第20話 氷点下の輸送路と紅の蘇生術
西離宮の地下室――かつて倉庫だった場所は、今や私の実験場になっていた。
深夜。
蛍光灯の青白い光の下、屈強な衛兵たちが無言で列を作る。
「次の方。腕を出してください」
差し出された腕に、ためらいが走るのが分かる。
だが彼らは何も聞かない。
ガクが選んだ、「口が堅く、金に忠実な」人間だけだ。
針を刺す。
赤が流れる。
「痛みは最小限です。ただ……少しだけ、分けていただきます」
抜き取られた血液は、奥の銀色の箱へ運ばれる。
冷気の中で、静かに眠りにつく“命”。
『B型・Rh+』
『A型・Rh+』
ガラス瓶に貼ったラベルを、私は淡々と並べていく。
琥珀色の庫内灯。
整然と並ぶ、紅い液体。
――血液銀行。在庫、三十本。
この時代において、これほど「生命力」を備蓄した場所は存在しない。
最強の回復薬。
いや、運命への介入装置だ。
「……壮観だな」
入口で見張っていたガクが、低く息を吐いた。
「これだけあれば、瀕死の兵も引き戻せる。だがソラ――いつ使う?
紫雲の出産までは、まだ先だぞ」
その問いに、答える前だった。
――ドタドタドタッ!
地下へ駆け下りてくる足音。
「ガク様! 緊急です!」
顔色を変えた配下が叫ぶ。
「芙蓉宮の側室様が転倒! 石段から落ち、大量出血!
太医たちは……もう、もたないと!」
芙蓉宮。
一七歳。序列は低いが、王の寵愛が厚い。
事故か、事故に見せかけた何かか。
――今はどうでもいい。
重要なのは一つ。
「出血多量ですね」
私はガクを見る。
「テストの機会です」
「……紫雲のための血を使う気か?」
「鮮度は正義です。それに――」
私は一瞬だけ笑った。
「ここで一人“戻せば”、あなたの立場も盤石になります」
ガクは一拍置いて、口角を上げた。
「乗った。やれ」
冷蔵庫を開ける。
芙蓉の血液型は、以前の“占い”で把握済み。
『O型』
瓶を二本、保冷箱へ。
「走ります。溶ける前が勝負です」
芙蓉宮の寝室は、すでに死の匂いに満ちていた。
血の臭い。
泣き崩れる女官。
首を振り、立ち去ろうとする医師たち。
白布をかけられる寸前の、芙蓉。
「道を開けろ!」
ガクの一喝が、空気を切り裂く。
私は滑り込み、脈を取った。
――弱い。
血管は潰れ、循環が止まりかけている。
「何をする気だ! もう助からん!」
医師の怒号を無視し、道具を広げる。
ゴム管。
針。
そして、冷たい赤い瓶。
「……血、だと?」
「生き血を入れる気か……!」
悲鳴。
当然だ。
他人の血を、体内に流し込むなど――この世界では禁忌中の禁忌。
「ガク様、静かに!」
「黙れ!」
威圧の一声。
私は芙蓉の腕にゴム管を巻いた。
細く浮かぶ、最後の命綱。
――正中皮静脈。
針を刺す。
逆血。
成功。
「接続」
瓶を高く掲げる。
重力に従い、赤が流れ込む。
ぽた、ぽた、と。
輸血。
失われた生命を、物理で補填する行為。
魔術ではない。
奇跡でもない。
ただの理屈だ。
一本目。
二本目。
「……あ……」
芙蓉の喉が震えた。
白かった頬に、血色が戻る。
指が動く。
瞳が、開く。
「……ここは……?」
「おかえりなさい」
脈は力強い。
血圧、回復。
完全蘇生。
部屋中が凍りついた。
「……生き返った」
「血で……戻った……」
畏怖。
理解不能なものを前にした、人間の本能的反応。
私は道具を片付け、ガクに目配せする。
「失血は補いました。あとは安静と栄養です」
それだけ言い残し、私たちは退室した。
――これ以上いれば、私は神か魔女になってしまう。
その夜。
慈安宮。
「死にかけが、赤い水で戻った……か」
皇太后は、闇の中で笑った。
「見つけたのだな、小娘。
カノウが遺した“氷の城”を」
杖を鳴らす。
「よかろう。飼い殺しでは惜しい。
番犬として使ってやる」
冷たい瞳。
「だが忘れるな。
噛みついた時、その牙が誰を裂くのかを」
――生存理学、応用実習完了。
私の起こした“理屈の奇跡”は、
後宮に畏怖という名の信仰を芽生えさせていた。
それは、王位継承者誕生という最大イベントへ向けた、
あまりにも鮮烈なデモンストレーションだった。




