第35話 硝子の血管と鉄の針
その夜、紫雲宮は悲鳴を飲み込んだ静寂に支配されていた。
生後七日。
私が「硝子の皇子」と呼ぶ赤子に、最初の試練が訪れた。
きっかけは、くしゃみだった。
乳母が抱き上げた拍子に、赤子の頭が柵に当たった。
音にすらならない、軽い接触。
ただ、それだけ。
だが――数時間後。
側頭部は握り拳ほどに腫れ上がり、どす黒い血腫となり、
耳と鼻から鮮血が糸を引くように流れ続けていた。
「……止まらない……どうして……」
玉葉が崩れ落ちる。
「動かさないでください! 血圧が上がれば脳内に広がります!」
私は赤子の枕元に膝をついた。
手には、小瓶。
西離宮で作った第VIII因子製剤。
喉が乾く。
これは理論だ。
これは仮説だ。
これは――まだ、証明されていない。
「ソラ、やるのか」
ガクの声も震えている。
「やります。今投与しなければ、失血か、脳圧上昇で不可逆です」
私は小瓶に生理食塩水を注ぐ。
白濁する液体。
レモンの山。
眠らなかった夜。
凍える地下室。
全部が、この一滴に凝縮されている。
注射器に吸い上げる。
金属とガラス。
時代遅れの凶器のような針。
太い。
赤子の血管は、糸より細い。
一発勝負。
「……怖いか」
「怖いです」
即答だった。
「もし不純物が混ざっていたら。
もしアナフィラキシーを起こしたら。
私は今から、毒を流すことになります」
空気が凍る。
そのとき・紫雲が私の手を握った。
「やって」
涙の奥に、炎がある。
「このままでは死ぬのでしょう?
なら、あなたの毒に賭ける」
信頼は、刃物だ。
だがその重さが、震えを止める。
「固定を」
ガクと紫雲が四肢を押さえる。
赤子が泣く。
泣くたびに血がにじむ。
血管を探す。
手首、見えない。
足背、細すぎる。
――頭皮静脈。
青い一本線。
角度三〇度。
皮膚が逃げる。
……プツ。
逆血。
ヒット。
「入れます」
プランジャーを押す。
一滴。
二滴。
時間が、粘る。
五cc。
終わった。
抜針、圧迫。
待つ。
一分。
長い。
二分。
誰も息をしていない。
三分。
赤子の泣き声が弱まる。
四分。
血の流れが、細くなる。
五分。
「……止まった」
ガクの声。
鼻血は乾き始めている。
刺入部からの出血もない。
血腫は――拡大していない。
凝固。
成功。
玉葉が泣き崩れる。
赤子は母の胸で、小さくあくびをした。
生きている。
私は座り込んだ。
空の注射器が、鉄塊のように重い。
「……大したもんだな」
「製剤です」
声が震える。
これは奇跡ではない。
毎回、薄氷を踏む作業だ。
この子は一生、これを続ける。
怪我をするたび、私はまた針を握る。
失敗すれば、その日が終わりだ。
それでも。
母の腕で眠る命を見て、私は思った。
生き延びさせる価値はある。
それは理論ではない。
感情という、説明不能な変数。
東の空が白む。
臨床第一例、成功。
だが本当の意味で始まったのは、ここからだ。
生存理学は、奇跡を作らない。
死なせないだけだ。




