EP 6
女神のリボ払いと、限界社会人の酌み交わす酒
スーパー折原のバックヤードは、むせ返るような惣菜の油の匂いと、静かな絶望に包まれていた。
「……はぁ。肩が凝ったわ。神気を使っても、物理的な筋肉疲労って抜けないのよね……」
ピンク色の芋ジャージの上に指定の緑エプロンを身につけた女神ルチアナが、パイプ椅子に座り、死んだ魚のような目で『惣菜の半額シール貼り』の作業をこなしていた。
世界の頂点に立つ創造主が、時給銅貨二枚(約二百円)でスーパーの裏方作業に精を出している。異世界広しといえども、こんな狂った光景が見られるのは当店だけだろう。
「おい、新人。手が止まってるぞ。十七時のタイムセールまでに、余ったコロッケ五十個すべてにシールを貼り終えろと指示したはずだが」
俺はバインダーを片手に、冷徹な店長の顔でバックヤードに入った。
「あ、店長……。ごめんなさい、ちょっと手首が腱鞘炎気味で……」
ルチアナがビクッと肩を揺らし、慌てて作業を再開しようとした――その時だ。
ポロリ、と。
彼女のジャージのポケットから、キラキラと輝く『エンジェルすまーとふぉん』が床に滑り落ちた。
「あっ、いけない!」
ルチアナが拾おうとするより早く、俺がそれを拾い上げた。
そして、偶然にも画面がスリープから復帰し、そこに表示されていた『とあるアプリ』の画面が、俺の目に飛び込んできた。
【神界クレカ・ご利用状況】
・ご利用可能枠:1,000,000円
・現在のご利用残高:985,400円
・次回お支払い額(リボ払いコース):68,000円(※うち手数料12,317円)
「――――ッ!!?」
瞬間、俺の心臓が鷲掴みにされたようにドクンッと跳ね上がり、呼吸が止まった。
「ああっ! 見ないでぇぇっ!!」
ルチアナが顔を真っ赤にしてスマホを奪い取るが、遅かった。
俺の目は、確かに見てしまった。
神話の時代の極大魔法? 物理法則を無視した闘気? 魔王の放つブラックホール?
違う。そんなファンタジーな脅威など、俺にとっては『どうでもいい現象』でしかない。
俺の魂を最も深く抉り、真の恐怖を呼び覚ます魔法の言葉。
それは――『リボ払い(年率15%の悪魔の契約)』だ。
「……お、お前……。限度額、ギリギリじゃないか……。しかも、手数料だけで一万超えって……元本が全然減ってない、リボ地獄のど真ん中……っ!」
俺はバインダーを取り落とし、ワナワナと震えながら後ずさった。
「だ、だって仕方ないじゃない! 月人くん(推し)のソシャゲで、どうしても水着イベントの限定SSRが引けなくて、天井まで回したのよ! そしたらエステ代の引き落としが重なって……そこに昨日のリーザちゃんのライブで、手元にあったキャッシング枠を全部スパチャに突っ込んじゃって……ッ!」
ルチアナが、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、パイプ椅子に突っ伏して泣き崩れた。
「来月の引き落とし日、残高が足りないの……! これがバレたら、天界から借金取りの黒服レスラーがやってきて、マグローザ漁船(蟹工船)にドナドナされちゃうわぁぁっ!」
ああ……。
俺の視界が、急激に歪み始めた。
目の前にいるのは、もう『世界を統べる絶対神』などではない。ただの、推し活とガチャの誘惑に負けて破産寸前に追い込まれた、哀れな限界OLだ。
そしてその姿は、かつて地球のブラック小売業で身を粉にして働いていた『過去の俺自身』と、恐ろしいほどに重なった。
――月間72時間残業。残業代は未払い。
――ストレス発散のために手を出したスマホゲーム。
――家賃の引き落とし日、ATMに表示された『残高不足』の無慈悲な文字。
――給料日前日、小銭入れを逆さにして、数十円のモヤシを買って飢えを凌いだ夜。
「……わかる」
気がつけば、俺の口から、魂の底からの共感の声が漏れていた。
「……え?」
涙目のルチアナが、顔を上げる。
「痛いほど、わかるぞ……その苦しみ。リボ払いの『毎月定額しか引かれないから平気』という甘い罠。そして気がついた時には、雪だるま式に膨れ上がった手数料に首を絞められる恐怖……っ!」
俺はガクッと膝をつき、ルチアナと同じ目線で、彼女の肩をガシッと掴んだ。
「お前……今まで、一人でこの重圧(月末の恐怖)と戦っていたんだな……ッ!」
「て、店長ぉぉぉっ!! そうなの! 神界のトップのオリン様は数字のことばっかりうるさいし、部下は私の苦労も知らずに勝手に人間界に旅行に行くし……! 誰にも相談できなかったのよォォッ!」
「俺のエリアマネージャーも同じだった! 『売上目標達成しろ』と怒鳴りながら、クリップボードを投げつけてきやがった! 上に立つ者の孤独と、金銭の恐怖……俺たちは、同じ地獄を見ている……っ!」
神と、社畜。
絶対に交わるはずのない二つの魂が、今、『資本主義の闇』という一点において、完全に共鳴し合っていた。
「……待ってろ」
俺は立ち上がり、店舗の酒類コーナーから、庶民の愛する安くて度数の強い芋酒――『イモッカ(度数40度)』のボトルと、紙コップを二つ持ってきた。
「おい。今はもうタイムカードを切った(退勤した)ことにしてやる」
俺は裏返した段ボール箱をテーブル代わりにして、紙コップに波々とイモッカを注いだ。
「飲め。今日は、限界社会人の憂さ晴らしだ」
「……店長……っ! ぐすっ、ありがとう……っ!」
ルチアナは震える手で紙コップを受け取り、度数40度の強烈なアルコールを、水のように一気に呷った。
「かぁぁぁっ! 五臓六腑に染み渡るわぁぁっ!」
女神が、完全におっさんのような声を上げて涙を拭った。
「飲まなきゃやってられないわよ! なんで神様なのに、こんなに月末の資金繰りに怯えなきゃいけないの! もっと予算増やしてよオリンのハゲェェッ!」
「言わせておけ! 現場の苦労を知らない本部(神界)の連中なんて、全員バックヤードの賞味期限切れの弁当でも食って腹を壊せばいいんだ!」
「あはははっ! 店長、ウケるゥーッ! あんた、ただの人間なのに、意外と話が通じるじゃないのォ!」
ガンッ! と紙コップが打ち合わされる。
俺とルチアナは、段ボール箱を囲み、コロッケの油の匂いが充満するバックヤードで、安い芋酒を痛飲し始めた。
「ていうかさ、聞いてよ店長。ウチの調停者のガオガオンたち、社内恋愛でドロドロなのよ! 朱雀がサークルクラッシャーで、玄武がリスカするからって、全然仕事しなくて!」
「うちのバイトも大概だぞ。魔王のラスティアは、さっきから表で『リーザちゃんのブロマイドの並べ方が気に入らない』とか言って、陳列棚の前で三十分も悩んでるしな!」
「あいつは昔からそうなのよ! なーにが永遠の17歳よ、ただの痛い限界オタクじゃないの!」
「お前も芋ジャージで酒を飲んでる姿は、完全に休日のダメなオッサンだぞ!」
「なんですってェ!?」
ギャーギャーと笑い合いながら、俺たちのアルコールのペースは加速度的に上がっていった。
そこに、扉を開けて一つの影が入ってきた。
「プロデューサーさん! ルチアナ先輩! ライブの準備ができましたの……って、うわっ!?」
フリルドレス姿のリーザが、凄まじい酒の匂いに顔をしかめた。
「な、なにしてるんですの二人とも! まだ外はお日様が高いのに、段ボールの上でお酒なんか飲んで……完全にダメな大人ですの!」
「おおっ、リーザちゃん!」
すっかり出来上がったルチアナが、赤ら顔でリーザに絡んでいく。
「いい? アイドルはね、若いうちにお金をしっかり貯めておくのよ……! 気を抜きなさい……じゃなかった、気をつけなさい! リボ払いには絶対に手を出しちゃダメよォォッ!」
「……? りぼばらい? なんですのそれ? 新しい投げ銭のシステムですの?」
リーザが首を傾げる。純粋無垢にして究極の強欲アイドルである彼女には、大人の抱えるドス黒い借金地獄の概念など理解できるはずもなかった。
「違う、リーザ。これはな、魂を前借りして未来を食いつぶす悪魔の契約だ……お前は知らなくていい……」
俺が遠い目をしながら、イモッカをチビチビと舐める。
「はぁ……。プロデューサーさんたち、最近ちょっとお疲れみたいですのね。じゃあ、私がライブでいーっぱい歌って、皆さんの時間を奪って差し上げますの! ついでにルチアナ先輩のお財布の残金も、全部私へのスパチャに変えてあげますのーっ♡」
「ヒィィッ! やめてぇぇ! これ以上むしり取らないでェェッ!!」
ルチアナが悲鳴を上げて頭を抱える。
ガチャリ。
その時、再びバックヤードの扉が開き、レジ打ちを終えたキャルルが入ってきた。
「店長ー、レジの小銭が足りなくなったから両替……」
キャルルは、その場でピタリと固まった。
薄暗いバックヤード。段ボール箱の上には空のイモッカの瓶。
そして、顔を真っ赤にして泣きながら酒をあおる世界の女神と、同じく死んだ魚のような目で紙コップを握りしめている店長。
その横で、「もっと課金してくださいの♡」と悪魔の笑みを浮かべるアイドル。
「…………」
キャルルは、無言で数秒間その地獄のような光景を見つめた後、スッと扉を閉めた。
「……見なかったことにしよう。アタシはただの村長。大人の闇には、これ以上深入りしないほうがいいわね」
神の威厳は完全に地に落ちた。
だが、俺とルチアナの間に芽生えた『限界社会人としての固い絆(共犯関係)』は、この安い芋酒の味と共に、スーパー折原のバックヤードに深く刻み込まれたのであった。
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