第36話 枯渇する酸味と厨房の独裁者
奇跡の代償は、翌朝すぐに請求された。
紫雲宮の空気は、救われたはずなのに軽くならない。
一命を取り留めた「硝子の皇子」は、母の胸で眠っている。
だが側頭部には、青黒い血腫が痛々しく残っていた。
止血は成功した。
だが、傷跡は消えない。
「……目立ちますね」
私が包帯を替えると、紫雲はそっと撫でた。
「これでは、陛下にお見せできないわ」
「外見は時間が解決します。
ですが、問題は別にあります」
私は振り返る。
ガクが腕を組んでいる。
「……在庫切れ、だな」
頷く。
昨夜で製剤は空。
冷蔵庫一杯の血液。
数百のレモン。
蒸留酒。
抽出率は数パーセント未満。
「今日、再出血が起きれば終わりです」
事実だけを言う。
材料はない。
補給路もない。
横領は二度できない。
「兵站の確保が最優先です」
「どこへ行く」
「尚食局」
後宮最大の戦場。
尚食局。
炎と油と怒号。
中央に立つ巨漢――トウ。
「血臭ぇ奴らが何の用だ」
「取引です」
私は前へ出る。
「レモンを。定期的に。大量に」
厨房がざわめく。
トウが鼻で笑う。
「在庫が合わねぇ件、知らねぇと思ってるのか?」
探りを入れてきた。
「存じません」
即答。
目は逸らさない。
「だが、廃棄率が三割を超えているのは事実でしょう」
トウの目が細くなる。
「祝宴で刺身を諦めた。
気温が上がれば腐敗は加速する」
「自然だ」
「違います。管理不足です」
一歩踏み込む。
そして硝子瓶を出す。
桃。
「半年前に密閉したものです」
蓋を開ける。
甘い香り。
厨房の空気が変わる。
トウが無言で覗き込む。
「煮沸殺菌。砂糖濃度。密閉。
理屈さえ知れば、時間は止められる」
「……嘘なら、殺すぞ」
「どうぞ」
私は瓶の中身を一切れ差し出した。
トウが口に入れる。
噛む。
沈黙。
周囲の料理人が固唾を呑む。
「……腐ってねぇ」
「氷もあります」
私は続ける。
「貴方が望むときだけ。
特別料理用に」
決定打。
料理人にとって氷は“権力”だ。
「条件は」
「廃棄予定のレモン。
高度数酒の余り。
帳簿は腐敗処理で」
トウはしばらく私を見た。
測るように。
「お前、下女じゃねぇな」
「生き延びる側です」
沈黙。
そして笑った。
「酸っぱすぎる失敗作、全部持ってけ!」
成立。
帰り道。
木箱いっぱいのレモン。
「桃なんて、いつ作った」
「備蓄です」
嘘。
本当は、師匠と初めて作った保存食。
この世界で最初の冬を越えた証。
最後の一瓶。
私は空のポケットを押さえる。
思い出を差し出して、補給線を得た。
悪くない交換だ。
――これでいいですよね、師匠。
生存理学、経済フェーズ完了。
だが。
尚食局は人が多い。
荷の出入りも多い。
噂も、視線も、流れる。
そして。
厨房の梁の上から、
誰かがその交渉を見ていたことを――
私たちは、まだ知らない。




