほうが上だった。
グドンはホッとしたように笑顔を浮かべ、
「出来るなら、ここから少しでも離れてくれると助かる。本当は島から離れてほしいけど、そんな時間はもうなさそうだから…。ボウ、おいらはきっと戻ってくるよ。約束する」
「そんな約束は信用できないわ」
彼女の憤りにはかまわず、グドンは背を向けた。
グドンが入口の奥へ消えると、ホウカは堪らずリョクギダンを振り向き懇願した。
「せめて、聖地の分岐点まで一緒にいかせて。グドンが中へ入るのを見届けたら、ここへ戻ってくると約束するから」
リョクギダンは束の間躊躇った。
この子が二度とグドンに会えなくなる可能性は低くない。リョクギダンにも、ホウカのグドンに対する思いが本物であるのがわかった。
「お願いよ」
相手の迷いを感じっとったホウカが、さらに縋るような視線を向ける。
舌打ちしたリョクギダンは、彼女の腕を掴んだまま入口のほうへ足を向けた。
当然のように、その場にいた全員がぞろぞろと後に続いていく。
入口の先には、もちろん誰もいなかった。今回は薬草とりが目的ではないから、籠も他の道具も必要ない。
分岐点までやってきたホウカたちはそこで足を止めた。
その場の光景は、七号薬草地の分岐点とそっくりそのままだった。
道は三手に分かれている。トンネルの中は暗く先は見通せない。その前にグドンが立っていた。
グドンは、振り向いてホウカたちを見たが、睨んだだけで何もいわなかった。
「きみが奥へ入ったら、わたしたちは退散すると約束する」
リョクギダンが気まずそうに言い訳した。
グドンは再び分岐点へ視線を戻し、先に続く三本の道へ瞳を凝らした。
三本はどれも実体が感じられなかった。
今回はどの道を選んだとしても、死へ通じているということだろう。おそらくそのまま奈落の底へ落ちることになる。
グドンは念のため、もう一度振り返り、ホウカの背後に立つ男たちへ声をかけた。
「言っておくけど、三本の中に正解はないよ。どれを選んでも奈落の底へ落ちる。今回は薬草を探しに行くわけじゃないんだ。相手もそれはわかっている。それなのに、どうして安全な道を用意する必要があるの?」
「それじゃ、おまえも死んでしまうじゃないか」
たまらず男の一人が声を上げる。
「死なないよ。おいらはそのための準備をしたからね」
グドンは最後にホウカへ目を向け、
「できれば、聖地から少しでも離れたほうがいい。島を出るのが嫌なら宿舎でおいらを待っていて」
グドンは再び前へ向き直ると、分岐点の一本へ歩み出した。
これまでなら、ここでグドンの姿が見えなくなるはずだった。
仮に彼の話が本当なら、グドンは奈落の底へ落ち、ほかの者たちは次第に遠ざかる彼の悲鳴を耳にすることになる。
だが、今回はそうはならなかった。
グドンの姿は消えず、しばらくの間、通路を歩いていく彼の後ろ姿が見えた。
どうなっているのか? グドンの予想が間違っていて、今進んでいるのが聖地へ続く正しい道だったのか?
全員がそう疑問に感じ始めたとき、地面にあった蓋がパタンと開いたように、グドンの体が見えなくなった。
落下したのだとわからるまでに時間がかかった。
じっと目を凝らしていなければ、まさに彼がこの世から消えたと錯覚したはずだ。
誰もがはっと息をのむ。
予想していたとはいうものの、皆、衝撃で身動きできない状態だった。
やっとの思いで、ホウカは震える手を口元へもっていく。
グドンは空が飛べる。奈落の底へ落ちることはない。そうわかっていても、掌で口を塞がなければ、今にも叫び出してしまいそうだった。
心の中に湧きおこる幾つもの声に、彼女が必死で抗った。
グドンを何としても助けなければ。でも、自分に何ができるだろう? いいえ、何もできなくとも、ここで彼を見捨てれば一生後悔することになる。でも、待って。グドンがいったように後を追うことで、むしろ足手纏いになるとしたら? 彼はきっと大丈夫。でも自分は? 本当に自分には身を守る力がある?
それでも彼女は、無意識にグドンのあとを追って通路の先へ進もうとした。
その腕をリョクギダンが強く掴み直す。
彼女が振り向くと、彼は小さく首を振った。
「わたしたちには何も手助けできない」
彼女は何もいわず、自分の腕を冷たく凍らせた。
「あ!」
掌に痛みを感じたリョクギダンは、思わず彼女を掴んでいた力を緩めてしまった。
彼女は冷静な視線をリョクギダンへ向けた。
「あなたこそ、今すぐこの島を離れたほうがいいわ。もし、グドンに何かあれば、たとえ島が残っても、あなた方は生き残れない」
「どういう意味だ?」
彼女の言葉の危険な響きに、リョクギダンは何かを感じて顔を強張らせた。
「グドンが死んで、あなた方がそれに関わっていたと彼の父親が知ったら、恐ろしいことが起こるかもしれない」
「グドンの父親?」
「渉不城にいたころ、グドンは仲間から特別視されていた。決していい意味ばかりではなくね。なぜだかわかる? すべて、彼の父親が原因」
「父親が原因? あの子の父親は…」
「半妖は、父親を半妖の英雄と呼んでいたわ。半妖の英雄セイイツ」
驚愕で、リョクギダンの顔がみるみる歪み始めた。これまで彼が見せたどの顔より、恐怖と後悔に満ちた顔だ。
リョクギダンは雷に打たれたように、その場に立ち尽くした。
セイイツ? グドンの父親はセイイツ?
その言葉を何度も心の中で呟いたが、なかなか脳までは届かなかった。
そんなことはありえない気がした。
だが、そのいっぽうで、それなら、すべての辻褄が合う気もした。
まだ十代後半の青年がなぜあれほどの能力を持っているのか、彼が見せる特別な雰囲気はどこからきているのか…。
「セ、セイイツ…」
「だから、今すぐ逃げるのよ。何が起こっても大丈夫なように」
そういいおくと、ホウカは宙に浮かび上がった。
その能力に誰もが目を見張る。
リョクギダンも、ホウカを繋ぎ留めておく約束など完全に忘れ去っていた。
半妖は皆、空を飛べるのか? そう思った者も多かったが、それはまったくの誤解だった。リョクギダンを含めほとんどの半妖は飛べなかったし、実際、彼女は半妖ですらなかった。
宙に浮いたホウカは、自分の顔から何かをむしり取るようにした。
次の瞬間、彼女の姿が次第に薄れ始め、やがて透明となって視界から消え去った。
「霊族か?」「幽霊!」「いや、仙族だ!」
消えた彼女のほうを指さしながら、人々が口々に叫んだ。
もし、ここにグドンがいたら、自分の予想が正しかったとわかったろう。
宙に浮いて地上を見下ろしているのは、ボウだった。
ボウは、先ほどグドンが姿を消した通路の先の穴の中へ身を躍らせた。
あっという間に、彼女は穴の中へ吸い込まれたが、それを目にした者はいなかった。
しばらくは誰も口をきかなかった。
ただ重い沈黙が辺りを支配している。
リョクギダンがようやくのろのろと通路のほうへ歩き出した。
グドンがセイイツの息子なら、セイイツは今も死んではいないことになる。なのに、わたしはこんなところで世捨て人の振りをして…。
リョクギダンはよろめきながら穴のほうへと近づいていく。
誰もそのことに気付かなかった。
我を失った彼は、今にもその場に崩れ落ちそうだ。
やっとそれに気付いた男たちが大声を出す。
「危ない! 落ちてしまうぞ!」
リョクギダンはギクリと全身を凍り付かせ、その場に踏みとどまった。
知らぬうちに、彼は穴の縁まで来ていた。
穴は深く、黒々とどこまでも続いている。
ここから落ちれば、即死することになるのは間違いなかった。
「わたしには、彼の息子を追いかける力もないのか…」
そう呟くと、リョクギダンは絶望に目を閉じ長嘆した。




