EP 8
労働の喜びと、五円玉の価値
ピピッ! ピピピピッ!!
スーパー折原の三番レジから、機関銃のような勢いでスキャナーの電子音が鳴り響いていた。
「はい、次のお客様! キャベツと特売の卵、そして豚肉のパックですね! 卵は一番上に配置し、豚肉のドリップが他の商品に付着しないよう小袋に隔離ッ! スキャン完了(承認)、お会計は銀貨一枚と銅貨三枚なりッ!」
「あ、あらまぁ……。すごい手際ねぇ、おじさん! いつものウサギの村長さんよりずっと早くて丁寧じゃないの!」
「フハハハッ! 恐悦至極! 次のお客様、カゴをこちらへ!」
純白の高級スーツの上に緑色のエプロンを纏い、真っ黒なサングラスをかけたハゲ頭の男——天界の主神オリンは、完全に『レジ打ちの神』として覚醒していた。
午後から押し寄せた遠征組による地獄のタイムセール。その怒濤の客の波を、オリンはたった一人で次々とさばいていく。
(……素晴らしい! なんて素晴らしいのだ、下界の労働とは!)
オリンは、次々と商品をカゴに移し替えながら、サングラスの奥で感動に打ち震えていた。
天界の執務室での彼の仕事は、文字通り『無限の虚無』との戦いだった。
どれだけ書類にハンコを押し、世界の理を調整し、天候を管理し、魔力のバランスを整えても、仕事が減ることは絶対にない。一つの問題を解決すれば、下界の人間や神々から、また新たな祈り(クレーム)と欲望が何万件も送られてくる。
終わりの見えないデスマーチ。誰にもその苦労を見られず、ただ「世界が正常に回っていて当たり前」とされる、究極の裏方業務。それが天界のトップの宿命であった。
だが、ここは違う。
(客の列という『目に見えるタスク』があり、私が手を動かせば動かすほど、その列は確実に減っていく! しかも、処理した分だけレジの中にはチャリンチャリンと金(成果)が積み上がっていくではないか! なんという分かりやすさ! なんという達成感!)
オリンは、己の事務処理能力がダイレクトに世界(店舗)を回しているという実感を、神生で初めて味わっていたのだ。
「いいぞSV! その調子だ! タイムセール終了まであと少しだ、気合いを入れろ!」
フロアで品出しのフォローに回っている店長からの激が飛ぶ。
「言われるまでもない! 我が神速のレジ打ち、とくと目に焼き付けるがいいわ!」
だが、狂乱のタイムセールも終盤に差し掛かった頃。
怒濤のように押し寄せていた主婦たちの波がスッと引き、レジの前に一瞬の『凪』が訪れた。
「ふぅ……。ひと段落、といったところか」
オリンが額の汗(レジ打ちでかいた心地よい汗だ)を拭った、その時だった。
「……あの、おじちゃん」
レジカウンターの下から、ひどく遠慮がちな、小さな声が聞こえた。
オリンが見下ろすと、そこには、背伸びをしてやっとカウンターに手が届くくらいの、ポポロ村の小さな男の子が立っていた。
「……ん? なんだ、子供か」
オリンは、ヤクザのような威圧感のあるサングラスの奥の目を瞬かせた。
男の子は、オリンのイカつい風貌(白スーツにグラサン、ハゲ頭)に少し怯えながらも、小さな手でギュッと握りしめていた商品を、カウンターの上にコトリと置いた。
それは、子供向けのお菓子コーナーで売られている、一番安い『ゴブリン・チョコ』であった。
「……これ、おねがいします」
男の子が、上目遣いでオリンを見つめる。
「ほう。チョコを一つか。よかろう」
オリンは、先ほどまでの荒々しい神速モードを解き、あえてゆっくりとした動作で、その小さなチョコを手に取った。
ピッ、とスキャナーを当てる。
「お会計は……『銅粒五枚(五円相当)』だ」
オリンが、なるべく威圧感を与えないように、優しく声をかけた。
「うん。……えっとね、これ」
男の子は、ズボンの小さなポケットに手を突っ込み、ゴソゴソと何かを探した。そして、一枚の硬貨を取り出し、オリンの大きな掌の上に、チョコンと乗せた。
真ん中に穴の開いた、真鍮色の小さな硬貨。
先日、強欲アイドルのリーザが徹夜で磨き上げて金貨だと言い張った、あの最下級硬貨の『五円玉』である。
「……五円、ちょうどお預かりした。ありがとう」
オリンは、その小さな五円玉をレジのドロワー(引き出し)に丁寧にしまい、チョコを小さな紙袋に入れて男の子に差し出した。
「はい、お買い上げの商品だ。気をつけて帰るのだぞ」
オリンがそう言って紙袋を渡すと、男の子は、パァァッ! と顔を輝かせた。
そして、チョコの入った袋を両手で大事そうに抱きしめ、オリンに向かって、満面の笑みを向けた。
「ありがとう、おじちゃん! おじちゃん、レジすっごく早くて、かっこよかったよ!」
——ドクンッ。
その瞬間。
天界の主神オリンの胸の奥底で、何かが激しく、そして決定的に弾けた。
「……え?」
オリンの動きが、完全に停止した。
男の子は「バイバーイ!」と手を振りながら、嬉しそうにスーパーの出口へと駆けていく。
その後ろ姿を見送りながら、オリンの脳内で、先ほどの言葉が何度も何度もリフレインしていた。
『ありがとう、おじちゃん』
オリンは、震える手で、自分の胸元(エプロンの上)をギュッと掴んだ。
……数万年。
彼が天界のトップとして君臨してきた、気の遠くなるような年月。
その間、下界から天界に届く声(祈り)は、いつだって『欲望』と『不満』と『泣き言』ばかりだった。
『神様、どうか私を金持ちにしてください』
『神よ、なぜ我々の村に雨を降らせてくれないのだ』
『憎き敵国に、神の天罰を!』
人間の願いを叶えてやっても、彼らはそれを「自分の努力と運の結果」だと解釈し、天候を整えてやっても「今日晴れたのは当たり前だ」と思うだけ。
神の奇跡は常に『消費』されるだけであり、システムを管理する『主神オリン』という一個の存在に対して、直接の感謝の言葉が向けられることなど、ただの一度もなかった。
それが、どうだ。
ただ、レジで商品のバーコードを読み取り、袋に入れて渡しただけ。
天界の奇跡に比べれば、息を吐くよりも簡単な、矮小な行為だ。
それなのに、あの子供は。
自分の小さなポケットに入っていた『五円玉』という、自分が持つ全財産(価値)を差し出し、満面の笑みで、間違いなく『目の前にいるオリン』に向けて、感謝の言葉を口にしたのだ。
(ああ……)
オリンの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
(これが……これが、『現場』か……ッ!)
オリンは、レジの引き出しを開け、先ほど男の子から受け取った『五円玉』を見つめた。
子供の手のひらで握りしめられていた、微かな体温が残るその小さな硬貨。
天界の宝物庫で腐るほど見てきた、金貨の山や宝石の輝きなどよりも。この、たった一枚の、穴の開いた薄汚れた五円玉が——オリンにとっては、宇宙の何よりも重く、そして尊い『価値の結晶』に思えた。
「……っ……う、うぅぅ……ッ!」
真っ黒なサングラスの下から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、レジカウンターを濡らした。
「おい、SV? どうした、いきなり泣き出して。胃痛がぶり返したか?」
異変に気づいた俺が、心配して声をかける。
「ち、ちがう……! 違うのだ、店長君……!」
オリンは、サングラスを外し、真っ赤に充血した目で、俺を……いや、スーパー折原の店内全体を、愛おしそうに見渡した。
「労働とは……仕事とは、かくも美しく、かくも報われるものだったのか! 私は、私は数万年もの間、こんな素晴らしい喜びを知らずに、ただ虚無の中でハンコを押し続けていたというのか……ッ!」
オリンは、顔をクシャクシャにして号泣し始めた。
「私は……私は、この店が……このレジの仕事が、大好きだァァァァッ!!」
天界のトップが、スーパーのレジ台に突っ伏して、子供のようにわんわんと泣きじゃくる。
「……あーあ。完全に『こっち側』に落ちちまったか」
俺は、呆れ半分、そして少しの共感と共に、肩をすくめた。
本部から派遣されてきた、頭の固い厄介なスーパーバイザー。彼らはいつも、現場の空気を知らずに数字だけで語ろうとする。
だが、一度でも『お客様からの直接のありがとう』という、現場だけが持つ究極の麻薬(喜び)を味わってしまえば……彼らのつまらないプライドなど、一瞬で吹き飛んでしまうのだ。
「……ほら、泣いてる暇はないぞ、SV。夕方のピークに向けて、主婦たちがまた押し寄せてくる時間だ」
俺が、入り口の方を指差して笑う。
見れば、夕飯の買い出しにやってきた客の波が、再び押し寄せようとしていた。
「うむッ……! 分かっているッ!」
オリンは、目元を腕で乱暴に拭い、再びサングラスを装着した。
その背筋はピンと伸び、神の威厳……いや、それを遥かに凌駕する『小売業のプロフェッショナル』としての凄みに満ちていた。
「さあ来い、下界の民たちよ! 貴様らの欲望(買い物カゴ)、この私が一つ残らず完璧に精算して、最高の笑顔と共にお返ししてやろう! スーパー折原のレジは、私が守るッ!」
神生で初めての『労働の喜び』と『五円玉の価値』を知った主神オリン。
彼はもはや、監査にやってきた厄介なクレーマーなどではない。スーパー折原が誇る、最強のレジ打ち要因として、狂乱の特売日の最前線で、喜びの涙を流しながらバーコードリーダーを振るい続けるのであった。
読んでいただきありがとうございます。
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