第34話 氷点下の結晶と黄色い果実
西離宮の地下研究室に、場違いな香りが充満していた。
鼻を刺す柑橘の酸味。
喉を焼くアルコールの揮発臭。
実験台には、数百個のレモンと、甕に満ちた蒸留酒。
私は一つ手に取り、刃を入れた。
果汁が滴る。
酸が、空気に溶ける。
「……全部か」
山積みのレモンを見て、ガクが呻いた。
「ええ。必要なのはクエン酸。
血液を“腐らせない”ための盾です」
私は淡々と答えながら絞る。
ドローンを撃ち落とした夜より、よほど地味だ。
だがこちらの方が、命の重さに直結している。
今回の工程は二段階。
一、保存液の作成。
二、第VIII因子の分離精製。
どちらも、失敗は許されない。
ここではすべてが手作業。
機械は補助。
決定するのは人間の目と指だ。
夜が更ける。
ガクは黙々とレモンを潰す。
果汁が飛び、床に滴り、皮の山が築かれていく。
彼の握力は圧搾機だった。
「……酸っぱいな」
「命の味です」
私はろ過し、沈殿させ、濃度を測る。
紫キャベツの煮汁が、赤から青紫へと揺れる。
ここだ。
わずかに色が止まる。
保存液、完成。
次は本丸。
凍結血漿を取り出す。
冷蔵庫の扉を開けた瞬間、空気が凍る。
温度管理がすべて。
急がない。
焦らない。
六度を超えれば終わる。
白く濁る沈殿物。
豆腐カスのような、頼りない白。
だが、それが王族の命を支える因子。
「ソラ、震えてるぞ」
ガクが上着をかける。
「感覚が必要なんです」
私はスポイトを握る。
上澄みを捨てる。
底だけを吸う。
失敗すれば、ゼロ。
一時間。二時間。
静寂。
冷気。
単調な繰り返し。
空を支配するより難しい。
爆発はない。
だが、緊張は爆薬より重い。
「……できた」
夜明け前。
小指の先ほどの白い粉。
冷蔵庫一杯の血液が、これに変わった。
私は蛍光灯にかざす。
光を受けて、わずかにきらめく。
「見えますか」
ガクが覗き込む。
「これが、止血の塊です」
「……少なすぎる」
「濃縮です」
私は小瓶を密閉する。
ロットナンバー001。
この世界初の、純粋な分画製剤。
そこで、初めて気づいた。
成功の高揚がない。
代わりに、静かな恐怖がある。
――これが効かなかったら?
毒になったら?
理論は正しい。
手順も合っている。
だが、人体は理屈どおりに動くとは限らない。
私は小瓶を見つめた。
これは希望だ。
同時に、賭けだ。
「帰るぞ」
ガクが私の手を取る。
赤く荒れた指先。
「職人の手になったな」
「機能的と言ってください」
「最高に機能的だ」
不器用な笑い。
私は少しだけ、救われる。
特効薬は完成した。
だが、それはまだ“物質”。
これから“医学”になる。
投与。
反応。
止血。
成功すれば、この世界の医療は一段階進む。
失敗すれば、私は処刑台だ。
「ガラスの皇子」は、生後七日を迎える。
最も危険な時期。
私は小瓶を抱え、深く息を吸った。




