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後宮下女の生存理学 〜呪いも病も、そんなの全部ただの現象です〜  作者: 和三盆


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第33話 欠損した触媒と宮廷の記憶

 石牢の冷たい空気の中で、私は無力感に沈んでいた。


 目の前には、鎖で床に繋がれたK。

 視力は失われ、精神もまた崩壊している。


「……数字が……合わない……」

「バグだ……神が……見えない……」


 譫言を繰り返すだけ。

 ガクがどれほど揺さぶっても、拷問具を見せても、彼の意識は現実に戻らない。


「……ダメだ」


 ガクが低く吐き捨て、石牢を出た。私も後に続く。


「廃人だ。

 記憶を引き出す以前に、脳が焼き切れている」


 壁を拳で叩く音が、廊下に響いた。


「どうする、ソラ。

 命懸けで持ち帰ったデータは、肝心な部分が欠けているんだろう」


 私は懐からスマートウォッチを取り出した。


 『凝固因子精製法』。

 文末だけが、無機質な記号に潰されている。


 沈殿剤。

 それが分からなければ、薬は作れない。


 ドローンも、電子記録も、役に立たない。

 データは壊れれば、何も残さない。


「……聞きに行きましょう」


 私は顔を上げた。


「残っている記録媒体は、もう一つあります」


「誰だ」


「この後宮で、最も長く、最も冷静に、カノウを観察していた人です」


 慈安宮。

 皇太后は漆黒の椅子に座り、私たちを見下ろしていた。


 香炉から漂うのは、沈香ではなく、甘酸っぱい果実の香り。


「Kの拠点を潰したそうだな」


 その声に、賞賛はない。ただの事実確認。


「はい。

 ですが……カノウの知識も、ほとんど失われました」


 私は正直に言った。


「血友病を治す薬。

 最後の材料が分かりません」


 皇太后の目が、わずかに細まる。


「……あやつは、変わり者だった」


 杖の柄を指で叩く。


「豪華な料理には手をつけず、妙なものばかり欲しがった」


「例えば?」


「氷。

 それから、強い酒だ」


 ――エタノール。


 消毒だけじゃない。

 血漿分離に不可欠な溶媒。


 だが、それでも足りない。


「酸っぱい匂いは?」


 皇太后は一瞬、顔をしかめた。


「……ああ。

 最後の一年、厨房から柑橘を大量に持ち出していたな」


 ――嵌まった。


 クエン酸。

 血液凝固を抑え、pHを制御する自然由来の酸。


「黄色い果実でしたか?」


「そうだ。

 ひどく酸っぱい、南国の果実だ」


 レモン。


 スマートウォッチは不要だった。

 答えは、人の記憶と、厨房の匂いの中にあった。


「……ありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。


「最新の機械より、あなたの記憶の方が確かでした」


 皇太后は鼻を鳴らす。


「機械はな、現実を切り取るだけだ。

 匂いも、手触りも、血の重さも、記録しない」


 杖が床を打つ。


「ソラ。

 医術は泥臭い。

 それを忘れた者から、狂う」


 胸を掴まれたような感覚。


 私は、この世界の土を軽んじていなかったか。


「……肝に銘じます」


「行け。

 レモンと酒は、私の名で手配する」


 そして、鋭く言い放つ。


「失敗は許さん。

 孫の血を止められねば、その時は覚悟せよ」


 期待という名の圧力。


「了解しました」


「……意外だったな」


 帰り道、ガクが言った。


「あの婆さんが、あそこまで協力するとは」


「買われているだけです」


 私はウォッチを撫でた。

 画面は、もう消えている。


 やるべきことは明確だ。


 地下室に戻り、

 レモンを絞り、

 酒を蒸留し、

 命の薬を作る。


 派手な爆発も、空飛ぶ機械もない。


 だが――


 これこそが、生存理学。


 与えられた環境で、

 最適解を導く技術。


 私は久しぶりに、足取りが軽くなるのを感じた。


 戦場は、静かな研究室キッチンへ戻る。


 今度こそ、完全な治療法を作るために。

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