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灰冠のアーカイブ  作者: 深町 ネル
第二章『廃都の断片』

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第10話 灰街の商売道

渡橋船を手配するのに、半日かかった。


ベルノからヴァルテア方面に向かう船は定期便がある。だが白環教の国に向かうとなると、入国審査が厳しい。名前を調べられる。ヴァルカという名前は、二十年経った今でも国家反逆者の一族として記録が残っている可能性がある。


「偽の身分証明が必要だ」とミナが言った。


「どこで手に入る」


「ベルノで手に入らないものはない」


それは正確だった。


ベルノはありとあらゆるものが売れる街だ。合法か非合法かの線引きが、他の大陸と比べて著しく曖昧になっている。理由は先に聞いた通り、法律の適用範囲の外側に街ができているからだ。


ただし、何でも買えるということは、何でも騙されるということでもある。


「信用できる業者を知っているか」と俺は聞いた。


「一人。ただし話が通じるかどうか」


「通じないとどうなる」


「追い回される。向こうは気が短い」


「紹介状はあるか」


「カシムの名前が使える。あの人の名前は一種の通行証になってる」


「じゃあカシムに一言もらってから行くか」


「あの人はもう会いたくないって顔をしてたけど」


「そうは見えなかったがな」


ミナが俺を見た。「あなた、人を読むのが上手ね。残響のせい?」


「半分はそうかもしれない。でも残響なしでも——お前やカシムみたいに感情を表に出さない人間の方が、逆に読みやすい」


「なんで」


「感情を出さないということは、漏れた瞬間が際立つ。普段静かな水面に波が立てば、すぐ分かる」


ミナが少し黙った。


「……それは」と彼女は言った。「正直、少し怖い」


「俺が読んでいることが怖いのか、お前の感情が漏れていることが怖いのか」


「両方」


「漏れることを恥じなくていいと思うが」


「恥じているわけじゃない。ただ——見られたくない」


「なぜ」


「見られると、期待される。期待されると、裏切ったときに傷つく。傷つくのが嫌だから、見せたくない」


俺はその論理を辿った。


「それはお前が誰かに期待して、裏切られたことがある、ということか」


ミナは答えなかった。


答えないことが答えだ。


「分かった」と俺は言った。「俺はなるべく余計なことは言わないようにする」


「今日だけで十分喋ってる」とミナは言った。


「今日は特別だ。情報収集中だから」


「理由になってない」と彼女は言ったが、その声は少しだけ、朝よりも軽かった。


---


カシムに話を通すのは五分で済んだ。


「また来たのか」と彼は言ったが、嫌そうではなかった。むしろ何かを待っているような顔だった。


「身分証明の業者に紹介状を書いてくれ」とミナが言った。


「《針の婆さん》のところか?」


「そこ以外に心当たりがない」


「あそこは俺の名前でも機嫌次第だからな。まあ書くけど」とカシムは紙を取り出して何か走り書きした。「ほら。これで断られたら諦めて別の方法を考えろ」


「断られない自信は?」


「三割くらい」


「低すぎる」


「針の婆さんはそういう人間なんだ。逆に言えば、通ったら本物の証明書が手に入る。ベルノで一番精度が高い」


「場所は?」とミナが受け取った。


「東路地の九番区画、建物に縫い針の絵が書いてある扉を探せ。ノックは三回で止めて、二秒待ってからもう二回」


「合言葉みたい」


「そういうもんだ。ここは全部そういうもんなんだよ」


俺たちが出ようとすると、カシムが「レイン」と呼んだ。


振り向くと、彼は今日何度目かの「本物に近い笑顔」をしていた。


「残響を読みすぎるな」と彼は言った。「吸収した記憶は使えるが——使われることもある」


「どういう意味だ」


「そのうち分かる。今は覚えておくだけでいい」


それだけ言って、彼は杯を傾けた。


俺はその言葉を、「覚えておく事柄」の棚に入れた。


棚が、少しずつ満杯に近づいている気がした。


---


東路地の九番区画は、ベルノの中でも特に入り組んだ場所にある。


路地が三方向から合流して、気づけばどこから来たか分からなくなる構造だ。意図的に作ったとしか思えない。迷路設計だ。


「こういう場所は残響が濃い」と俺は言った。


「なんで?」


「迷った人間が多いから。迷ったときの焦りや混乱が濃く積み重なっている。それに」と俺は一区画先の路地に意識を向けた。「一回、誰かが死んでいる。最近——三日以内くらい」


ミナが足を止めた。「危ない場所?」


「死因は……けんか、かな。外傷の記憶が残っている。ただしここで待ち伏せがあった感触はない。偶発的な暴力だと思う」


「一回だけ?」


「今のところは」


「行く」とミナは言って歩き始めた。


「慎重だと思ったら思い切りがいいな」


「慎重と臆病は別。やると決めたら動く」


縫い針の絵のある扉を見つけたのは、十分後だった。


ベルノの建物はたいていが煤けた灰色か茶色をしているが、その扉だけは黒く塗られていた。縫い針の絵は白で、細かく書き込まれている。針の先には糸が通っていて、その糸が扉の端まで続いている。まるで何かを縫い合わせているように。


ノックを指示通りに打った。


三回、二秒、二回。


しばらくして、扉が細く開いた。


薄暗い隙間から、目だけが見えた。


「なんだ」という声。低い。性別が判然としない。


「カシム・バールからの紹介です」とミナが言った。紹介状を扉の隙間に差し入れた。


紙が引っ込んだ。


しばらく待った。


「入れ」という声がした。


扉が開いた。


---


中は、意外なほど広かった。


外から見た建物の大きさより、明らかに内側が広い。横に隣の建物と繋がっているのだろう。部屋が連なって、それぞれに作業台がある。


作業台の上には、紙、インク、刻印具、各国の判子、色の違う蝋燭。


職人の工房だ。


奥に、人物がいた。


「針の婆さん」と呼ばれていたが、実際に会うと婆さんという言葉が適切かどうか迷う。年齢は七十か八十か、もっと上かもしれない。だが腰は曲がっておらず、目は鋭く、手は若者のように静止している。


指が細い。本当に針みたいに細い。


「カシムの客か」と彼女は言った。ミナを見てから、俺を見た。


俺を見た瞬間、彼女の目が止まった。


一拍、二拍——三拍。


「……何を作る」と彼女は言った。普通に戻った声で。


「入国証明書が二枚。ヴァルテア向けの」とミナが答えた。


「名前は?」


「ミナ・ヴォーン」


「そちらは?」


「レイン・グレイ」と俺は答えた。


針の婆さんは俺を見ながら、手元の紙に名前を書き込んだ。


「顔写真ではなく、《特徴刻印》を使う。肌に一時的な証明紋様を刻む方式だ。本物と見分けがつかない。ただし」と彼女は言った。「痛い」


「構わない」とミナは言った。


「あなたのことじゃない」と婆さんは俺を見た。「こちらの少年の話だ」


「俺が痛いのか」


「普通の人間なら痛みだけで終わる。でも刻印は残響に反応することがある。残響が濃い人間に使うと——余計なものが出てくることがある」


「余計なもの、とは」


「本人が見たくない記憶。刻印の工程で引っ張り出される」


ミナが俺を見た。


「残響が濃い、というのが分かるのか」と俺は聞いた。


「目を見れば分かる。あなたの目には層がある。一人の人間の目じゃない」


「……それは」


「珍しい。というより、私は生きている間に一度だけ見たことがある。そういう目を」


「いつ?」


「ずっと昔の話だ。あなたが生まれる前の話だよ」


婆さんは俺から視線を外して、道具を準備し始めた。


「始めるよ。先に女の子の方から。あなたは見ていなさい」


---


ミナへの刻印は十分で終わった。


左手首の内側に、細かい紋様が浮かんでいる。見た目は装飾のようだが、ヴァルテアの国境検問所ではこれを読み取る機械があり、そこで証明情報が確認される仕組みだ。


「痛かった?」と俺は聞いた。


「そこそこ」とミナは答えた。「でも耐えられる範囲」


「俺の番か」


「座りなさい」と婆さんが言った。


椅子に座った。左手首を差し出す。


婆さんの細い指が、小さな刻印針を持った。


「目を閉じない方がいい。見ていた方が、引っ張り出されにくい」


「見ていると引っ張り出されにくい?」


「現在に集中していれば、過去が入り込む隙が減る。目を閉じると記憶の中に落ちやすい」


「分かった」


針が皮膚に触れた。


痛みは、普通の痛みだった。鋭く、局所的で、不快だが我慢できる。


三秒——五秒——


引っかかりが来た。


記憶が動いた。


「——ッ」


俺は声を飲み込んだ。


流れ込んだのは「俺の記憶」ではなかった。


俺が吸収した残響の記憶だ。


墓地の骨壺の記憶。旧文明語で書かれた何か。廃区の死者たちの日常。ベルノの路地で死んだ誰かの恐怖。


それが一気に表面に浮かんだ。


普段は沈んでいる。奥底で静かにしている。


今は全部が浮いている。


同時に。


「集中しなさい」と婆さんの声が聞こえた。「私の指を見なさい。今ここで動いているものを見なさい」


見た。


細い指。小さな針。黒いインク。


集中した。


記憶が、少しずつ、沈んでいった。


完全には沈まなかったが——押し流されなかった。


「よし」と婆さんが言った。「終わった」


針が離れた。


俺は長く息を吐いた。


「どうだった」とミナが心配そうに聞いた。


「……色々、出てきた。でも押さえた」


「一人で?」


「婆さんの声が助けになった」


「私が声をかけたのは技術でも魔法でもない」と婆さんは言った。「ただ、今に引き戻す言葉をかけただけだ。あなたがそれを使えた。それはあなた自身の力だ」


俺は手首の刻印を見た。ミナのものと同じ紋様が浮かんでいる。


「代金は?」と俺は聞いた。


「カシムとの口座で処理する」と婆さんは言った。「それより一つ、聞かせなさい」


「何を」


「あなたは自分が誰だか知らないと言った」


「言っていないが、分かるのか」


「目を見れば分かる、と言った。ずっと昔、同じ目をした人間に会ったことがあると言った」


「聞いた」


婆さんが俺を見た。


長く。静かに。


「その人間は——世界を壊そうとしていた」と彼女は言った。「でも最後に、やめた。代わりに別のことをした。それが何だったのか——私には分からなかった。ただその人間は、何かを『残した』と言っていた。千年後に使われるために」


「……それが誰かは」


「あなたが自分で思い出すことだ」と婆さんは言った。「私が言えることはここまでだ」


「なぜ言えない」


「言えないのではなく——言っても、今のあなたには意味がない。体験しないと分からないことがある。準備ができていない段階で答えを与えても、壊れるだけだ」


彼女は道具を片付け始めた。


「行きなさい」と婆さんは言った。「霧縁の丘には気をつけなさい。白環教の施設に最近、《読取士》が入った」


「読取士?」


「残響に反応するものを探知する人間だ。完全な探知ではないが、残響が濃い人間——あなたのような——は感知されやすい」


「それは危険情報だな」とミナが言った。「なんで教えてくれる?」


婆さんは振り向かずに答えた。


「カシムの客だから。それだけ」


俺は立ち上がって、扉に向かった。


扉を出る直前、振り返った。


婆さんは既に次の作業を始めていた。細い指が、白い紙の上を動いている。まるで何かを縫い合わせるように。


「名前を聞いてもいいか」と俺は言った。


「必要ない」と彼女は答えた。「あなたはもう知っている」


「知っていない」


「今は知らない。でもそのうち知る」


それだけ言って、彼女は喋るのをやめた。


俺は扉を出た。


ベルノの路地の薄暗さが、工房の薄暗さより明るく感じた。


「どう思う?」とミナが小声で聞いた。


「あの人は千年前から生きているわけじゃない」と俺は言った。「年齢は八十か九十くらいだ。でも——その人間の記憶を持っている可能性がある」


「残響を吸収した?」


「吸収ではなく、受け取った。誰かから意図的に伝えられた」


「灰冠から?」


「分からない。でも、この街にそういう人間が一人いるということは——仕組まれている可能性がある」


「何が?」


「俺たちがここに来ることが」


ミナが立ち止まった。


「……カシムも?」


「カシムも、婆さんも、もしかしたら俺たちがここに来ることを事前に知っていた。いや——待っていた?」


「誰が待っていた」


「分からない。でも」と俺は言った。「不快ではない。誰かが俺のために何かを用意してくれている感覚は——悪くない」


「用意した人間が敵だったら?」


「それは調べれば分かる」


「楽観的ね」


「楽観じゃない」と俺は言った。「情報が足りない段階で悲観しても意味がない。集められる情報を集めてから判断する。それだけだ」


ミナが俺の横顔を見た。


少しの間、見ていた。


「行くぞ」と俺は言った。「渡橋船の手配をしないといけない」


「そうね」とミナは歩き始めた。


その横顔が、少しだけ——何かを決めたように見えた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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