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花野池累の新作(下)


「俺はこの世に生まれてこないほうがよかったんだ……」


 こたつの中で、すみっこぐらしの大きなぬいぐるみを握りしめて泣く。ぎゅにゃりと形を歪ませた40センチほどのぬいぐるみは、誕生日プレゼントだと言ってももとせが買ってきてくれたものだった。


「そんなに上手くいかなかったんだ。大丈夫?」

「……本当、申し訳なかった……。お金全部返したけど、凄い怒ってて」

「え、全部返しちゃったの? 赤字ってことだろ。よくないよ、そういうの」

「でも、そうしないといけないんじゃないかってぐらい罵倒されたから……。頭悪いのは本当だし……」


 最初こそ、毅然とした対応を取ろうとした正義だったが、二時間にも及ぶ言葉責めに耐えかねて五万円まるまる返金してしまった。

 頭が悪いから先生を怒らせたんだ。僕が退職したら君の無知のせいだからなと言われたら、正義としてはたまらない。平身低頭して謝り倒すしかなかった。


「いやいや、あっちが悪いだろ。代わりに連絡させといて、失敗したら責めるって。リスクの説明はきちんとしたんだろ?」

「DMで自動的に送信するように設定してる。でも、対人では緊張しすぎて言ってなかった。すぐに連絡しようとしちゃった……」

「ほら、正義は悪くない。ご飯作ったから、こたつ出ておいでよ。お前の好きなオムライスだよ」

「……もととせは凄いイケメンだ」


 こたつの中から這い出ると、湯気のたったオムライスが用意されていた。ふわふわの卵とデミグラスソースが食欲を駆り立てる。

 いただきますと手を合わせて、ひとすくい。ぷるりと震える卵と綺麗なオレンジ色のチキンライスを口の中に頬張る。口いっぱいに卵のクリーミーさとケチャップライスの酸味が広がる。

 思えば、編集者に会うということで気構えて今日は何食べていなかった。ぐうと腹の虫が鳴る。飢えていたことに、今気がついた。


「それにしても、なんで編集者はその作家とやりとりしたくなかったんだろうな。いい大人なんだから、好き嫌いで判断するなよって感じなんだけど」

「インパクトが強い作家だったからかな。最初に、他社で書いた小説のこと聞かれたし……」

「そりゃ凄いけど、案外編集者の方が難ありかもよ。……ん。味少し濃くないか?」


 ももとせが自分の分のオムライスを食べながら言った。


「美味しい。ももとせは料理が上手で憧れる。いつも作ってもらって悪い」

「いーよ。インスタとかツイッターとかにあげるし。料理の動画と写真ってウケいいからね」

「そっか。凄いな。他人の動画や写真見て腹が膨れるのか?」

「俺もファン心理はよく分かんないけど。ま、反応くれたら作り甲斐あるじゃん」

「……その作家もそんな理由なのかもな。反応が欲しかった、とか」

「今時エゴサぐらいいくらでも出来るけどな。でも、まあ、身近な人からの評価が気になる奴だったのかも」


 ももとせは卵とライスとデミグラスソースをぐちゃぐちゃに混ぜて食べた。出来上がりの見た目はこだわるのに、食べるとなると見境なしになってしまうのは何故なのだろう。


「切り替えていこうぜ。そうだ、明日飲みに行こう。劇場終わりに、二人でさ」

「明後日も仕事あるだろ。駄目だよ」

「なら中休みがある月曜は? 飲んで忘れるに限るよ、仕事のことは」


 肩を掴まれ、軽く揺すられる。ももとせは人との距離が近い。スキンシップも過激だ。正義には近過ぎる距離だが、拒絶したいほど煩わしいものではない。

 ももとせの太腿が正義の足に触れる。確かめるように足を倒すと、ふふっと笑みが返ってきた。


「正義の部屋って居心地良くてずっといたくなるな。今日はここで寝たい気分だ」

「いいけど、仕事の応対以外ずっとソシャゲしてるぞ」

「いいよ。俺も蜜にお返事しなくちゃ」


 蜜と言うのは業界の用語だ。貢ぐの隠語だ。つまり貢ぐ女のことだ。ファンのなかには、金持ちの娘や女社長がいる。彼女達は水を注ぐように金を注ぐ。

 ほとんどが貢いだ先を期待してだ。利益の先には対価が求められる。ももとせもまた、何人かの蜜達と関係を持っているようだった。

 食べ終わった食器を洗い終え、ソシャゲの周回タイムを行う。だが、すぐにそれは邪魔された。

 ポップがDMのメッセージが追加されたことを知らせてきた。そのまま開くと、木野草から連絡が入っていた。


『先生から連絡がありパーティに参加して下さるそうです』


 急なことにスマホを取り落としてしまう。

 どういう心境の変化だろうか。パーティの話題が出た瞬間切ったのに。そもそも、木野草の心境の変化にも驚きだ。別れる間際までずっと正義に怒りを向けてきたというのに、澄ました敬語に戻っている。

 拾い上げて、画面を再び覗き込むと、メッセージが増えていた。


『私達のことが先生にばれてしまいました。先生は貴方に会いたいそうです』

『パーティへの招待状をお送りします。かならず来て下さい』


「うわっ。変わり身すごいな」


 横から覗き込んできたももとせが呆れたように笑った。


「関わるとろくなことないよ。断った方がいい。そもそも、正義は電話代行サービスをやってるんだ。直接会うのは業務外だろ」

「……そうだな。仕事でもないみたいだし。いく理由がないよな」


 ピコンと音が鳴った。既読はついているのに、返事をしない正義に焦れたのだろう。


『来なければ、業者を雇って貴方の悪評を広めます』

『先生の新作が取れなければ私は終わりです』

『よろしくお願いします』


 むかっ腹が立ったが、評判が落ちて商売を潰されるのは痛かった。アカウントを潰して、また立て直すことも出来たが、一から集客し直さなければならないのは面倒だ。


『お金の方はいくらいただけますか』


 正義はそう手早く打ち込んだ。

 返信はとても早かった。


『当日、先生がお支払いになります。言い値で結構だそうです』


 結局、正義はパーティに行くことに決めた。

 言い値で買うという作家先生がどれほど出してくれるかが気になったのもそうだが、ここまで来たら珍妙なこの事態を楽しむのもありだろうと思ったのだ。

 その日、正義はいつもは飲まないアルコール度数3パーセントのチューハイを浴びるほど飲み干した。軽い目眩が襲って、目を覚ました時には朝になっていた。



 正義が見た花野池累の写真は顔から髪まで全部が白かった。

 瞳は真っ赤。まるで白兎だった。ヴィジュアル系にたまにいる格好だったので、正義はまるで気にしなかった。累の顔が控えめに言っても綺麗だったというのが彼の口から批判を失わせた。ロシア系の血をひいているのか彫りが深く、唇が分厚い顔は正義の好む美しい顔だった。

 その美しい顔と色はパーティ会場でかなり目立っていた。

 ホテルの大広間を貸し切り開かれたパーティは見る限りサラリーマン風の男達が慣れた手つきで名刺交換を行なっている。

 累は次々と声をかけられていた。売れっ子先生だ。繋ぎを持っておきたい出版社が後を絶たないのだろう。挨拶の列が出来ていた。

 カチコチに固まりながら、ここはよく結婚披露宴で使われているよなあと目を泳がせる。用がある累は対応中で話しかける隙さえない。

 知り合いもいないので、緊張は積み重なるばかりだ。正義はもじもじと手を触った。

 豪華なパーティと正義は対義語のようなものだ。小さい頃は母に連れられてきたこともあったが正義の成績が芳しくなっていくと連れて来てはもらえなくなっていった。

 教育ママとしてテレビで持ち上げられていた彼女にとって汚点だったからだ。男四人兄弟で正義だけが灘中に受からなかったし、東大に通えなかった。

 きちんとした定職につかない正義がこんなパーティ会場に来ていると知ったら、彼女はどんな奇跡が息子に起こったのかと疑問に思うに違いない。


「あの」

「は、はい」


 突然声をかけられ、ビクついて後ろを振り返る。

 骨と皮だけの女性がじっと正義を見つめていた。


「花野池先生にお声をかけないんですか?」

「へ? あ、ああ。ええ。少し用事があるだけなので」


 正義の格好は木野草に会った時と同じイタリア製のスーツだ。この格好で熱心に累を見つめていれば、人の波に入っていけない気弱な編集者に見えるのかもしれなかった。


「そうですか、すみません」


 女性は何度もぺこぺこと頭を下げて消えていった。出版社や広告代理店の人間のように小綺麗な格好ではなかったので小説家の一人だったのかもしれない。

 彼女と別れて、数十分一人で立食を楽しんだ。隣で永遠にフォワグラを食べ続ける女子高校生がいたが恐ろしくて声はかけれなかった。パーティは魔境過ぎる。

 結局、累に声をかける勇気が出たのはパーティに来て、一時間が経った頃だった。

 列に並んで、累の御目通りを待つ。王族や貴族のようだとちらりと思った。


「僕の小説が欲しいなら、今ネットで公開しているやつどれでも選んで書籍化していいよ。契約書先に書いて送ってきた会社と契約するから、さっさと帰って上と相談したら?」

「あ、あの。俺、編集者じゃないです。で、電話しましたよね。木野草さんの名前で」

「……はあ。やっと来た。待ってたよ。いい加減、この文言も言い飽きてきた頃だったんだよね。ちょうどいい、行くよ」

「は、はい? 行くって、どこに?」

「ここじゃないところ。こんなところ、騒がしくてたまんないでしょ」


 そう言うなり、累は後ろに並ぶ編集者達を意にも介さずパーティ会場を後にする。彼らに睨まれながら、後ろをついていくのが精一杯だった。


 エレベーターは三十階で止まった。さっさと降りる累を見失わないようについて回る。角部屋の3001につくとカードキーを指して中に入ってしまった。仰天しながらなかに入る。

 綺麗に整えられたシングルの部屋だった。キャリーバックがないので、来た時に押入れのなかに直してしまったのだろう。貴重なタイプらしい。

 シャワールームとバスタブが別になっているタイプの浴室。ベットはキングサイズだった。

 ネクタイを解いて、累は紙の束を正義に投げ渡してきた。


「あ、あの。花野池先生? こ、これは?」

「君に教えた物語を書き直したもの。読んで。トイレとかは自由に使っていい。冷蔵庫のものは好きに摂取してくれて構わないし、眠くなったら、ベット使っていい。とりあえず、読んで」

「は、はあ……。分かりました」


 近くのソファーに座って、投げ渡された紙の束の長さを見る。かなり分厚い。これを今から読むのかと思うと少し憂鬱だ。

『あの日、僕は駅のホームで』というタイトルだった。面白くない物語だったらどうしよう。そう思いながら紙を捲る。


 結論から言ってしまえば、とても面白かった。四時間をずっと通しで文章を追っていた。

 主人公の僕の一人称で始まっていた。彼は幼い妹のために物語を紡ぐストーリーテラー。

 彼女は全盲で、彼が読み上げる物語だけが心の支えだった。けれど、僕は高校受験を控える中学生で、いつまでも妹のために時間を割いてはいられなくなる。彼はそれでも、しがみつくように小説を書いた。

 物語はそんな彼は高校受験をし終わった日の夜に始まる。疲れた彼がホームのイスに腰掛けて電車を待っていると、ホームに飛び込む人影が見えた。

 彼は自殺しようとした朋也という高校生を助けてしまうのだ。

 それが縁で朋也と交流を持つようになった僕。妹も朋也に懐き、順風満帆な生活を送るようになる。

 ところで、朋也は馬鹿だ。僕より一歳年上の彼はヤンキーが集まる底辺の高校で赤点ばかり叩き出している。文章を読めばすぐに頭が痛くなるし、勉強も出来ない。家庭環境も最悪だ。水商売の母は朋也を虐待し続けた。父親は顔すら知らないらしい。

 悪辣な環境で育ったが、朋也の心は善良だった。

 飛び込み自殺をしたのだって朋也が望んだことではなかった。

 不良高校の友達に罪をなすりつけられて、死んでお詫びしろと言われたから飛び込んだ。朋也はお人好しで、考えなしだった。だが、だからこそ愛おしいキャラクターだった。


 体をくいっと上へ伸ばす。ずっと握っていたせいで紙がよれよれになっていた。


 物語の転換点は朋也の就職だった。彼は妹の影響もあり、障害者施設の介護士として勤務するようになる。日々窶れていく朋也を見ながらも僕は大学受験の準備でそれどころではなくなる。

 大学受験が成功して自動車免許を取っている最中、朋也が僕の家に乗り込んできて、妹を殺した。泣きながら滅多刺しにした。血塗れの朋也を目の前にして僕は怖気付く。そして朋也の脅すがまま、障害者施設へ運転することになった。それから施設で同じように、朋也は利用者を虐殺していった。その凶行を止めるために僕は朋也を殺す。

 物語は僕が精神病院で、朋也の日記を見るところで終わる。利用者達とその家族の間で朋也は苦しんでいたこと。救いを求めても、誰も助けてくれなかったこと。ネットで相談したら、利用者を解放しようと誘われたことが書かれていた。偏執的な障害者を差別する集団だった。思想に絡めとられ、朋也は障害者達を救うために殺す決意をする。

 僕は目を瞑って、朋也と始めて出会ったホームを思い出す。電車が近付いて来ている。最期が分かっていたら助けるだろうか? その疑問で物語は終わる。


「読み終わった?」


 Surfaceと向き合っていた累が顔を上げて、首を傾げる。


「すっごい、面白かったです。胸にぐって来ました。とくに、妹と食事しているシーンが俺は好きです。最期殺したとしても確かに、幸せな時があったんだなあって思えて」

「……そう」

「でも、最初聞いた話全然違いましたよね……?」


 真っ赤な瞳が正義を見つめた。カラコンなのだろうか? それぐらい綺麗に真っ赤だ。


「そりゃあ、君への嫌がらせのために書き換えたからね」


 編集者の代わりになったことがそれほど許せないのだろう。納得だった。正義も相手が見ず知らずの人間だと気色悪くて、嫌味の一つも言いたくなる。


「君が死で終わる物語は救いがないから嫌だと言ったから、死で終わる関係の物語を書いた。君への当てつけで書いたつもりなのに、喜ばれたら楽しくない」

「救いはないんですか? 僕は最後、それでも助けちゃうだろうなって思ったんですけど」


 僕はそんな性格だろう。これはある意味正義の祈りだ。そうあって欲しいと、物語の登場人物に願っている。

 だが、累は面白くなさそうに舌打ちした。


「はあ? そんなわけない。僕は朋也のこと助けない。電車にひき潰されてるミンチになっていく姿を見て安心するに決まってるでしょ」

「じゃあ、最後までそう書いて下さいよ」

「やだ。それだと最後が美しくない」

「書いてないものは読者の想像でカバーしてもいいんじゃないですか?」

「だめ。僕は認めない」


 ムキになって言い返す。作品の人物の解釈が違うと抗議する人種らしい。思ったより大変な性格だ。それなのに、感想を求めるのか?

 認識が合致しない編集者は地獄だろうなと他人事のように思う。


「はあー。まあいいけどね。これは君用に書いたものだから、このあとは廃棄するし」

「え!? 本になるんじゃないんですか?」

「こんな重たい本誰が読むの? 君、この本買いたいと思う?」


 一拍考えて首を振る。残念ながら、正義は本を読まない。なので、累がどんな本を出しても読まないだろう。


「需要がない文章はゴミクズだよ。出版社だって、出そうとは思わない」

「じゃあネットに公開する、とか」

「僕は既にネット投稿をやってる。正直、供給過多過ぎて、読者がついて来てないレベルだよ。毎日更新を6作で同時に行ってる」


 精力的という言葉を越えている。毎日どれぐらいの文章を書いているのだろうか。きっと正義が一日中ずっとキーボードに張り付いて小説を書いても、まだ足りないだろう。

 しかも、連載する作品それなりに人気なようだ。さきほど編集者達にネットで公開しているやつを本にしていいと言っていた。それなりに認められているものばかりなのだろう。


「めちゃくちゃ文章書くんですね……。いっそのこと、Kindleで売りませんか。99円ぐらいで」

「そ、……それは考えたこともなかった」

「そうなんですか? やりましょうよ。結構簡単ですよ」

「そう、だね。検討してみる」

「これ、めちゃくちゃ面白いんですもん。性癖に刺さる人いると思います。なんだかんだで普段本読まない俺も全部読んじゃいましたし」

「ど、どうも」


 いっそ、編集者など付けずに自費出版だけで生活した方が累は合っているのではないだろうか。売れる、売れないを考えて作家が物語を紡のは切ない。もちろん、出版社とタッグを組むのもいいとは思うが、売れないからという理由で立ち消えてしまう物語は悲しい。


「あとゲームにしません? 立ち絵とか描いてもらって。無料配布のフリゲでこんなどでかい感情ぶつけられたら俺、楽しいです」

「は……? えっと話についていけないんだけど……?」

「読まれないとか言わずもっと大きなフィールドで遊びましょうよ。文字はどんな物語でも必要ですから。発信し続ける限り絶対誰かの琴線に触れます。『あの日、僕は駅のホームで』だったら、分岐とか作りませんか? 俺、先生が言う救いのない物語の先も少し覗いてみたいですし。逆に幸せなエンドも見たいです。腕の見せ所ですよ」


 絶対楽しいです。絶対やりましょう。正義はずっと読了後の興奮冷めやらないままそう訴えていた。

 累は熱心に語る正義に押され気味で、後半はほとんど、頷くだけの人形になっていた。

 喋りすぎて疲れたので、累に声をかけ、外に出る。熱波がとても心地よいと思えた。

 家に戻るとももとせがこたつで微睡んでいた。完全に背中を丸めた猫だ。起こさないようにそろりそろりと抜き足で歩く。

 ばっと目が開いた。ひえっと叫びながら、スーツを脱ぐ。かなり皺になっているので軽く手で伸ばした。パーカーに着替えたのち、こたつのなかに潜り込む。


「遅かったな。どうだった?」

「凄いイケメンな作家先生だった。あれを眼福って言うのかも知れないな」

「よかったねー、イケメンが見れて。ところで、きちんとお金貰って来たの?」

「あ……」


 読んだ興奮で、何もかもが頭から抜け落ちていた。今更、自分が何をしに慣れないパーティに出向いたのか思い出してしまった。


「ま、まあいいんだよ。凄いもの見せてもらったし」

「凄いもの?」

「花野池累の未発表作品。すげぇ興奮した。後味が最悪で、最高だった。最初に戻ってもう一度読みたくなる」


 ももとせは軽く目を見張った。


「正義って本読む方だっけ?」

「全然。でも、すらすら読めたよ。文章が上手いってああいう文のことを言うんだろうな」

「いいなあ……。俺のブログも読んでよ。教えてやるから」

「無理。アプリゲーやらなきゃだし」

「なんだよ、俺よりfgoのほうがいいわけ? グラブルがそんなに楽しいの? パズドラしたいのか?!」

「パズドラはインストしてない」


 花野池累は強烈だった。けれど、もう会うことはないだろう。煌びやかなホテルの最上階も、愉快な背広を着たセールスマン達の囁き声も、その中心で一心に視線を浴びる累も、それに無言でキャビアを食べ続ける女子高校生も、一夜の夢のことだ。

 今後の正義の怠惰な生活には全く関係ない。今回はミラクルが起きて、非日常に触っただけだ。


「なあ、ももとせはキャビアを食ったことある?」

「あるけど、まずいぞ、あれ」

「そっか。だよな」


 DMで幸村からまた辞退の代行をして欲しいと依頼があった。素早く、依頼を承諾するメールを返す。正義の日常が戻ってきた。その日暮らしの退屈で、不安定な生活。

 そのうち、花野池累の小説を読んでみようと思う。ネットに上がっているものならば、買って気に入らなくても損をすることはない。

 そうやって日々を浪費して、最期の時を迎えたい。どうせ、ろくな死に方はしないだろうから。



 幸村はブラック企業を嗅ぎとる能力が高い。

 今後の就活生の未来のためと称して、正義に辞退の際、録音させるようになった。なんでも知り合いに売り付けるらしい。

 転職する際、企業の情報はどんなものでも価値がある。つまり、担当者とのやりとりもまた金になるのだ。担当者の声って法律上どうなの? という疑問はあるが、あくまで大学のゼミでうちうちに商売するようだ。クローズドな環境だからこそ出来るグレーゾーンだ。

 ノートのコピーを金にする話はよく聞くが、ブラック企業かどうか証拠品とともに情報として売りに出す。金に対する嗅覚が尋常ではない。大成する器だ。


「はい、失礼いたします」


 通算三回目の幸村になるのは、正直楽しかった。今回は特に、人事の人間がよく覚えていて「声が変わった」と声をかけてきたので誤魔化すのに苦労した。

 電話越しに声が違うと分かる人間の聴覚は凄い。おどおどと言い訳を考えるときにアドレナリンが出たので、頭がすっきりして、疲労感がない。

 いつものように幸村にDMを送る。圧縮した音源も一緒だ。

 そのあと、二、三件同じような仕事をした。終わったあとこたつでごろごろしていると、ピンポンが鳴った。Amazonで何か頼んでいただろうかと首を傾げながら、扉を開ける。


「やあこんにちは、入らせてもらうよ」


 マスクにグラサン。深くかぶったキャップに、夏だとは思えないほどの厚着をした男がするりと扉から入ってくる。


「暑い! 人が出歩いていい季候じゃないよね、全く」


 部屋に入るなり、マスクやグラサンを外し、キャップを取った。下からは白髪が姿をあらわす。厚手のセーターを捲る。すると、不自然なほどわ真っ白な肌が現れた。


「久しぶりに外を出歩いてくらくらするよ。つか、この部屋寒くない? 冷房18度って、どんだけ? 紅茶はないの? アールグレイが飲みたいんだけど」

「……花野池先生ですか?」


 瞼を何回も落として、確認する。胡乱げな表情で累は正義を見つめた。


「なに。僕のこと、分からなかったの?」

「すいません。一度しか会ったことなかったので……」


 累はむくれて、口を尖らせる。


「自分で言うのも馬鹿馬鹿しいけれど、なかなかに特異な容姿をしているのに?」

「え? ……ああ、確かに、ホストかヴィジュアル系かって髪色してますよね。染めてるんですか? あ、紅茶ないです。水でいいですか?」


 累の答えを聞く前に、正義はコップになみなみと水道水を流し込んだ。累は寒さに耐えられなくなったのか、こたつのなかに潜り込む。


「……染めてない、地毛だ。ねえ、もしかして、水道水飲めって言ってるの?」

「水美味しいですよ。少しカルキ臭いですけど」

「あっそ!」


 一気にコップを傾け、グビグビと飲み干す。荒々しくコップを置くと、累は口元を拭った。


「花野池先生に住所教えましたっけ?」

「金を払えばなんでもやってくれる人間、存外多いよ」

「え? 俺のこと調べたってことですか? 少し気持ち悪いです。プライバシーって知ってます?」

「うるさいな! 君が気がついたら帰っていたのが悪いんだろ?!」

「だって終電ありましたし」


 何をしにわざわざ正義のもとにきたのだろう。連絡ならば、木野草を介してやればよかったのに。


「……まあ、いい。少し話をしようと思ってここまで来たんだ。君に発破をかけられたから。後日談ぐらい聞きたいだろう?」

「発破ですか? 俺、何か先生に言いましたっけ……?」

「Kindle作れやフリゲ作れだ好き放題言っただろ。忘れたとは言わせないぞ!」


 興奮のままに何か言っていたことは覚えているが、正直自分が言った言葉をまともに覚えてはいない。


「こほん。君は忘れてしまっているようだが、お生憎様。僕はきちんと記憶しているんだ。それでKindleで売ってみたんだが、なんなんだ、あれ。ロイヤリティの計算めんどくさすぎる! データ入稿も最悪だ。表紙作りが一番時間とられたし、ふざけているの?」

「は、はあ……。大変なんですね」

「それに、フリゲを作るのもあんなに大変だとはきいていなかった! 僕の大切な六時間がキャラクターを動かすのだけでドブに消えたんだぞ!? その時間があれば、短編一つ書けるんだ」


 それを言われても……と正義は困惑した。正義だってフリーゲームを作ったことはないのだ。


「というか、先生、やってみたんですね」

「あ、当たり前だ。せっかく君が言ってくれたのだから……」

「その場のノリだったのに」


 口をへの字にして、累は正義を睨みつける。


「別に!? 僕もやってみたかったからだけどね!? 君に言われて発破をかけられただけだ!」


 白い顔が真っ赤になっている。

 目の前の先生は言われたことを真面目に捉えてしまう性格なのかもしれない。見せてくれた小説だって、正義の言葉で展開をガラリと変えてきた。皮肉屋だが、きちんと話を聞いて、自分のなかで咀嚼する。律儀な性格なのかもしれない。


「Kindle買いますよ。花野池累で検索したら出てきますか?」

「う、うん……。書作含め山ほど出てるけど、一番安いやつ……99円」

「おお、ほんとだ。フリゲは? 公開しました?」

「まだだけど。弄くり回すのが下手くそすぎてフリゲ作れるって人にお願いした。お金払うからって」

「楽しみですね! きちんと分岐あります?」

「あるけど……。というか正直、筆がのりすぎてSFルートまで作った」


 あの物語のSFルートってとても愉快そうでは?

 ふふっと笑ってしまう。考えただけでも意味が分からなくてワクワクする。


「出来たら教えて下さい。あ、ラインやってます? ID交換しときましょうよ」

「えっ……あ、うん」

「それで、進捗を伝えにここまで? 木野草さんに電話番号聞けばよかったのでは」

「木野草は、希望部署に回してもらった」


 希望部署? と目をパチパチ動かす。


「出版社には希望部署に人員を送り込まない悪しき文化があるんだ。彼は、ファンション雑誌希望。文芸は興味もない。興味のないのに嫌々やられるとこっちも萎える」

「つまり、木野草さんのために部署を変えて貰ったってことですか」

「いい風に言わないで。僕が困っていたからだ。……ろくに僕の小説を読んでくれてなかったし」

「いい風に言ってないですよ。邪魔だったから変えたんだなあって流石に分かります」


 喉が渇いたので、コップに水道水を注ぐ。コップを置くと、なぜか累は納得がいかないとばかりに顔を顰めている。


「君って、凄く変人だよね」

「先生の方が変人だと思いますよ。一度会っただけの奴の家に押しかけるの、押し売り以外聞いたことないですし」

「……あっそう」

「あっ、水ないですね、ついで来ますよ」

「いい。もう帰るから」


 すっと立ち上がった累は来た時と同じように完全防備をしていく。すっかり不審者な姿になった。


「また、来てくれますか?」


 正義は何気なくそう尋ねた。


「……来ていいの?」

「別に構いませんよ。先生の部屋の方が広いとは思いますけど」

「じゃあ、紅茶とミネラルウォーター持ってくる」


 うきうきとしながら、累は帰っていった。

 その一ヶ月後、『あの日、僕は駅のホームで』というタイトルのフリーゲームが配信された。ゲームは瞬く間にカルト的な人気が出た。正義もクリアした。号泣した。SFルートが尊すぎた。宇宙人の手によって蘇った妹を再び殺すために脱走する朋也の姿にこれこれ! と唸った。そして、僕とタッグを組むのだ。王道の展開が胸を熱くさせた。

 正義の無味無臭の日々は変わらない。けれど、ゲームで泣いているときはその退屈を忘れることが出来た。

 累に長文の感想を送る。

 返ってきたのは、今から電話してもいい? だった。


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