第11話 読めない残響
ベルノの船着き場は、大陸の縁から突き出した木造の桟橋が何本も伸びている。
船は大小様々で、定期便から貸切まで揃っている。白環教の国ヴァルテア方面への船は、商船が週三便。他に、許可なく国境を越えるための「裏ルート」がある。
「裏ルートを使う」とミナが言った。「定期便は入国審査がある。偽の証明書があっても、審査員の質が高い便だと破られる可能性がある」
「裏ルートには審査がない?」
「船頭が顔で判断する。信用できる客かどうか。金を多く払えば大体通る」
「信用を金で買う仕組みか」
「ベルノはだいたいそう」
船着き場の端、他の船が停まっていない場所に、古い中型の渡橋船が係留されていた。
船頭は四十代の男で、顔に大きな傷があった。右頬から顎にかけて、斜めに走る古傷だ。
「ヴァルテア近くまで頼みたい」とミナが言った。
「どのくらい近く?」と男は言った。
「霧縁の丘の手前まで」
男が眉を上げた。
「白環教の施設の近くか。いい値段がかかる」
「分かっている。いくら?」
「通常の三倍。それと、何かあっても俺は知らない」
「当然の話ね」
「乗れ」
船に乗り込むとき、男が俺を見た。傷のある顔で、少しだけ目を細めた。
「あんた、面白い目をしているな」と男は言った。
「よく言われる」
「死人の目とは違う。生きているのに、深いところが遠い感じがする」
「そういうものかもしれない」
「船の中では寝ていていい。着いたら起こす」とだけ言って、男は操舵に戻った。
ミナと俺は甲板の端に座った。
船が動き始めた。
ベルノが遠ざかっていく。大陸の縁に張り付いたあの奇妙な街が、小さくなっていく。
「一つ聞いていいか」とミナが言った。
「何」
「あなたは記憶がないけど——怖くないの?」
「何が怖い?」
「自分のことが分からないということ。自分が何者か、どこから来たか、本当は何の目的で動いているのか——そういうことが全部不明なまま動くのが」
「怖いかどうか」と俺は繰り返した。
空を見た。エルグレイアの空は今日も灰色だ。雲が低く垂れている。
「お前に聞き返す」と俺は言った。「自分のことが全部分かっていたら、怖くないのか」
「……どういう意味?」
「お前は自分が誰か知っている。ミナ・ヴァルカ。没落貴族の娘。反逆者の血筋。でもお前が本当はどういう人間で、どういう選択をするか——本当に分かっているか?」
ミナが少し黙った。
「分かったつもりでいる」と彼女は言った。
「それは俺も同じだ。自分の記憶はない。でも今の俺がどう感じ、どう考えているかは分かる。それで十分だと思っている。過去が分からなくても、今が分かれば動ける」
「でも過去が——あなたの行動に影響しているとしたら?」
「している」と俺はあっさり認めた。「吸収した残響が俺の思考パターンに影響している。それは確かだ。俺の判断の一部は、俺だけのものじゃない」
「それが怖い、という話をしている」
「怖いのかもしれない」と俺は言った。「でも今のところ、その影響が俺を変な方向に向けていない。変な方向に向いたとき、初めて怖いと思う。今はまだその段階じゃない」
ミナが俺を見た。
「……割り切り方が変わってる」
「そうか」
「普通の人間はもっと悩む」
「悩むのが嫌いなわけじゃないが——悩んでいる暇があったら調べる方が好きだ」
ミナが小さく笑った。今日二回目だ。
「変な人間」と彼女は言った。「でも一緒にいても疲れないのは、たぶんそのせいね」
「それは褒め言葉として受け取っていいのか」
「そう取っていい」
俺は空を見た。
雲の隙間から、少しだけ光が漏れていた。
灰色の空に、白い光の線が走っている。
綺麗だな、と俺は思った。
今度は打ち消さなかった。
---
船が進むにつれて、空の色が変わった。
ベルノの灰色から、ヴァルテア近辺の薄青へ。
白環教の国は、祈炉のエネルギーを天候制御にも使っている。空が晴れやすいように調整している——それは信仰の証明として使われていた。「神が空を清める」という演出のために、年間数百万単位のエネルギーが消費されている。
俺はその知識をどこかから拾っていた。どの残響から来たのかは分からない。でも情報として使える。
「白環教の国の空は綺麗だ」と俺は言った。
「知っている」とミナが言った。「父に連れてきてもらったことがある。幼いころに。父は研究で何度もヴァルテアに来ていたから」
「楽しかったのか」
「覚えていない。でも空が綺麗だったことは覚えている」
「その記憶は大事にしていい」
ミナがちらりと俺を見た。「珍しいことを言う」
「どこが」
「たいていの人間は、父親に関する話は詳しく聞きたがる。あなたは記憶の話だけして、そこで止めた」
「詳しく聞きたくないわけじゃない。ただ——お前が持っている、お父さんとの綺麗な記憶は、お前のものだ。俺が掘り返す必要はない」
ミナが少しの間、黙った。
「……そういうことを、自然に言う人ね」
「変か?」
「変じゃない。ただ——慣れていない」
「何に?」
「そういう風に扱われることに」
俺は返事をしなかった。
返事が必要な言葉ではないと思ったから。
船が霧縁の丘に近づいていった。
---
船を降りたのは、施設から二十分ほど離れた崖の下にある、小さな泊地だ。
地図で確認する。施設の裏に排気口がある。そこから入る。
「問題は読取士だ」と俺は言った。「施設の中にいるとすれば、入った瞬間に感知される可能性がある」
「距離は関係ある?」と聞いた。
「分からない。残響が濃い人間の探知だから——俺が残響の吸収を意識的に抑えれば、薄くなる可能性がある」
「できるの?」
「やったことはない。でもさっき、針の婆さんに刻印されたとき——婆さんの声に集中したら、残響が沈んだ。あれを意図的にやれるかどうか」
「今試す?」
「試す」
俺は目を閉じた。
残響の声を、聞こうとしなかった。
この場所にも死者の記憶は積み重なっている。崖の岩壁に、霧縁の風に、土の表面に。
その声に、耳を塞ぐ感覚。
——難しい。完全には塞げない。
でも、婆さんのときと同じことをした。今ここにあるものに集中した。
足の裏の土の感触。風の温度。ミナの立っている位置。船頭の船が離れていく音。
五秒——十秒——
「どう?」とミナが聞いた。
「薄くなった。完全じゃないが——半分以下になった気がする」
「感覚ベースだけど」
「しょうがない。道具がない」
「十分よ」とミナは言った。「行きましょう」
崖に沿って二十分歩いた。
白環教の施設が見えてきた。
思ったより小さかった。
石造りの建物が一棟、柵で囲まれている。建物の高さは三階程度。外壁は白く塗られていて、白環教の紋章——輪と剣を組み合わせたもの——が刻まれている。
「あれが処刑跡の管理施設か」とミナが言った。声に何かが滲んだ。感情の色が、少しだけ見えた。
「大丈夫か」と俺は聞いた。
「大丈夫」と彼女は言った。即答で。
「確認した」と俺は言って、先に進んだ。
追わない。
追わないことが、今俺にできる配慮だった。
---
裏の排気口は、地図通りの場所にあった。
直径は人一人がかろうじて通れる大きさだ。金属の格子がはまっているが、錆びていて、強く押せば外れる。
「入る」とミナが言った。
「俺が先に行く」
「なんで」
「残響読解者が先に入った方が、中の危険を感知できる。お前が先だと俺が後から情報を伝えても遅い」
ミナが少し考えた。
「……合理的ね。行って」
格子を外した。中は暗い。匂いがする——石と金属と、かすかな薬品の匂い。
這いながら進んだ。
残響が来た。
意識的に抑えながら、でも必要な情報は通した。
この場所で死んだ人間がいる。一人。最近ではない——数年前。病気か衰弱か。苦しみよりも疲れの感触だ。危険な死ではなく、自然な死に近い。
施設内部の構造が見えてくる——死者が歩き回った記憶から。
廊下が二本。南側に保管室。北側に監視室。地下に——
「地下がある」と俺は言った。後ろのミナに。
「地図にはなかった」
「最近作った、あるいは隠している」
「処刑跡はどこ?」
「——南側。保管室の奥に、小さな扉がある。そこから外に出ると処刑台の跡がある」
「読めた?」
「さっき死んだ人間の足の記憶。何度もそこへ行っていた」
ミナが後ろで息を整えているのが分かった。
「行く」と彼女は言った。
「…ああ」
排気口の先に出た。
廊下だった。
薄明かりが灯っている。魔法的な照明だ、炎ではなく白い光が石の中に埋め込まれている。
人がいないことを確認して、廊下を南に進んだ。
---
保管室の扉を開けた。
暗い部屋に、棚が並んでいた。
棚の上に、様々なものが並んでいる。壺、箱、紙束、金属の筒——全部に紙の札が貼られている。白環教の文字で管理番号が書かれている。
「残響を保管しているのか」と俺は言った。
「残響を?」
「こういう容器に——強い感情や記憶の残響を封じ込めることができる。俺は知らなかったが、知識として知っている。旧文明の技術だ」
「それをここで?」
「ここで管理している。処刑した人間の残響を、散逸させないように封じている。……なぜ?」
「読取士の仕事が分かった」とミナは言った。「外から残響読解者が来て、処刑跡の残響を読まないように監視している。でも残響を封じた容器がここにあれば——」
「容器を割れば残響が出る。それを読める」
俺たちは目を合わせた。
「どれがドヴァ・ヴォーンのものか分かるか?」と俺は聞いた。
「探すわ」
ミナが棚を見始めた。管理番号と日付を確認している。
俺は別の棚を見た。
日付から探す。二十年前の処刑。ドヴァ・ヴォーン・ヴァルカ——
「見つけた」とミナが言った。
声が、わずかに震えていた。
棚の中段に、小さな金属の筒があった。
管理番号の下に、名前が書かれていた。
筆記体の白環教文字。
ドヴァ・ヴォーン・ヴァルカ。
処刑日付。二十年前の、秋。
ミナが筒に手を伸ばした。
触れた瞬間、彼女の手が止まった。
「……」
俺は彼女を見た。
何も言わなかった。
ミナはしばらく筒を握ったまま、動かなかった。
「持っていく」と彼女は言った。
「外で開ける。今ここで開けたら読取士に感知される」
「分かっている」
「走れるか」
「走れる」
俺たちは保管室を出た。
廊下を戻る。
その瞬間、通路の角から人が出てきた。
白い鎧を着た兵士だった。
鉢合わせた。
三秒——全員が止まった。
その三秒の間に、俺の頭の中で複数の残響が同時に動いた。
この廊下で訓練をしていた人間の動き。この建物での戦闘を経験した人間の記憶。逃げ道として使われた経路。
「——左だ、走れ」と俺は言った。
「え」
「走れ!」
ミナの手を引いた。
兵士が叫ぶ声が聞こえた。
廊下を左に折れ、小さな扉を蹴った。外に出た。
冷たい空気が顔に当たった。
処刑台の跡——そこに出た。
石の台座が一つ、残っていた。
草が生えて、石が苔むして、それでも形は残っていた。
ミナが立ち止まった。
「走れ!」と俺は言った。
「分かってる!」
でも彼女の目が、その石の台座を見た。
一秒だけ。
それだけで十分だった。
走った。
施設の外に出た。崖の方向に。
「——止まれ!」という声が後ろから来た。
魔法の気配が来た。
炎だ。怒りの魔法。
俺の後ろの地面が爆発した。
「隠れろ!」と俺は叫んだ。
岩の陰に転がり込んだ。
ミナが隣に滑り込んだ。
「残響を」とミナが言った。「読んだことある? 戦い方を」
「墓地の中で少し。ただし実戦は初めてだ」
「私が時間を稼ぐ。あなたは考えて」
「考えるってどのくらいの時間が——」
「三十秒」
「早い」
「それだけあれば十分でしょ」
ミナが岩の陰から出た。
「——怖い」と彼女が言った。
それは俺に言ったのか、自分に言ったのか。
金色の瞳が細くなった。
左手を翳した。
冷気が走った。
空気が凝固した。石が白く凍りついた。
炎の魔法が来た——氷の壁に激突して、蒸気になった。
ミナの足が、少しだけ揺れた。
消費している。恐怖を。燃やしながら戦っている。
俺は三十秒、考えた。
吸収した記憶の中から「この状況に使えるもの」を引き出した。
複数が同時に動いた。脱出経路。囮の作り方。施設の弱点。
「ミナ」と俺は言った。
「何」
「右の崖際に、岩が積み重なっている場所がある。あそこを崩せるか」
「崩すって——どのくらい?」
「大きい音がすればいい。注意を引ければ」
「できる」
「やってくれ。俺はその間に別の動きをする」
「どこへ行く」
「声が届く範囲にいる」
「——信じるわよ」
それだけ言って、ミナが右に走った。
俺は左に動いた。
施設から出てきた兵士が三人——全員がミナを追っている。
俺は兵士の後ろ側に回り込んだ。
残響から得た「音の出し方」を使った。崖の反対側の岩に石を投げた。乾いた音が響いた。
兵士の一人が向いた。
もう一個投げた。
二人目が向いた。
右から轟音が来た。ミナが岩を崩した。
全員の注意が右に向いた。
「今だ!」と俺は叫んだ。
ミナが反転した。俺の声を聞いた方向へ走った。
俺たちは崖沿いを走った。
どこまで追ってくるか分からないが——今は走ることだけ考えた。
---
十五分走ったところで、兵士の気配が消えた。
崖の地形が複雑な場所に入ったため、追いにくくなったらしい。
俺たちは岩の陰に座り込んだ。
ミナが息を整えている。俺も息が荒い。
「……怪我は?」と俺は聞いた。
「ない。あなたは?」
「問題ない」
しばらく無言だった。
二人分の息が、冷たい空気の中で白くなった。
「走ってよかった」とミナが言った。
「走れなかったら終わっていた」
「違う。ここに来てよかった、という意味」
俺は彼女を見た。
ミナは筒を握ったままだった。
「お父さんの名前が書いてあった」と彼女は言った。
「見た」
「二十年間——ここに入れられていたのか。封じられたまま。誰にも読まれないように」
「白環教が守っていた」
「守っていたのではなく——隠していたのよ」
俺は何も言わなかった。
「父は研究で真実に近づいた。だから殺された。そして記憶まで封じられた。消えたのと同じにされた」
「でも消えていない」と俺は言った。
ミナが俺を見た。
「消えていない。お前が覚えている。そしてその筒の中に、まだある」
「……読む?」
「今じゃなくていい。準備ができたときに。急がなくていい」
ミナが筒を見た。
「読んでもらうとき——怖いかもしれない。何が出てくるか分からないから」
「それは俺も怖い」と俺は言った。
「あなたが怖いものがあるの?」
「ある。誰かの死の記憶を読むのは——悲しい。技能や知識より、感情の方が強く残るときがある。それが流れ込んでくるのは、きつい」
「でもやる?」
「やる。やると言った」
「なんで」
「お前がやりたいことだから」と俺は言った。
ミナが少し、口を開いた。
何かを言おうとして、やめた。
また開いた。
「——ありがとう」
「まだ成し遂げていない」
「それでも言う」
俺は答えなかった。
答える言葉が見つからなかったからではなく——今この場所で、この風の中で、ミナが感謝を言う声が、それだけで十分だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!読者様のご期待に添えるよう、全力で頑張らせていただきます!
【深町からのお願いです】
・面白い!
・続きが読みたい!
・更新応援してる!
と、少しでも思ってくださった方は、
【広告下の☆☆☆☆☆をタップして★★★★★にしていただけると嬉しいです!】
また画面上のブックマークを押して頂けると、最新話を追いやすくなりますのでぜひ!
皆様の応援が深町ネルの原動力になります!
何卒よろしくお願いします!




