合奏
あれから二年がたち、眞箏は数え歳で十七になった。
二年は若者の成長に十分な時間だ。彼女は急に背が伸び、瓜実顔に柳腰の美しい女性になった。温泉街の呉服屋で新しく着物を注文した。淡い藤色と、楚々とした萌葱色のものを。
「マコちゃんも色っぽくなったね」
眞箏は不思議な力を持つ笛吹きとして、鯉泉の外でも広く知られるようになった。頼まれれば船や列車に乗りどこにでも行った。留守中には物置小屋の外に置いた郵便受に手紙がたまった。彼女はその中から緊急性の高いものを選んだ。だから大仕事ばかりになった。失敗し、危険な目にあうこともあった。そんな時、彼女はよく物置小屋にこもり、実家の蔵から持ち出した謎の譜面を研究した。仕事や旅の経験、借りた本の知識などにより、先祖が創作した秘曲の凄さが分かってきた。
彼女は上巻と下巻に分かれた心乃調を今一度見つめ直した。それは表と裏のようで、交互に吹いているうちに何かがつかめそうだが、その感覚は油断するとまた指の間からこぼれ落ちた。先祖が仕掛けた罠にかかったかのようだった。
「私にはやっぱり才能がないのかしら」
彼女が長旅に出ている間、日頃から世話になっている長屋の住民たちが力を合わせ、小屋を新しく作り直してくれた。今度は小窓もつき、女一人が暮らすにはちょうどいい広さの、木材の真新しい匂いがする快適な空間に生まれ変わった。帰ってきたばかりの彼女はそれが自分の家だと分からず、慣れた横丁で道に迷うほど疲れているのだろうかと疑った。
「マコちゃんいつもありがとう」
「些細な恩返しなんだから遠慮せず使ってね」
明るくなった小屋の中には新品の家具が揃っていた。体格に合った椅子と机、書物や譜面をしまえる本棚、青々とした畳の上に敷かれたふかふかの布団、戸の隣に立てられた立派な姿見。それは末吉がわざわざ質屋で見つけてきてくれたものだった。
「姉ちゃんも有名人なんだから身だしなみに気をつけないと」と、すっかり背が伸び、声変わりした末吉が言った。
彼女は外出前、鏡に映る自分を見る習慣をつけた。
また出張から戻ってきたある日、眞箏は待ち焦がれていた手紙が届いたことに気づいた。見慣れた品のある達者な字。柊平からのものだった。
彼は一人で旅に出てから、しばしば眞箏に手紙を送った。彼は各地の温泉の町を渡り歩き、現地の有名旅館で住み込みで仕事をしながら、辻に立って尺八を吹いた。「うつせみの宿」の三男坊として、竹川流の吹き手として着実に成長していった。生活の充実ぶりは手紙の言葉の端々によく表れた。やや落ち着くと、彼は手紙をあまり書かなくなった。便りのないのは良い便り。眞箏は安心していた。
久しぶりに手紙が届くと、何かあったのだと直感した。
「まぁ大変」
彼が修業を終え近く帰って来るというのに、彼女はまた遠くの土地に行くことになっていた。しかもそこでの仕事は予想以上に長引いた。夜行列車と船で鯉泉に帰ってきた彼女は、紅葉狩りに来た遊山客と共に港を出ようとした時に、隣から呼び止められた。
「眞箏さん?」
柊平だった。久々に実家に帰り、家族や知人たちから歓待されたばかりの彼は、若い力がみなぎっていた。それに比べ眞箏は長旅の疲れで髪がほつれ、服は着崩れし、頬も少しこけていた。
「柊平さん!」
二人は抱き合った。旅先に到着し喜びに沸き返る遊山客たちは、若い男女の再会を祝福しているかのようだった。
柊平は眞箏の華奢な肩に腕を回し、「きみも苦労したんだね」と言った。
眞箏は柊平の広くなった胸に頬ずりし、「あなたも立派になって」と言った。
彼らの足は自ずと池の畔に向いた。遊山客がみな山に行くため、秋の池は人が少なく至って静かだ。枝垂れ柳はくすんだ黄色に変わり、冬の気配を感じさせる冷たい風に揺れている。その音とともに二人で過ごした懐かしい思い出が蘇る。
「もう二年か。早いものね」
「そうだね。あのころのきみはあどけなかった」
「そんなに変わったかしら」
「うん。きみと同じ年頃の子なんて本当はまだあんな感じだからね」
大通りでは中学校の女子たちがおしゃべりをしながら下校している。その表情は活き活きとし、話に夢中になっていることが分かる。男子たちはじゃんけんをし、負けた人が勝った人の鞄を背負っている。ある程度歩くと立ち止まり、またみんなで声を揃えて拳を出し、勝敗に一喜一憂する。
「文子さん、故郷で結婚したそうだよ」
「そうだったの。私の二人の幼馴染も結婚したって。次に会う時は人の子の親になっているのね」
「悩みなく生きていたあの時代が一番幸せだったのかもしれない」
「そうとは限らないわ。これからもその時々の楽しみがあるはずよ」
柊平は柳の下で笛を吹いた。過ぎ去りし日への哀愁や、自らの力で未来を切り拓く希望を込めて。
「聞いたことがないけどいい曲ね。心を動かされるわ」
「試しに自分で作ってみたんだ」
「すごいじゃない。ぜひ続けるべきよ」
「ありがとう、そう言ってもらえるとやる気が出るよ。きみは笛の調子はどう?」
「それが行き詰まっているの。ご先祖様が残してくれた古い曲の奥深さを知るほど、私なんか到底およばないって痛感するわ」
「そう言われると僕も耳が痛いな。どうだろう、一緒に研究してみないか。僕の勉強にもなるし」
柊平は初めて彼女の住処を訪れた。よく依頼人が来るのだろう、今や来客用の椅子と机が置かれている。彼は彼女と向かい合うようにして座った。
「これなんだけど」
眞箏は謎の譜面を机に広げた。柊平は虫乃調を選び、上巻から下巻へ、下巻から上巻へと吹いた。
「これのどこがおかしいんだい」
「上下だから続いているはずなのに、つながりがまったく分からないの。むしろ同じ母のお腹から生まれた兄妹みたい」
「きみは名前にとらわれて根本的な間違いを犯していたようだ」
「えっ?」
「竹川流ならばこれは上巻と下巻じゃなくて、一部と二部と呼ぶ。つまり二人で吹く合奏曲ってことだ」
「そ、そうか!」
「さっそく試しに吹いてみようか」
「ええ。でも場所を変えましょう」
彼らはやはり女山の洞窟に入った。もう夕暮れ時で、カラスがカァと鳴く声が寒空に虚しく染み入る。湯けむりと炊煙が立ち昇り、麓の温泉街が霞んで見える。散策を終えた遊山客が続々と宿に戻る。彼らの楽しみは夜まで続く。
眞箏ははにかんで笑い、「そう言えば二人で合奏したことなかったわね」と言った。
彼らは尺八を構え、合奏版の心乃調を吹き始めた。初めてなのに息がぴったり合った。二人ならば喜怒哀楽の怒と哀が半分以下になり、それが喜と楽を二倍にも三倍にも引き立てた。掛け合いではさまざまな感情が激しく交錯するが、決して衝突せず、相手の胸に直接届いた。
吹き終えた二人は得も言われぬ感動に包まれた。
「これが、ご先祖様の心なの?」
「きっと気が合う素敵な御夫婦だったんだろうね」
「柊平さん」
「うん。僕たちもきっと……」
柊平は家の仕事を手伝った。父や兄を支え、彼らが不在の時は代わりに宿を管理し、宿泊客をもてなした。
竹川流の修練所ではほぼ師範と同格になった。高齢の師範が体調を崩し、自ら指導できなくなったからだ。柊平は鯉泉を訪れた音楽家と交流し、ピアノやヴァイオリンと合奏し、その影響を受けた和洋折衷の曲を作った。有名になり、首都の公演に招かれ、成功を収めた。彼は門下生たちから「若先生」として慕われるようになった。
彼と眞箏は、どちらも鯉泉にいる時はなるべく時間を作って笛の稽古をした。季節はもう冬で、外では楽器も体も冷えるため、彼の宿の一室を利用した。二人は畳の上に置かれた火鉢を囲んで座った。
「今日は虫乃調を吹きましょう」
不思議なことに、柊平と一緒に吹くと眞箏の秘められた力がさらに大きく引き出されるようだった。みだりに用いてはならない、そんな畏敬の念を抱かせるほどの強い力が。
「短い間にかなり進歩したね」
「ええ。でもそれは演奏の技術や表現力じゃない。ご先祖様の血が騒ぐっていうのかしら」
「あまり無理をしないで。僕はなんだかきみのことが心配なんだ」
「分かってる」
彼女が帰った後、柊平は家族に「風野眞箏さんっていう人だ」と紹介した。二人の交際が既成事実化した。
鯉泉ではその冬、大雪が降った。町と山は銀一色になった。池には分厚い氷が張り、子供や学生が靴やそりですべって遊んだ。灰色の空に彼らの歓声がこだまし、一気に年末らしい雰囲気になってきた。
温泉に浸かりながら雪景色を楽しみつつ年を越そうとする客を迎える前、眞箏は役所の人から相談を受けた。
「あなたが鯉泉に来る前にも今年ぐらい雪が積もったことがあるのですが、その時に男山で雪崩が発生して、数人の遭難者が出ました」
「その人たちは見つかったんですか?」
「ええ。春になってからですが」
彼女の笛の力で人工的に雪崩を引き起こし、事故を未然に防ぐことは可能だろうか。
「やります」
眞箏は役所が一時入山禁止にした男山を登った。神社もあり山道が整備されている女山と違い、男山は歩きにくく険しい。遊山客の言葉を借りるならば、苦労があるからこそ温泉にたどり着いた時の喜びもひとしおなのだ。
温泉を通り過ぎ、ひたすら雪道を歩き、やっと山頂にたどり着いた。彼女は粉雪にけぶる海の水平線を眺めながら、かじかむ手で帯から八寸管を抜き、獣乃調を吹いた。高い甲音でオオカミの遠吠えを真似たが、山の斜面はびくともしなかった。
「今こそ新しい力を試す時ね」
彼女は丹田に意識を集中すると、甲音のロを細く糸のように伸ばしつつ溜めを作り、最後に乙音に落として大きく吹き切った。獅子吼のような野太い轟音が山全体に響き渡る。しばらくすると、山の内側から「ゴゴゴ」と地震に似た恐ろしい音が起こり、斜面についた雪を一気に振り落とした。雪は軍勢のように駆け下り、当たる所敵無しの勢いで木々をなぎ倒し、谷を埋めていった。
麓で観察していた人々は、「本当に大雪崩を引き起こすとは」と驚いた。
眞箏はふらふらになり山を下りた。なんとか小屋に戻ると布団の上に倒れ、そのまま動けなくなった。
翌日の昼になっても彼女が出てくる様子がないので、長屋の人々は心配してお見舞いに来た。おばさんたちが作ってくれたお粥を布団に入ったままゆっくりすすると、彼女はようやく元気を取り戻した。
「姉ちゃんのこと、新聞に出てるよ」と末吉が報告した。
彼女はその記事を読み、眉をひそめた。
「末吉くん、悪いんだけど郵便受けから手紙を持ってきてくれるかしら」
「そんな弱っているのにすぐ仕事するつもり? 無茶だよ」
「いいから」
眞箏は手紙を一通ずつ読んだ。世の中は困っている人が実に多い。
「とにかくしばらくは休んでいなよ」
「そうするしかないわね」
しかし翌日から手紙がさらに増えた。その多くが命に関わるものばかりだった。
「そんなの現地の人に任せておけばいいんだよ」
「そうしたいところだけど、さすがに放っておけないわ」
「まったく姉ちゃんはおせっかいなんだから」
彼女はさっそく旅支度をし、港に向かった。この冬は忙しくなりそうだった。しかし彼女はこれまで以上にやる気に満ち溢れていた。
眞箏は旅先で年を越した。
彼女に仕事を依頼した町は素晴らしい宿を取ってくれた。体の芯まで温まる湯、除夜の鐘が響く夜空、一人で使うには広すぎる和室、初日の出を拝める大きな窓、色鮮やかで縁起のいいおせち料理。かつてない贅沢な暮らし、過度なもてなし。彼女は少し居心地が悪かった。
三が日が過ぎ、眞箏はまた列車で次の町に向かった。そこはめったに雪が降らない地域のはずなのに、今冬は記録的な大雪に見舞われた。ある高齢の住民が屋根に上がり雪下ろしをしようとしたが、慣れず、転落し重傷を負った。危険だが、かと言って放っておけば屋根が潰れてしまう。
彼女はその町の住宅地の数カ所で笛を吹いた。甲音で首を振ってユリをかけると、雪が屋根の傾斜をゆっくり滑り下りた。乙音をバリバリ鳴らすと雪庇や氷柱がどさりと落ちた。それと同時に、彼女も雪の上に尻餅をついた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ちょっと足を取られただけです」
一仕事終え、宿に引き上げようとしたところ、現地の山岳救助隊の隊長が大慌てで彼女を探しに来た。
「山の旅館のすぐ近くで雪崩が起きて、外を歩いていた宿泊客が巻き込まれたんです」
彼女はすぐ隊長と共に山に入った。事故発生現場に到着する前に、ある異変を察知した。
「しっ、静かに」
山道から遠く離れた木の下に黒い岩がある。地上のすべてが雪に覆われているはずなのに。
「く、熊だ……」
眞箏は六寸管を抜き、やさしくいざなうように首を回し、眠気を催すユリをかけた。熊は夢見心地で森の寝床に帰っていった。
「お若い方だと聞いていましたが、冷静沈着で感心しました」
現場では隊員が散らばり、声を張り上げ宿泊客の名前を呼んでは耳を澄ますを繰り返していた。すぐ隣の旅館の従業員たちは玄関先に立ち、心配そうに見守っている。
「私に任せてください」
彼女はまた六寸管を手に取り、尋乃調で雪の山の中に探りを入れた。音の響きが滞る場所は岩で、逆に増幅する場所は小さな空洞だ。そこには何があるのだろうか。甲音から乙音に切り替え、柔らかく吹く。かすかに動く物体からはわずかな温もりを感じ取れる。遭難者の弱々しい息遣いに乙音がかすれる。
「あそこに一人埋まっています」
救助隊の力もあり、親子三人が無事見つかった。宿は捜索に協力してくれた人々を労う宴を張った。昼間から酒も出た。若い隊員たちは大座敷であぐらをかき、労働の後の美酒に酔いしれた。
「しかしお姉さんがいなかったらどうなっていたことか」と、眞箏の隣に座った若い隊員が言った。
その町での滞在は思いのほか長引いた。仕事に切りをつけ、やっと鯉泉に帰るともう一月下旬だった。冬の夕飯時の静かな横丁。長屋から漏れる光が雪の夜道を照らす。
彼女は小屋に戻り、少ない荷物を置くと、「今回は本当に疲れちゃった」とひとりごちた。食欲もなく、早いが横になることにした。寒い部屋に冷たい布団。彼女は深い深い眠りについた。
自然に目を覚ますまで丸二日たった。彼女は寝ぼけ眼をこすりながら布団を出て、姿見の前に立った。
「うそ……」
そこには見知らぬ自分が映し出されていた。寝癖がついた白髪交じりの頭、痩せこけた頬と浅く刻まれた皺、干からびた唇に尖った顎。実年齢の倍以上に見える。
誰かが小屋の戸を叩き、勝手に引いた。
「なんだ帰ってたのか」
「末吉くん」
「姉ちゃん、いったいどうしちまったんだ?」
「こっちが聞きたいわよ」
「とにかく、帰ったら呼ぶよう柊平兄ちゃんに言われてたから」
「待って、行かないで、こんな姿を見せるわけにはいかないわ」
ところが柊平は自分から訪ねてきた。最近は毎日、彼女が帰ってきてないか横丁まで確認に来ていた。
「眞箏さん」
「見ないでっ」
末吉は気を遣い、外した。柊平は後ろ手で戸を閉め、泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから」
彼は代わりに七輪で湯を沸かし、お茶を淹れた。それをゆっくり飲み、体を温めると、彼女はようやく落ち着きを取り戻した。
「笛のせいよ」
「そんな馬鹿な」
「いいえ、お父さんもまだ若いのに亡くなったもの。きっとそうに違いないわ」
彼女には他にもいくつか思い当たる節があった。
「つまり、力を使う反動として老化が進むってこと?」
「ええ。特にあなたとの合奏で新たな力が引き出された後にひどくなったわ」
「あぁ、僕はなんてことに協力してしまったんだ」
「あなたのせいじゃない。それに、私の寿命を削るとしても、より多くの人を活かすことができるなら本望よ。ただ、あなたの目に私が醜く見えることだけが悲しいわ」
「眞箏」
彼は彼女の手を取った。乾燥し、ところどころにあかぎれが。熱い涙がひどくしみる。
「醜いことなどあるものか。きみは誰よりも心根のやさしい、美しい人だ。僕はきみのことが大好きだ、すぐにでも結婚しよう」
彼女は薄く笑い、無言で頭を振り、目を伏せた。まつ毛だけが黒々とし、艶があった。
外の郵便受けに投函される音が聞こえた。彼女は諦め顔で立ち上がろうとしたが、彼に両肩を押さえつけられた。
「こんなもの、こんなもの……」
彼は戸と窓を開け放ち、破った手紙を七輪の中に放り込んだ。彼女は止めようとしなかった。
小屋の中から吐き出される煙で眞箏の帰宅が知れ渡った。柊平が手紙をすべて燃やし終わった後、横丁の住民が眞箏を探しに来た。
「これ以上彼女にどうしろっていうんだ!?」
「柊平さん、やめて」
「子供が、子供が池に落ちて」
眞箏は柊平の背中を借り現場に駆けつけた。警察や地元の人が集まり、凍った池に空いた穴に長い棒を突っ込み、子供の救出を試みていた。
「皆さん、離れてください」
彼女は八寸管を抜き、喉を大きく膨らませ、乙のロを太く長く吹いた。穴を中心にヒビが蜘蛛の巣のように広がり、一気に崩れ落ちた。鮮やかな色の服を着た子供の硬直した体が氷の間に浮かび上がった。
「あそこだ!」
手遅れで、その男の子はとっくに死んでいた。両親は冷たくなった亡骸を抱きしめて放そうとしなかった。
「せめて苦しみなく成仏できますように」
眞箏は手向けの曲を吹き終わった。池の畔から人がぽつりぽつりと姿を消した。気丈に振る舞っていた彼女はついに膝をつき、真っ白い雪の上に目に痛いほど鮮やかな赤い血を吐いた。柊平は気絶した彼女を背負い、自分の旅館に連れて行った。温かい部屋に柔らかい布団を敷き、医者を一人つけ、ゆっくり休ませた。
その間、末吉は横丁で眞箏の体調不良を伝えて回った。人々は彼女に甘えすぎたことを悔いた。今は安静にすることが大切と思い、見舞いに行くのを控えた。一日も早く良くなるよう願うばかりだった。
二月になった。北風が町中を吹き渡り、人々の心を騒がせた。雪はもうあまり降らず、乾燥した日が続いた。こんな季節に鯉泉を訪れようとする人は少なかった。温泉街で働く人々は旅館内にこもり、客がいない間にできる仕事をした。動かず、じっと力を蓄える季節だった。
眞箏の容態も安定してきた。彼女は毎日、うつせみの宿で最も良い部屋を独占し、医者の診療を受けた。柊平やその家族からの細やかな気配りもあり、少しずつ食欲を取り戻した。しかし若さは取り戻せず、もう四十代の中年女性にしか見えなかった。
ある日の午後。彼女は布団に横になり、うつらうつらしていた。ふと、遠くから言い争う声が聞こえてきた。男性四人と女性一人。柊平たちだ。彼と二人の兄の声は父にそっくりだった。とぎれとぎれに聞こえる話の内容を理解するのは難しいが、声を張り上げているのは柊平で、彼をたしなめようとしているのは家族だろう。しかし柊平の声は大きくなるばかりだ。
「しっ!」
急に静まった。少したつと、荒々しい足音が徐々に遠のいていき、床を摺り足で歩く音が近づいてきた。
「お加減はどうかな」
襖を引いて入ってきたのは柊平の父だった。外見は声ほど似ていなかった。背がやや低く、ひげを蓄え、重苦しい表情をしている。
「お陰様でだいぶ良くなりました。いつまでもご迷惑をおかけするわけにはいかないので、そろそろお暇したいと思います」
「そ、そう急ぐことはないんだ。息子もあなたにゆっくり休んでもらいたがっているし」
「いえ、本当に結構です。大変お世話になりました」
眞箏は布団から起き上がった。自分でも分かるほどの病人の匂いに鼻をひくつかせて。彼女は震える手で二本の尺八を帯に差し、「柊平さんにはもう、私のことを忘れるようにお伝え下さい」と言った。別れを告げず鯉泉を去るつもりだった。
彼女が宿の玄関で藁沓を履いていると、櫓の鐘がけたたましく鳴った。
「かっ、火事だ!」
どこかから焦げ臭い匂いがする。眞箏は顔を上げ、空を見た。火の手はまさにこの温泉街から上がっているようだ。人々が大切なものを抱えるか背負って逃げていく。消防組の男衆は消火ポンプを押しながら火災現場に向かう。彼女は早歩きで彼らの後を追った。
煙が立ち込める鈍色の空にはすでに火の粉が舞っていた。眞箏は現場に来るまでの間、ある旅館の物置から出火したと耳にしていた。その火はもう、旅館の一部まで燃え広がっている。早く消し止めなければ大変なことになるだろう。
消防組がポンプを設置し、放水作業を開始した。男たちの力強い掛け声が響く。逃げ遅れた人がいると聞いた火消が水をかぶり救助に入る。逃げた人々が戻り、野次馬になった。
「あれ、子供を抱えて出てきたよ」
「よりによってこんな季節に」
「あの水量で消えるかな」
「ぼさっとしてないであんたも川から水を汲んできな」
そうすべきことに気づいた時にはもう手遅れだった。旅館が炎上し、赤い火と黒い煙を吐いた。建物の一部が崩壊し骨がへし折れるような音をたてた。消防組のレバーを押す「えっさ、えっさ」という声がだんだん小さくなっていった。
「このままじゃまずいぞ」
温泉街は広い道沿いに宿がずらりと建ち並ぶ。最悪、道の片側の建物は全焼するだろう。柊平の宿も、眞箏が世話になった鯉の湯も。
彼女は後ろから柊平に肩を叩かれた。
「こんな所にいたら危ない。早く逃げるんだ」
「馬鹿言わないで。鯉泉を見捨てることなんてできないわ」
眞箏が尺八を手にすると、集まった人々が自然と散り、空間が生まれた。彼女はしばし黙想してから天乃調を吹き始めた。乙のロをムラ息で重ねるように吹くと、次第に彼女を中心に風が渦巻き、空に広がる雲とつながった。髪の毛に残っていた黒い髪がみるみるうちに白くなる。雲の密度が上がり、空は夜のように暗くなった。ついにポツリと雨粒が落ち、人々が「おぉ」とどよめいた。彼女はムラ息をやめ、雲を操るように甲音を響かせ、雨を誘った。しかし雲は応じず、静観を決め込んだ。
眞箏は笛から口を放し、柊平の胸に寄りかかった。
「あなたの力を貸して」
彼は彼女の薄い肩を抱き寄せた。
「僕と合奏なんかしたら本当に死んでしまうぞ」
「それが、それが生きるってことでしょう」
柊平は周囲を見渡した。消防組はもはや消火を諦め、近くの建物に出入りし、取り残された人がいないか確認している。ある老人は腰を抜かして動けなくなり、「もうおしまいだ」と嘆いている。子供は泣き叫び、大人は怒声を上げる。瓦がドサッと崩落する。街の煙が濃くなり、隣にいる人の顔すら見えない。
「私と最後まで生きて。お願い」
眞箏は柊平の胸から離れ、よろめき、倒れそうになった。彼女をなんとか支えなければ。
「分かった。一緒に歩もう」
柊平は懐にしまっていた尺八を取り出した。二人は並んで立ち、笛を構え、空を仰いだ。眞箏の体がふわりと浮き上がった。長い髪の毛が逆立ち、まるで天に吸い取られているようだった。逆に柊平は地にしっかり根ざし、天乃調の下巻を吹き、その低く重い音で彼女を引き留めようとした。彼は全身で大きく息を吸い、砂嵐のような音とともに一気呵成に吹き切った。尺八は管尻から放電すると同時にバリッと凄い音をたて真っ二つになった。宙を漂う眞箏の周りに雷で縁取られる球体ができた。彼女はパチパチと焚き火のような音がする電気の中で天乃調の上巻を吹き続けた。雲が頭上に集まり、積み重なり、真っ黒になり、紫色の雷を纏った。球体が薄れて消え、彼女が地面に崩折れた瞬間、バケツを引っくり返したような雨が降り出した。雨をかぶった火が煙をもうもうと吐いた。黒ずんだ水が温泉街の石畳に広がっていった。
「鎮火したぞ!」
瓦礫の山の中から焼け焦げた建物の柱が突き出ている。その柱に沿って上を見ると、嘘のように晴れ渡った空に季節外れの虹が二重に架かっている。歓呼する人々。抱き合う家族。緊張の糸が切れ路傍に座り込む消防組。
「眞箏、眞箏……」
彼女は柊平の懐に抱かれ静かに目をつぶっていた。やんだはずの雨が再び彼女の顔に降り注ぐ。ぽつりぽつりと落ちるたび、乾いた肌が潤いを取り戻し、皺が消えていった。髪も冬を越し春を迎えたように黒くなり、シャボン玉のような光沢を放った。
「あれ、私はどうなったの?」
「きみの肩から重荷が下りたんだ。もうゆっくり休んでいいんだよ」




