第12話 鍵のない扉
その夜、船頭に連絡をつけて宿泊場所を確保した。
霧縁の丘から離れた小さな村に、旅人向けの小屋がある。船頭が知っていた。「ここらへんに逃げてきた人間が使う場所だ」と彼は言った。何も聞かなかった。
小屋に落ち着いて、俺たちは火を起こした。
「今夜やるか」とミナが聞いた。
「お前の意思に任せる」と俺は言った。
「私はやる。早い方がいい。時間が経てば経つほど——踏み出せなくなる」
「分かった」
俺たちは小屋の中で火を挟んで向き合った。
ミナが筒をテーブルに置いた。
「読み終わったら、何を見たか——全部話してくれる?」
「全部は約束できない」と俺は正直に言った。「残響の記憶を全部言語化できるわけじゃない。絵や感情で来るものは、言葉にならないことがある」
「でも、言えるだけ話してくれる?」
「ああ」
ミナが筒の封を外した。
細い金属の蓋が外れた。
中は空洞だ。見た目には何もない。
でも俺には分かった。
空気が、変わった。
封じられていた残響が、ゆっくりと漏れ出してくる。
霧みたいに——見えないが、確かに広がっている。
俺は手を差し入れた。
残響が手に触れた。
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記憶が来た。
最初は映像だった。
広い書斎。棚が四方に並んで、本と巻き物が詰め込まれている。机の上に地図が広げられていて、赤インクで印がつけられている。
男が座っている。
四十代か五十代。髪は黒だが、こめかみに白いものが混じっている。顔は——ミナに少し似ていた。目の形が。
ドヴァ・ヴォーン・ヴァルカ。
彼は書き物をしていた。速い手つきで、何かを書き記している。
焦っていた。
残響から伝わってくる感情の色は、恐怖ではなく——「間に合わせなければ」という切迫感だ。
書き物が完成したとき、彼は立ち上がった。
別の紙を取り出した。
小さな紙。子供向けの、絵入りの便箋みたいなものだ。
それに何かを書き始めた。
短い文章だ。
読めた。
旧文明語ではなく、エルグレイア語で書かれていた。
——娘へ。父さんは少し遠いところへ行く。でもお前の知っていることは本物だ。青い空は信じていい。世界の嘘を信じるな。
それだけだった。
送ることができたかどうか——記憶は知らない。
---
次の映像が来た。
処刑台だ。
石の台座。俺たちが今日見た、あの苔むした石の台座。
二十年前の姿。
ドヴァが立っている。手を縛られている。周囲に白鎧の兵士が立っている。
空は青かった。
白環教の天候制御で晴れにされた空が、皮肉なほど青かった。
彼は空を見ていなかった。
群衆の中を、探していた。
見つけた。
小さな人影。黒い髪の、小さな女の子。
ミナだ。
七歳のミナが、群衆の端で、父を見ていた。
誰かに連れてこられていた——ヴァルカ家の使用人か、隣人か。子供を処刑に連れてくるべきではなかった。でもミナは来ていた。
二人の目が合った。
残響から伝わってくる感情が——
俺は少し、苦しかった。
怒りでも怨嗟でもなかった。
ドヴァ・ヴォーン・ヴァルカが処刑台に立ちながら感じていた感情は——
愛しさだった。
ただそれだけだった。
娘の顔を見て、それだけを感じていた。
恐怖はあったはずだ。怒りもあったはずだ。でも残響として残った、最後の最後に一番強かった感情は——ミナへの愛しさだった。
俺は手を引いた。
残響が離れた。
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目を開けると、ミナが俺を見ていた。
「どうだった」と彼女は言った。声を整えていた。
「最初は書斎にいた」と俺は言った。「何かを書いていた。急いでいた」
「研究か?」
「それと——もう一枚、別の紙に短い文章を書いた。宛先は娘だった」
ミナが目を細めた。
「……何と書いていた」
「青い空は信じていい。世界の嘘を信じるな。——そういう内容だった」
ミナが息を飲んだ。
しばらく、何も言わなかった。
火が揺れていた。
「送ってくれたかどうかは分からなかった」と俺は続けた。「でも書いた。それは確かだ」
「……届かなかった」とミナは言った。「そういう手紙は来なかった。父が処刑されたあと、私はヴァルカ家から追い出されて、一人になった。手紙は来なかった」
「届けようとしたけど、できなかったのかもしれない」
「そう、ね」
「それと——処刑台の記憶も見た」
ミナが、少しだけ緊張した。
「言う?」と俺は聞いた。
「言って」
「お父さんは、最後——群衆の中にいたお前を見つけた。お前を見て」
「何を感じた」
「愛しかった」と俺は言った。「他に何もなかった。怖くも怒ってもいなかった。ただお前を見て、愛しかった。それだけだった」
沈黙が来た。
長い沈黙だった。
火が一度、大きく揺れた。
ミナの目から、何かが——
こぼれた。
一粒だけ。
彼女はすぐに手で拭いた。
「……私は」と彼女は言った。「あの日、怖かった。なんで父があんな場所に立っているか分からなかった。群衆が怖かった。でも目が合ったとき——父が笑った。にこっと笑った。怖くない笑顔で。だから私は泣かなかった。怖くないんだと思って、泣かなかった」
「お父さんが笑った理由が分かったな」と俺は言った。
「……うん」
「泣かせてよかったと思う」
「何が」
「今、泣かなくていいよとは言わない。それより——泣いてよかったと思う。お前が涙を止めてきた理由が、少し分かった気がする。でも今は止めなくていい」
ミナが俺を見た。
「……変なことを言う人ね」
「そうか」
「でも」と彼女は言って、もう一度手で目を拭った。「嫌じゃない」
俺は火を見た。
「残響の中に、アーカイブの鍵はあったのか」とミナが聞いた。
「あった」と俺は言った。「お父さんが処刑直前、何かを心の中で繰り返していた。言語ではなく、感情のパターンで——でもそれが鍵になる」
「開けられる?」
「試さないと分からないが——たぶん」
「よかった」とミナは言った。「じゃあ次はアーカイブへ行く。それが目的だったから」
「ああ」
「……レイン」
「何だ」
「私、あなたに少し——依存しているかもしれない」
「今気づいたのか」
「うん」
「俺もお前に依存しているから、おあいこだ」
ミナが少し驚いた顔をした。
「あなたが依存するの?」
「する。生きている人間の声を聞いていないと、死者の声がうるさくなる。お前の声は、それを静かにしてくれる」
「……私の声が?」
「さっき船の上で言った。生者の声の方が強い、と」
ミナが少しの間、黙った。
「それは」と彼女は言った。「少し、困る」
「なぜ」
「そんな重要なことを自然に言われると——どう返したらいいか分からない」
「返さなくていい」と俺は言った。「ただ、声を出し続けてくれれば」
ミナが俺を見た。
長く見て、それからそっと目を逸らした。
火が揺れていた。
小屋の外で、風が鳴っていた。
その夜は、二人ともあまり眠れなかったが、それは不快な夜ではなかった。
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