EP 3
「100円のライターが『プレミア』で神造兵器になる日」
ポポロ村の門番が、のどかにお茶を飲んでいるのが遠くに見えた。
ブルゥゥウウウウンッ! という、重低音の唸り声と地響き。
林をなぎ倒し、岩のように巨大な猪型魔獣が俺たちに向かって猛突進してきた。
「ハ、ハルヤ様……ッ! あれは、はぐれのロックバイソンです……!!」
ルルナの悲鳴が、激しい地鳴りに掻き消されそうになる。
土煙を巻き上げながら林を粉砕して現れたその巨体は、地球の軽自動車、いや中型のトラックほどもあった。全身を覆うのは、ゴツゴツとした灰色の岩石。それが筋肉の動きに合わせて擦れ合い、不快な金属音のような音を立てている。
突進の風圧だけで、周囲の若い木々がバキバキとへし折れていく。あの岩の塊のような頭部で激突されれば、人間の身体など一瞬で挽き肉だ。
「ルルナ、あいつの装甲を剥がせるような魔法は撃てないのか!?」
「だ、ダメです……! さっきの小鳥の治療で、私の魔力は本当に底を突いていて……でも、でもっ!」
ルルナは震える両手で杖を構え、必死に呪文を唱え始めた。彼女の額から大粒の汗が流れ落ちる。
勇者と聖女の末裔としての意地だろう。必死に己の精神を絞り出し、杖の先端に小さな、本当に親指の先ほどの弱々しい火球を作り出した。
「いけぇぇえええっ!!」
ルルナの叫びと共に放たれた火球は、真っ直ぐにロックバイソンの額へと飛んでいく。
だが、岩の装甲に触れた瞬間、パァン、と乾いた音を立てて火花のように弾け飛んでしまった。傷一つ、それどころか煤すらついていない。
「そんな……私の全力の火球が、掠りもしないなんて……」
杖を握るルルナの力が抜け、そのまま地面へと膝から崩れ落ちた。青い瞳が絶望に染まり、涙が溢れそうになっている。
ロックバイソンは、自分に向けられた貧弱な抵抗に苛立ったのか、さらに速度を上げた。血走った赤い両目が、はっきりと俺たちをロックオンしている。
逃げるべきだ。ルルナを抱え上げて、今すぐ横の茂みに飛び込めば、直線的な突進しかできないあいつを躱せるかもしれない。
そう思った瞬間、俺の視界の端に、のどかに佇むポポロ村の木製の大きな門が映った。門の前では、老いた門番がまだ事態を把握しきれず、のんびりと茶をすすっている。
(……ダメだ。ここで俺たちが避ければ、あいつはあのまま村の門に激突する)
もしあの巨体が村になだれ込んだら、どうなる?
平和に暮らす村人たちが蹂躙され、家々が破壊される。
それは、スーパーの店長として、絶対に許してはならない『大惨事』だ。
(お客様の安全を第一に考える。それが、店舗を預かる店長の義務だろ……!)
異世界に来てまで、そんな社畜根性が、いやプロ意識が俺の身体の芯でカチリと音を立てて燃え上がった。
俺は一歩も引かず、突進してくる岩の塊を正面から見据えた。
脳内のシステム画面を限界の速度で展開する。
『現在の売上(店長ポイント):15p』
(ポイントを消費して、特殊シールを発行する……! スキルよ、俺の店長決裁に応えろ!)
俺の意志に反応し、画面の中の『✨プレミアシール(消費10p)』の項目が激しく点滅した。
チャリーン♪ という軽快なレジ音が脳内に響き渡ると同時に、俺の右の掌に、一枚のシールが物質化して現れた。
先ほどのゴブリンに貼った安っぽい黄色いシールとは違う。眩いばかりの金色の輝きを放ち、周囲の空気をピリピリと震わせるような、最高級のオーラを纏った特上の一枚。
俺は素早く左手をポケットに突っ込み、さっきルルナのガチャから出てきた『100円ライター』を取り出した。
改めて見ると、赤いプラスチックのボディはあちこち傷だらけで、中の透明なオイルも半分くらいしか残っていない。百均のレジ横で誇りを被っていそうな、どうしようもなくチープな消耗品。
「ハルヤ様!? 何をされているのですか! 早く逃げてください! そんな小さな火起こしの道具じゃ、あの魔物には――」
ルルナの悲痛な叫びを無視し、俺はライターを左手に強く握りしめた。
ロックバイソンとの距離、残り十メートル。五メートル。三メートル。
突進の凄まじい風圧が、俺のスーパーの制服を激しくバタつかせる。鼻を突くのは、魔獣特有の荒い獣臭と、削られた土の匂い。
脳が恐怖で麻痺しそうになる。だが、俺の目は、その圧倒的な質量を冷静に捉えていた。
この正面からの直線的なフルスピード。デカくて重い。
これは――特売日の夕方、タイムセールの『限定10パック・国産黒毛和牛半額』を目指して、大型カートを全力で押し放ちながら猛ダッシュしてくる、怒り狂った主婦たちの動きと完全に同じだ。
(あの時、俺はどうやって生還した? ――そう、ギリギリまで引きつけてからの、電光石火のサイドステップだ!)
「シッ……!」
衝突のコンマ一秒前。俺は長年の店長生活で極めた『神回避ステップ』を炸裂させた。
重心を限界まで低く落とし、地面を滑るように身体を左へ半歩だけズラす。
ガガガガガッ! と、俺の鼻先をロックバイソンの岩の装甲がかすめていく。凄まじい衝撃波が頬を叩き、皮膚が裂けそうになるが、俺の体躯は紙一重でその突進を回避していた。
すれ違いざま、体勢を崩さぬまま、俺は右手の金色のシールを、左手の100円ライターの側面に『ペタリ』と正確に貼り付けた。
『✨ プレミア(特上)』
その瞬間、ただのプラスチックの塊だった100円ライターの『価値』が、世界の概念ごと激しくバグり始めた。
安っぽいボディが神聖な金色に明滅し、中の半分しか入っていなかったオイルが、まるで超高密度のエネルギーの液体へと変質していく。
「お客様、当店では不良品の返品・乱暴なご入店は一切お断りしております!!」
俺は振り返り、ロックバイソンの無防備な背中に向けて、ライターの小さなヤスリを親指で思い切りカチッと擦り下ろした。
ゴォォォォォォォォオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!!!
次の瞬間、ライターの小さな火口から放たれたのは、チロッとした微弱な火などではなかった。
それは、視界のすべてを真っ白に染め上げるほどの、致死量の紅蓮の火炎放射だった。
「うおぉぉっ!? クソ、火力が強すぎるだろぉぉっ!!」
あまりの熱量と放射の反動に、俺自身の身体が後ろへ吹き飛ばされそうになる。慌てて両手でライターを保持するが、手のひらが焼け焦げそうなほどの熱風が吹き荒れる。
『火を点ける』という100円ライターの本来の価値が、プレミアシールによって『すべてを灰燼に帰す神の業火』へと暴騰してしまっていた。
極大の火炎の濁流は、ロックバイソンの背後から容赦なく襲いかかり、その乗用車ほどの巨体を完全に丸呑みにした。
どんな魔法も弾くはずの岩の装甲が、数千度の超高温によって瞬時にドロドロと溶け落ちていく。
「ブギ、ブギギギギュゥゥゥウウウーーーッッ!?」
ロックバイソンは悲鳴とも咆哮ともつかない絶叫を上げ、激しくのたうち回ったが、それもわずか数秒のことだった。
業火が収まり、周囲に立ち込めた煙がゆっくりと晴れていく。
そこに転がっていたのは、凶悪な魔獣の姿ではなかった。
岩の装甲は完全に消え去り、肉の表面は綺麗な狐色に焼き上げられ、信じられないほど上質な脂の乗った、ジュージューと音を立てる巨大な『極上ローストポーク』だった。
辺り一面に、香ばしい肉の香りと、肉汁の焼けるあまりにも美味そうな匂いが爆発的に広がっていく。
「あ、熱っ、冷ませ冷ませ!」
俺は慌ててライターのレバーから指を離し、煙を吹く赤いプラスチックの塊に息を吹きかけた。危うく本当に爆発するかと思った。
だが、ボディに貼られた金色のプレミアシールが静かに光を失い、消滅すると、ライターは再びオイルが半分残っただけの、ただのチープな100円ライターへと戻っていった。
俺はそれを宝物のように、慎重にスーパーの制服のポケットへとねじ込んだ。
「……すご、い……」
背後で、ルルナがぽかんと口を開けたまま、完全に魂が抜けたような顔で呟いていた。
澄んだ青い瞳が、信じられないものを見るかのように丸くなっている。
「ただの、あの安っぽい魔道具が……ハルヤ様の紙切れ一枚で、一瞬にして国を救うレベルの神造兵器に化けるなんて……。やっぱりハルヤ様は、伝説の英雄の生まれ変わり、いえ、それ以上のお方です……!」
「いや、だからただの特売品のプレミアム化だって……。それより、このデカい肉、どうするよ?」
俺がローストポークを見上げて途方に暮れていた、その時だった。
「おいおいおいおーーーいッッ!! 今、めちゃくちゃ美味そうな肉の匂いがしたじゃねぇかちくしょう!!」
林の奥の草むらが激しく揺れ、バサァッと葉っぱを飛び散らせながら、巨大な両手斧を担いだ筋肉だるまの竜人が、口からヨダレを文字通り滝のように流しながら、血走った目でこちらへと飛び出してきたのだった。
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