第26話 対消滅の青き霧
地下研究室は、甘ったるい匂いと、海藻のような磯の香りが混じり合っていた。
私はガクに調達させた大量の寒天と砂糖を煮詰め、シャーレ――代用のガラス皿に注ぎ込んでいく。
カビを育てるための「畑」作りだ。
冷蔵庫で眠っていた『ペニシリウム・アズール』は、数十年ぶりの目覚めとは思えないほどの食欲を見せた。
温めた寒天培地に植え付けた瞬間から、爆発的な増殖を開始したのだ。
一日で、小さな点はガラス皿一面を覆う青い絨毯になった。
二日で、地下室の棚という棚が、鮮やかなアズール色に埋め尽くされた。
「……気味が悪いくらい増えるな」
数百枚のシャーレを見て、ガクが顔をしかめる。
普通なら、不衛生の極みだ。
だが今の私たちにとって、このカビ臭さは、生存への芳香だった。
「倍々ゲームです」
私はスポイトで青い胞子を吸い取り、蒸留水の入った霧吹きボトルへと移し替えた。
「菌類の世界に慈悲はありません。
強い方が勝ち、弱い方を食う。
この青カビにとって、紫カビは最高の栄養源です」
カノウ先輩が遺した、対バイオテロ用・決戦兵器。
その効果を試す時は、向こうからやってきた。
深夜。
西離宮の外に設置していた鳴子が、微かな音を立てた。
侵入者。
それも、獣ではない。足音を殺した人間。
ガクがランタンを吹き消し、無言で剣を抜く。
私たちは暗闇に潜み、地上の様子を窺った。
廃屋の広間に、五つの人影。
松明はない。月明かりだけを頼りに動いている。
そして、彼らの手に抱えられていたもの。
紫色の不吉な紋様が描かれた壺。
「……前回の放火は陽動だな」
ガクが囁く。
「今回は、通気口から直接『紫の胞子』を流し込むつもりだ」
火で殺せなければ、毒で根城ごと抹殺する。
冷徹で、理にかなった戦略。
男の一人が通気口の蓋を外し、別の男が壺の封を切る。
中から、濃紫色の粉末が零れ落ちた。
「殺るぞ」
ガクが踏み出そうとした。
私は、その腕を掴んで止める。
「待ってください」
「あ?」
「被験体が、向こうから来てくれました。
テストの時間です」
私は霧吹きを構え、静かに笑った。
「ガク様。扉を」
彼は一瞬で察し、頷いた。
ウィィィ……。
隠し扉が開く油圧音が、夜に響く。
「誰だ!?」
「女だ……あの魔女だ!」
男たちが一斉に壺を掲げる。
「殺せ!」
だが――遅い。
「散布!」
私は風上に向け、レバーを引いた。
シュバッ!
夜風に乗る、細かい青色の霧。
ただの水ではない。
高濃度『ペニシリウム・アズール』懸濁液。
それが、壺から漏れ出た紫の粉末に触れた瞬間――。
ジュワッ……。
炭酸が弾けるような、微細な捕食音。
紫が、灰色に。
そして、白へ。
毒々しい色は急速に失われ、枯れた塵となって地面に落ちていく。
「な、なんだ……?」
「煙が、消える……!」
男たちが動揺する。
「カビの餌やりは、見ごたえがありますね」
私はさらに霧を吹きかけた。
「あなたたちの『神』は、
私の『家畜』には勝てません」
恐慌した男が壺を投げつける。
ガシャン!
だが、広がったのは紫煙ではなく、真っ白な灰だった。
落ちる前に、すべて食い尽くされたのだ。
圧倒的な相性差。
生物学的対消滅。
「妖術だ……!」
「青い妖術だ!」
男たちは武器を捨て、崩れ落ちた。
「掃除の時間だ」
ガクが動く。
戦意を失った相手など、瞬殺だった。
剣の峰で打ち据え、五人全員を気絶させる。
静寂。
宙には青白い霧が漂い、
地面には白い灰が雪のように積もっていた。
「……完全勝利だな」
「防疫完了です」
私はボトルの残量を確認する。
まだ半分以上。
「この灰は肥料になります。
花壇にでも撒いてください」
自然に還る。
それが彼らの望んだ「循環」だろう。
だが――。
私はボトルの口を、きつく閉めた。
紫を喰らい尽くすこの「青」もまた、
使い方を誤れば、別の怪物になる。
カノウ先輩がこれを隠した理由が、少しだけ分かった。
この力は、生存が脅かされた時だけ使う。
それが、禁断の果実を手にした者の、最低限のルールだ。




