第24話 紫斑の点滅と不可視の隔壁
紫雲宮からの帰り道。
ガクに身体を預けて歩いていた、あの一瞬だった。
――遅れて、理解が追いついた。
私の脳内メモリから、決定的な映像が再生される。
柱の陰。女官の袖口。
そこにあった、紫色の痣。
――チアノーゼではない。
――内出血でもない。
網膜に焼き付いた色彩データを、記憶と照合する。
一致した。
それは、西離宮でガクが斬り殺した放火犯。
その皮膚の下に広がっていた――「菌糸」の色。
「ガク様!」
私は反射的に彼を突き飛ばし、距離を取った。
「走ります!
先ほどすれ違った女官! 追跡してください!」
「女官? ……柱の陰にいた、あれか?」
「感染者です。
皮膚に真菌の侵食が見られました。末期症状です」
一拍置いて、告げる。
「あれは――歩くバイオ兵器です」
ガクの目の色が変わった。
説明は不要だった。
西離宮で見た、肉体が破裂し胞子を撒き散らす“最期”を、彼も知っている。
「どの方角へ行った!」
「南。慈安宮の方角です!」
皇太后の住まう、後宮最奥部。
最も警備が厚く、最も閉鎖された場所。
もし、そこで胞子が撒かれたら?
換気の悪い石造りの宮殿は、
一瞬で巨大な培養器に変わる。
「チッ……あの狸婆の寝首をかきに行く気か!」
ガクが舌打ちし、地面を蹴った。
私たちに、猶予はない。
生存理学、防疫フェーズ――緊急移行。
慈安宮の前は、異様なほど静かだった。
いるはずの近衛兵がいない。
代わりに、甘く腐った臭いが、扉の隙間から漏れてくる。
「……遅かったか」
ガクが剣を抜き、扉を蹴り開けた。
薄暗い謁見の間。
床に倒れる、数人の近衛兵。
外傷はない。
全員が喉を掻きむしり、苦悶の表情で死んでいる。
――窒息死。
即効性の神経毒、もしくは急激なアナフィラキシー。
そして、最奥。
黒塗りの椅子に座る皇太后。
その前に、一人の女官が立っていた。
手には、ティーポット。
身体は震え、袖口から覗く手首は――どす黒い紫。
皮膚が、脈打っている。
「……何の真似だ」
皇太后は、眉一つ動かさない。
「陛下……お茶を……Kの祝福を……」
女官は、注ぐ気などなかった。
投げつけるつもりだ。
「伏せて!」
私が叫んだ瞬間。
女官の身体が――限界を迎えた。
バシュッ!
破裂音。
裂けた皮膚の内側から、紫色の煙。高濃度の胞子。
今回は火気ではない。
体温か心拍数の上昇をトリガーにした、自爆型。
胞子の霧が、皇太后へ――
だが、その前に黒い壁が立ち塞がった。
ガクだ。
息を止め、マントを広げ、物理的に煙を遮断する。
「ぐっ……!」
至近距離。
皮膚接触感染のリスク。
「下がって! 呼吸を止めて!」
私は懐から、高濃度エタノールの瓶を抜き、床に叩きつけた。
ガラスが砕け、アルコールが飛散する。
揮発したそれが、空中の胞子を絡め取り、床へ落とす。
次の瞬間。
私は、蝋燭の火を蹴り飛ばした。
ボッ!!
一瞬の青白い炎。
瞬間的な熱消毒。
胞子は、熱に弱い。
拡散する前に、焼却する。
ガクが皇太后を抱えて後方へ跳ぶ。
一瞬、空気が“死んだ”。
倒れていた女官の死体(苗床)は、完全に燃え尽きた。
煙が晴れる。
残ったのは、黒焦げの残骸と、消毒液の匂い。
私はスマートウォッチの汚染計測アプリを確認する。
――正常値へ回復中。
「……説明してもらおうか」
皇太后の声は、怒りで冷え切っていた。
「あれは『苗床』だな。
カノウが失敗した、あの紫のカビ」
私はガクを見る。
顔色、呼吸、異常なし。
――感染なし。
「はい。
生きた人間に菌を植え付ける、バイオテロです」
もはや、隠せない。
「後宮全体を調べよ」
「紫斑のある者は、即刻処分せよ。火で浄化しろ」
魔女狩りの始まり。
だが、今回は否定できなかった。
相手は“病原体”だ。
「ソラ。別の仕事をやる」
皇太后は古びた真鍮の鍵を差し出した。
「カノウの『最奥の研究室』だ。
解毒剤のレシピがある」
期限は、次の爆発まで。
敵は進化した。
ならば、こちらも遺産を掘り起こすしかない。
生存理学――探索フェーズ・レベル2。
この世界は、まだ底を見せていなかった。




