第23話 ドップラー効果の子守唄
西離宮での「真菌テロ」未遂事件は、闇に葬られた。
だがそれは、事件が終わったという意味ではない。
ただ――誰にも気づかれない形で、次の段階へ進んだだけだ。
表向きは「浮浪者のボヤ騒ぎ」として処理された。
しかしガクと私は知っている。
あれは『K』と名乗る集団による、後宮全体を培養皿に見立てた、生物実験だったことを。
私たちは夜明けと共に地下室の換気システムを密閉し、厳重にロックを掛けて撤収した。
胞子は封じ込めた。
だが、街中に潜む狂気までは封じられない。
心身ともに摩耗しきって執務室に戻った私たちを待っていたのは、安息ではなく、新たなSOSだった。
「ガク様! 薬師のソラ! 至急、紫雲宮へ!」
血相を変えて飛び込んできたのは、玉葉の筆頭侍女だった。
前回の芙蓉の一件とは違う。
声を荒げているわけでもないのに、背筋を冷やす、音のない恐怖を湛えた顔。
「紫雲様が……『お腹の子が動かない』と。
部屋に閉じこもり、食事も摂られません」
――胎動消失。
妊娠中期の、不安定な時期だ。
原因は強いストレスか。
あるいは、先日の妹・梨花の毒殺未遂による心労か。
いずれにせよ、母体のパニックは胎児への血流不全を招く。
恐怖が恐怖を呼ぶ、最悪の負のループ。
「ソラ、行けるか」
ガクが私の顔を覗き込んだ。
私自身も徹夜明けで、顔色は最悪のはずだ。
だが、断るという選択肢は存在しない。
「生存優先順位、第一位です。行きます」
私はツールボックスを持ち直し、重い足を引きずって走り出した。
紫雲の寝室は、不気味なほど静かだった。
厚いカーテンが閉ざされ、薄暗い部屋の中で、紫雲は寝台の上に膝を抱えて座り込んでいる。
以前の覇気に満ちた美貌は見る影もない。
髪は乱れ、瞳は焦点を失っていた。
「……いないの」
私とガクが入室しても、彼女はこちらを見ようとしない。
ただ、自分のお腹をさすりながら、うわ言のように繰り返す。
「昨日までは蹴ってくれたのに。
今日は一度も動かない。
死んだのよ……きっと、梨花と同じ毒が回ったんだわ……
私が守ってあげられなかったから……」
過呼吸気味だ。
このままでは、母体がショック状態に陥り、本当に胎児が危険に晒される。
医師たちはオロオロとするばかりで、脈を取ろうにも「触るな!」と拒絶され、完全に手詰まりだった。
「紫雲様」
私は彼女の前に跪き、視線の高さを合わせた。
「確認します」
「……やめて。宣告しないで。
『死んでいる』なんて、聞きたくない」
「生死の確認ではありません。
――『声』を、聞くだけです」
「声……?」
玉葉が、かすかに顔を上げた。
この時代、お腹の子が生きているかどうかを知る術はほとんどない。
母親の不安は、出産まで続く終わりのない闇だ。
私はツールボックスを開け、ジェル(アロエを煮詰めた即席の超音波検査用ゲル)を取り出した。
「冷たいですが、我慢してください」
拒絶される前に、手早く腹部に塗布する。
そして、懐からスマートウォッチを取り出した。
ペアリングしたタブレットを起動。
アプリは『音声増幅器』。
本来は会議録音や補聴用の機能だが、感度を極限まで上げれば、聴診器以上の性能を発揮する。
「ソラ……それは……」
ガクが息を呑む。
だが、今は躊躇している時間はない。
私はスマートウォッチの背面を、紫雲のお腹に当てた。
ザッ、ザザッ……。
衣擦れのノイズ。
位置を探る。
へその下。もっと奥。
羊水の海を漂う、小さな命の居場所。
「……聞こえますか」
音量を上げる。
静寂の後。
シュン、シュン、シュン、シュン……。
早く、力強い。
一分間に百五十回近く。
大人の倍の速さで刻まれる、生命の鼓動。
「――っ!」
紫雲が、タブレットを凝視した。
そして、私の手の上から、そっと自分の手を重ねる。
「これ……なの?」
「はい。臍帯音と心音です」
私は事実だけを告げた。
「速いでしょう。
元気に泳いでいる証拠です。
今日はたまたま深く眠っていただけでしょう」
科学的事実は、どんな慰めの言葉よりも強い。
「生きてる……」
涙が溢れる。
「……生きてる……!」
恐怖ではない。
安堵と、愛情の涙だった。
紫雲が粥を口にし始めたのを確認し、私たちは退室した。
夕暮れの後宮。
緊張が解けた途端、強烈な疲労が押し寄せる。
「っと」
よろめいた身体を、強靭な腕が支えた。
ガクだ。
「……すまん」
彼は前を向いたまま呟く。
「俺は敵を斬れる。
だが、ああいう不安の中にいる女を救うことはできん」
苦みを含んだ横顔。
「お前の知識は、本来こういうためのものなんだな。
母親を安心させるための……優しい手品だ」
優しい手品。
それは、生存理学への最高の評価だった。
「……機能は、使い手次第です」
私は、彼の肩に少しだけ体重を預けた。
――だからこそ。
私たちは気づかなかった。
回廊の柱の陰から、私たちを見つめる一対の視線に。
女官姿のその人物の袖口には、紫色の斑点が浮かんでいた。
「Kの子は、どこにでも根を張る」
後宮の中枢に、すでに胞子は舞い込んでいるのだった。




