第35話 マッパーにできること
最後の、一押し。
俺に、何ができるんだろう。武器なんて持ってない。モンスター相手はさておいて、喧嘩も弱い。軍隊を力で押し返すなんて、できっこない。
俺にあるのは、地図だけだ。
……地図だけ。
その地図を——"今この瞬間"の深層を読めるのは、世界で、俺だけらしい。軍は、もはや地図なしにこの先へ踏み込もうとしてる。次にどの壁が動くのかも、分からないまま。
だったら。その差を、見せてやればいい。
俺はぽん酢さんを見た。ぽん酢さんも俺を見て——小さく、頷いた。
行け、と。
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俺はマイクに向き直った。
ワンモアさんが、軍の眼前でカメラを構えたまま、片手を挙げた。あっちの機材のスピーカーを、こっちの音声に繋いだらしい。俺の声が、あの坑道の底にも流れる。……兵たちにも、届く。
ノルドの兵の、ずらりと並んだ映像に。何十万の視聴者の、向こうに。
大きく息を吸う。
「えーと。……すみません。こういうの、ほんとに苦手なんですけど」
配信だというのに、いつものぼそぼそした素の情けない声になった。
「ノルドの、みなさん。侵攻、やめてもらえませんか」
〔名無し〕本人が直接言ってる
〔名無し〕軍に向かって……
〔ねむ〕がんばれ、がんばれ
「地図は、もう出しました。中層に通ずるだろう、ピット真下のエリア。あの辺り、変動はまだ緩やかな方ではありますが……。そこの深層は、一時間もあれば全部書き換わるんで。……"今"この瞬間を読めるのは、世界で俺だけです」
息を、継ぐ。ここからだ。
「信じられない、なら。……見ててください」
俺は、ワンモアさんの画面に意識を沈めた。変動の継ぎ目。崩れの癖。次に、どこがどう動くか。いつも埋めながら読んでる、あれ。それを声に出す。
「俺から見て、二列目の、左。三つ目の壁。……あと十秒くらいで、動きます。あなたたちの後ろの通路が——塞がる」
配信がしんと静まった。ワンモアさんのカメラが、その壁を映し続ける。
十、九、八。
自分の心臓の音が、やけに大きい。
みんなが息を詰めた。
……ぐにゃり。
壁が書き換わった。軍が入ってきただろう、後ろの通路。それが、ふさがって消えた。
俺の言った通りに。
〔名無し〕は
〔名無し〕予告通りに壁が動いた
〔名無し〕なんで分かるんだよ
〔名無し〕こわ
〔名無し〕声出た
〔通りすがり〕この人、ほんとに読めてる
「これ、深層がいつもやってることです。俺は何もしてません。観察して、ほんの少し変化の前触れを感知してるだけです」
息を継ぐ。
「今ふさがった通路も、次の変動でまた開きます。……でも、開くのは同じ場所じゃない。一時間ごとに、迷路そのものがそっくり組み変わるんで」
ノルドの兵の映像を、見る。
見えてないんだ。あの人たちには。壁が組み変わるたび、手元の地図が嘘になっていくことも。
その時、流れていくコメントの一角が、別の話でざわついた。
〔名無し〕【速報】ソルナ軍、ウロボロス接続のコモル旧坑道口を封鎖・展開
〔名無し〕は?もう軍動いてるやん
〔名無し〕中層に抜けられたら、そこはもうソルナ側だからな。出口を固めたわけだ
〔ねむ〕そろぼっちが埋めた場所に、軍が…
その速報が、視界の端をかすめた。……やっぱり、逃げ道は前にはない。残ってるのは、引き返す道だけだ。
俺はまっすぐ言った。
「だから……今のうちに、引いてください。あなた方がそこまでどう到達したかは分かりませんが……。今なら、次にどこが開くか読めます。引くなら、間に合う」
でも、と声を落とす。
「この先へ進むというなら……案内は当然しません。ソルナ側のウロボロス深層は、階層を巻き込んでの変動です。軍が層を跨いで散り散りになる。どうにか抜けた先の中層では、ソルナの軍が出口を固めてます。……進んでも、地獄です」
息を吸って、いちばん言いたくないことを言った。
「かといって、その場で止まっても、じわじわ詰むだけです。次にどこが開くか、あなたたちには読みきれないでしょう。待っても、自力じゃ出られません。"今"なら、俺が案内できます。引くなら、誰も死なせずに」
最後に、付け足した。
「攻める道だけは、案内しません。それだけは、しないって決めてるんで」
言いながら、分かっていた。これは、綺麗事だ。
出口の読みを盾にして、引かなきゃ帰れないぞと突きつけてる。地図を兵器にしないと決めてたのに。今の俺は、そのいちばんやりたくなかった場所の、すぐ手前に立ってる。
……それでも。誰も死なせずに、どいてもらうには。これしか、思いつかなかった。
「だから、これは脅しじゃなくて。……お願いです。引いてください。まだ、出口が読めるうちに」
言い切って、俺はただ待った。
これははったりじゃない。さっき、証明した。あとは、向こうが選ぶだけだ。
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配信に、重くて長い沈黙が流れた。
画面の中の、ノルドの軍に動揺が見えはじめる。
進むか。退くか。
俺はただ待った。心臓がうるさかった。
ワンモアさんのカメラが、隊列の先頭を映した。列のいちばん前。氷みたいに静かな、平らな横顔。ヴァルグだ。
その男の口が、動いた。ワンモアさんのカメラが、その低い声を拾う。
「……壁ひとつ言い当てたくらいでな。退く軍がどこにいる」
初めて聞く、敵の声だった。感情の乗らない、乾いた声。俺に向けてというより、ざわつく自分の兵を抑えるみたいな響きだった。
……そうだ。この人からすれば、まぐれの一発かもしれない。壁ひとつで、軍は動かない。
だったら、と思った。
「……もう一回、読みます。見ててください」
俺は、もう一度ワンモアさんの画面に、意識を沈めた。変動の継ぎ目。崩れの癖。あの列の、もっと先。
「その先の、太い柱みたいな壁。……あと十秒で、真っ二つに裂けます。道が、二本に分かれる。でも、どっちが本物かは——あなたたちには、分からない」
十、九、八。
ワンモアさんのカメラが、その壁を映し続ける。
……ぐにゃり。バキッ、バキバキッ……!
太い壁が、音を立てて裂けた。二本の道が、ぱっくり口を開ける。俺の言った通りに。もう、まぐれじゃない。
ヴァルグが、手元の地図に目を落とした。紙の古い地図。そこに描かれた道は、目の前の壁と、もう何ひとつ噛み合っていないだろう。自分の持つ地図が、たった今ただの紙切れになったのを、あの男も見ていた。
……あの古い地図は、たぶんこの男が、途中まで自分の目で変動を読んで描いたものだ。軍を、ここまで連れてくるために。たぶん、俺と同じことをして。ただ、この最奥だけは彼の目にも届かなかった。だから、軍はずっと手前で止まっていた。
再び、長い沈黙があった。
やがて、ヴァルグが、ゆっくりと顔を上げた。映像の向こう側から、俺をまっすぐ見る。値踏みするみたいに。
それから低く言った。
「……たいした目だ。惜しいな」
褒めるでも、恨むでもない。ただ、事実を確かめるみたいな声だった。
それから、ふっと声の温度が変わった。
「俺も、壁の声を聞くほうでな。……だが、あんたのようには聞こえん。ここまでが、俺の耳の限界だ」
棘のない声だった。同じものを見ようとして、あと一歩届かなかった。そういう響きだ。
男が背後を振り返った。ずらりと続く、自分の兵たちへ。
「地図は死んだ。この先は、もう俺たちには読めん。進めば変動に呑まれて、半分は還らんだろう。——撤退だ」
声を荒げもしなかった。情で退くんじゃない。勝てないから退く。ただそれだけの、冷たい計算の声だった。
その一言と同時。
ずらりと並んだ隊列の、いちばん後ろが、ゆっくりと向きを変えた。続いて、その前も。さらに前も。
軍が、退いていく。坑道の奥の、暗がりへ。
俺は約束を守ることにした。マイクごしに、読みを飛ばす。
「その角、次の変動で閉じます。……ひとつ手前を、右です」
返事はなかった。でも、隊列の頭が言った通りに折れた。
〔名無し〕引いた
〔名無し〕引いたぞ!!!
〔名無し〕うおおおおおおおお
〔だんちょー〕うおおおおおお
〔名無し〕は????
〔名無し〕やらせだったらそれはそれで大したもんだわ
〔名無し〕↑この期に及んでまだ疑うのか
〔名無し〕泣いてる
〔名無し〕鳥肌とまらん
〔名無し〕意味分からんけど涙出てきた
あとは、もう読めなかった。同じ叫びの壁が、ただ上から下へ、流れ続けていた。
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ぽん酢さんが、俺の肩を、ぽんと叩いた。
「……上出来だ。そろぼっち」
「……ぽん酢さんの、おかげです。ほとんど」
「ばか言え。喋ったのは、あんただ」
配信が、しん、と静かになった。
それから——コメントが、堰を切ったみたいに、どっと流れ出した。
〔名無し〕スパイとか言っててごめん
〔名無し〕ごめんなさい
〔名無し〕人殺しって言って、ごめん
〔名無し〕英雄じゃん
〔名無し〕手のひら返し早すぎて逆に引くわお前ら
〔名無し〕さっきまで人殺し連呼してた奴ら息してる?
〔名無し〕俺は最初から信じてたけどな(たった今から)
手のひらが、いっせいに返っていく。あんなに刃だった言葉が、今度は謝罪と称賛になって、流れていく。
ほんの少し前まで、俺を人殺しと呼んでいた、同じ人たちだ。
でも、俺は別に、嬉しくなかった。怒ってもいなかった。ただ——やっぱりな、と思った。
人は、地図みたいにはいかない。簡単に裏返る。それは、もう知ってる。
承認なんて、いらない。叩かれたって、ほめられたって、俺は俺の埋めたいマスを埋めるだけだ。
……ただ。
流れていく謝罪の波の中に。
ずっと変わらなかった、いくつかの声が、静かにまじっていた。
〔だんちょー〕ほら見ろ。俺の推し、最強だろ?
〔ねむ〕…おかえり。私たちは、ずっと知ってたよ
〔みち〕あなたは、誰も死なせなかった。ありがとうございます
その三つだけは。なんでか、ちゃんと胸の奥に届いた。
遠くの何百万より。近くの、この数人。
それで、十分だった。
「そろぼっちさ~ん! 俺の配信、そのままつないでおくので、チャットで必要な道案内は頼めますか?」
だいぶ気が抜けたワンモアさんの声が入った。
「俺、退いてく軍のケツについてくんで! そろぼっちさんが読んで通してる列っしょ? これより安全な帰り道、ないっすもん。もう連中、俺のことは眼中にないし。撤退戦の生中継、おいしすぎでしょ!」
言うだけ言って、ワンモアさんの映像は、ひらひらと手を振って落ちていった。「おつかれっしたー」って、軽い声を残して。
……まったく。ワンモアさんは、最後までワンモアさんだ。
俺は、ふう、と長い息をついた。
国とか、戦争とか、協定とか。今日のことは、たぶん一生かかっても、よく分からないままだと思う。俺の感覚だと、跨いでる国境なんてそこまで意識できないし。
でも、ひとつだけ、確かなことがある。地図を埋めることは、やっぱり俺の生きがいだ。
俺は足元に目を落とした。
……ここ、まだ埋まってないな。
埋めたい。けど、今日のところは、やめておく。さすがにくたくただ。
空白のマスに「また来るから」とだけ胸の中で言って、来た道のほうへ歩き出した。
世界がどれだけ騒いでも。俺のやることは、最初から何ひとつ変わらない。




