月岡柊平
梅雨に入った。雨が毎日降り止まなかった。人々は傘を差し、外で必要最小限の用事を済ませた。洗濯に行く人はいなかった。畑で働く人も宿で働く人も自宅でじっとしていた。子供だけは元気に登下校した。長屋の道は彼らに踏まれてどろどろになった。
眞箏は物置小屋で本を読み、笛を吹き、故郷に手紙を書いた。他にやることがないと雨音を聞きながら考え事をした。常に薄暗く、昼夜の差を感じにくかった。
「あらもうこんな時間」
食材が尽きたので、また買い出しに行かなければならない。ついでに銭湯に寄るのもいいだろう。彼女は支度を始めた。
小屋の薄い戸を引くと、外には雨合羽を着た見知らぬ男性が立っていた。
「わっ」
「すみません驚かせてしまって。戸を叩いたのですが」
「雨が騒がしくて聞こえませんでした」
「この長屋に風野眞箏さんがお住まいと聞いて、仕事のついでに寄ってみたんです」
「私がそうです」
「あなたが?」
「とにかく中にお入りください」
客は水滴を飛ばさないよう慎重に合羽を脱ぎ、勧められた腰掛けを使った。眞箏は畳に座る。
「失礼ですが、おいくつですか」
「数えで十五歳です」
「そ、そうですか」
「ところでご要件は?」
「私はあなたのお父さんのお世話になった者です」
客は眞箏をじっと見つめ、それから部屋を見回した。割れた鏡、小さな棚とタンス、使い込んだ七輪。質素な住まいだ。
「本当だ。確かにお父さんの面影がある」
それから客は語り始めた。
彼は血の気が多い若者だった。故郷で暴力沙汰を起こし、父から勘当され家出した。他郷で人生を一からやり直し、必死に働いて自分の店を持ち、妻と結婚した。男女の子宝にも恵まれた。暮らしにややゆとりができ、自分も親になると、ふと親孝行したくなった。ところが母はまだしも、父は彼に決して気を許そうとしなかった。仲直りする前に父が病気で亡くなった。なんとか罪滅ぼしをし、あの世の父に安心してもらいたい。そんな時、故郷に眞箏の父が現れた。
「父への手向けに一曲お願いします」
思い出しているうちに客の目が潤んできた。
「あの長い笛の深く柔らかな音を聞いていると、父や母と過ごした幸せな幼少時代の日々が走馬灯のように流れました。あなたのお父さんも吹きながら、あなたや奥様のことを恋しく思っていたのでしょう。あんな心を揺さぶる音は聞いたことがありません。父にもいい供養になりました」
「そうですか、そんなことが」
「お父さんのことをよく覚えていますか」
「それが、本当にたまにしか会えなかったので。最後に帰ってきたのは亡くなる数年前で、まだ四十にもなりませんでした」
「まさかそんな若いはずが。私と会った時はちょうど亡くなる一年前でしたが、もう相当なお年でしたよ」
「見た目はちょっと老けていたかもしれませんが、そこまででは……」
「いや、あるいは経験豊富な笛の大家ですから、お若いのに立派に見えたのでしょう」
客はお土産の茶菓子を置き、出ていった。眞箏は雨で濡れたその紙箱に父の匂いが残っているような気がした。
今年の梅雨は短かった。太陽が雨雲を追い散らし、屋根、草木、土から水気を奪った。人々は合図をしたように一斉に外に出て洗濯をし、服を干した。銭湯で長風呂しているうちに薄い服が乾いた。布団を叩く音があちこちで聞こえた。活発な子供たちはほとんど裸で海に走っていった。船の汽笛が鳴り、首都から遊山客がやってきた。
眞箏は萌葱色の服を洗い、桜色の服に着替え、久しぶりに池の畔に一人で立った。セミがやかましく鳴いているが、もはや耳に馴染んでいる。彼女は池を渡る涼しい風を浴びながら、伸び伸びとした気持ちで笛を吹いた。低く雲が立ち込めている梅雨時と違い、広い空に音が高く清く澄んで響いた。
「ちょっと会わないうちにまた腕を上げたみたいだね」
「月岡さん」
「稽古の邪魔をしてごめんね。続けて」
「いえ、私より、月岡さんの声を聞かせてください」
「いいね。たまには青空の下で吹くのも」
柊平は袋から尺八を出した。使いやすいよう自分で改造したのだろう、顎あたりと指孔に削った跡がある。親指で塞ぐ五孔の周りが黒ずんでいる。楽器を見ただけで只者でないことが分かる。
彼は目をつぶって吹いた。男らしく力強い音だった。乙音は朗々と響きながらもまろやかで、深い味わいがある。甲音は力が抜け軽やかだが芯の強さがある。ムラ息は嵐のごとく縦横無尽に吹き荒れる。彼の笛の音は総じて、大胆でスケールが大きく、それでいて自由奔放な印象だ。
「ちょっと意外でした」
「何が?」
「月岡さんって、もっとこう、お堅い人なのかと」
「よくそう言われる。修練所では特にね」
それから二人は尺八談義に花を咲かせた。流派が違い、かえって話しやすかった。竹川流には眞箏の知らない指使いが多く勉強になった。風野流の古い呼吸術は息を深く静かに吸うことができ、西洋化の影響を受ける竹川流の腹式呼吸とは大きく異なっていた。
「ほら、そこで孔を塞ぐんだ」
「こうですか?」
「そうじゃなくてほら、これぐらい隙間を残して」
「いいですか、吐く時もお腹を張ったままにしてください」
「こうかな?」
「私が手を当ててますから、もう一回やってみてください」
赤と白のスイレンが池の中から顔を出し、寄り添っている。丸く平べったい緑の葉を浮かべ。カルガモの親子が列を作って野原を歩き、母ガモを先頭に一羽ずつ水に入る。先客のオタマジャクシが驚き一斉に散らばる。木陰が伸び、若い男女を覆う。
「おや、あの子が例の笛吹きか」
「男の子もいるのね」
「なかなかお似合いじゃないか」
柊平は慌てて帽子をかぶり、眞箏に「そろそろ失礼するよ」と言った。
彼は次の日も池に来たが、文子を連れていた。二人は眞箏に鯉泉中学校のことを話した。
「月岡さんと文子さんは卒業したら何をするんですか」
「僕は分からない。家の仕事は兄が継ぐから」
「自由で選べないなんていい身分ね。私は鯉泉に残るか実家に戻るか迷ってるの」
両親からは故郷に戻るよう催促の手紙が来ているという。
「お盆に帰るのがゆううつで」
「どうしてですか?」
「本当に田舎なんですもの。考え方や価値観がこっちとはぜんぜん違うから、話が合わないし、嫌なことも勧められるし」
「嫌なこと……」
「それより風野さんはこっちに来てからまだ帰ってないの?」と柊平が聞いた。
「ええ、まだ」
「ついおっくうになるのよね」
「私は村が好きで、本当なら帰りたいんですが、まだ一人前になっていないので甘えは許されません」
「私たちよりよっぽどしっかりしているわ」と、文子が柊平を見ながら言った。
「まったくだ。僕もそろそろ真剣に考えないと」
眞箏が小屋に戻ると手紙が届いていた。汚い字だが温かみがある。正造からだ。この夏は野菜の行商のついでに、鯉泉まで彼女の顔を見に来るという。
「まぁ。今から楽しみね」
小中学校が夏休みに入った。子供たちの歓声が学校から横丁や住宅街に移った。朝早くから騒がしく、いかにも夏らしい。大人たちは子供を目にする機会が増えた。井戸、洗濯場、店先、旅館の中など、どこに行っても親の仕事を手伝う彼らの姿がある。彼らと共に働く親は自ずと活気づく。
遊山客も若い子供連れが多くなった。彼らは夏の思い出を作ろうと鯉泉を訪れ、宿に重い荷物を置き、涼しい格好で外に出る。仕事や勉強から解き放たれ開放的な気分で練り歩く観光地では、目にするものすべてが新鮮に映り、驚きも喜びも増幅する。夏の日差しからも悪意が消え、カラッと陽気な印象だ。大人たちはのんびり過ごそうとするが、子供たちはおとなしくしていない。旅先にあるすべてを満喫しようと本気を出す。
女山には神社がある。珍しいものを売る屋台が参道に並び、参拝客の目を引き付ける。大人は子供にねだられ財布の紐をついつい緩めてしまう。男山には混浴の露天風呂がある。涼しい風が吹く森を背にし大海原を一望すると心身ともに癒やされる。
最も時間を潰せるのは浜だ。遊び、食事、憩いのすべてがそこにある。老若男女の誰もが自分の楽しみを見いだせる。水着姿で浜に寝そべり、海に入り、全身の肌で非日常を感じ取る。さっきまで昇っていた日がもう沈み出している。早く帰る必要はない。今日はもうどこにも行かず、宿の湯で砂を洗い落とし、美味しい料理を食べるだけでいいのだから。
それでも夕飯前には少し時間が余る。人々は入湯後、浴衣に着替え、打ち水され涼しくなった街を歩く。ふと夕方らしい落ち着いた風情ある笛の音に誘われ、池の畔に足を向ける。そこでは萌葱色、あるいは桜色のよく似合った服を着た女の子が足元に鉢を置き、柔らかく首を振りながら尺八を吹く。夕日を浴び水面と笛がきらりと輝き、女の子の顔を橙色に染める。暮れなずむ空にしみじみ響くヒグラシの鳴き声。さっきまではあんなにはしゃいでいた子供までもが、一日を締めくくるしんみりとした情緒に浸る。
「すばらしい演奏だった」
「まさに夏の風物詩ね」
眞箏は稼いだお金の多くを町の役所に寄付した。鯉泉に受け入れてもらったことへの感謝を込めて。初めは見下していた竹川流の門下生たちも、相変わらず長屋の物置小屋で暮らす彼女に一目置くようになった。それに彼らは月岡柊平が彼女を良く思っていることを知っていた。
「師範代、最近吹き方が変わったな」
「うん。なんだか肩の力が抜けたようだ」
天気が良い日であれば、眞箏は涼しい朝のうちに女山に登り、山腹の洞穴に入り稽古をした。新しく覚えた流行歌、実家の蔵から持ってきた譜面、貸本屋で借りた西洋の楽譜など、彼女にはまだまだ吸収すべきことがあった。それに今の彼女には仲間がいた。
「風野さん」
「月岡さん」
柊平は彼女がよくここで練習していると聞くといたく感心し、夏休み中は自分もぜひ付き合わせてほしいと申し出た。
「変わった譜面だね」
「はい。それは心乃調といいます。良かったら読み方を教えますよ」
柊平はとりあえず譜面通りに吹いてみた。今ひとつ感情がこもらない。
「じゃあ私がやってみますね」
「きみは本当に表現力が豊かだね」
「そんなことありません。大叔父の教え方が上手かっただけです」
次に眞箏が竹川流の古い曲を吹いた。なんとなく形にはなるが、味わい深さがない。
「そこは指をこう打ったり、かざしたりするといいよ」
「本当だ。月岡さんは私が知らないことを基礎から応用まで何でもご存知で、本当に尊敬します」
流派は違ってもどちらも尺八に詳しく、一を聞いて十を知ることができた。二人は打てば響く相手との切磋琢磨と相互補完の悦びに浸った。
眞箏は朝早く洞穴の外に立ちながら、今日も柊平は来るだろうかと待ちわびた。彼は用事があってもなるべく都合をつけて来た。
彼女は雨を憎んだ。夏の終わりを恐れた。
ある日の朝、昨夜から降り続いていた雨が上がろうとしていた。この分なら大丈夫だろうと思い、眞箏は傘を差して女山に登り、洞穴の中から空模様を見ながら気も漫ろに笛を吹いた。音が浮つき、うまく響かなかった。雨がやみ、太陽が顔を出し、梢から小鳥が飛び立っても、柊平が来ることはなかった。
「もしかして雨に濡れて風邪でもひいたのかしら」
その心配は無用だった。午後、池の畔で遊山客を相手にしていると、彼が文子を連れて散歩に来たからだ。文子は上機嫌で眞箏に声をかけた。
「文子さんこんにちは。月岡さんも」
「うん」
二人ともなぜか、一緒に練習していることを文子に教えたくなかった。
次の日は柊平の方が先に洞穴に来て練習していた。眞箏は真剣に笛を吹く彼の凛々しい顔を見ながら、恨み言を口にするのを忘れてしまった。
「きみは女の子なのにこんなところに住んでいたんだね」
「あら、慣れれば悪くないはずですよ」
「確かに。僕もそう思う」
いつもより少し長めに練習し横丁に戻ると、物置小屋の前に大きな荷物を背負った、見慣れた姿があった。
「正ちゃん! もう着いたの?」
「眞箏か。しばらく見ないうちに大きくなったな」
故郷の友との再会は素直な感情が発露しやすい。二人は人目を気にせず喜び、はしゃいだ。
「ささ、中に入って」
「うぉ、こんなひどいとこに住んでるのか」
「住めば都よ」
正造はしばらく落ち着かなかった。狭い小屋の中をうろちょろし、置かれている少ない私物を手に取り確認した後、急に真剣な顔で「生活、苦しいのか」と聞いた。
「ううん。好きでやってるからいいの」
眞箏は村ではちょっとしたお嬢様のような存在だった。正造は笑う彼女を見ながら、「成長したんだな」と言った。
「それより村のことを聞かせてよ」
二人は茶を飲みながら話を始めた。
「お母さんは一人で寂しそうにしてない?」
「それが、毎日のように独身の男が訪ねてきて、放っておこうとしないんだ。お前のお母さん美人だからな」
「再婚する気かしら」
「まさか。冷たく適当にあしらってるよ。箏の稽古は相変わらず続けている。また門下生が増えたぐらいだ」
村は変わりない。春夏秋冬が訪れ、それに応じた暮らしを営み続けるだけ。
「正ちゃんの仕事は順調なの?」
「まあな。家の畑仕事はおやじに任せて、こうして野菜や道具を売り歩いている。今ではおれも旅人みたいなものだ」
「私は鯉泉に落ち着いちゃったけどね。ところで富ちゃんは元気にやってる? 花嫁修業は順調かしら」
「それなんだがな……」
富子の婚約者の幸作は町で肺炎にかかり亡くなった。婚約は解消され、富子は心に隙間風が吹き、家の中でぼんやりしていることが多くなった。
「幸作の家に遠慮して、誰も富子の家に結婚話を持ち込もうとしない。あんないい子で、まだ若いのに、半分やもめ扱いだ」
二人はしみじみと自分の思いに浸った。眞箏は鯉泉での暮らしに慣れ、故郷から心が離れ、村の親友にあまり手紙を書かなかったことを後悔した。
「鯉泉ではゆっくりしていけるの?」
「この荷物を売りさばいたら帰らないと。どこで売ればいいかな?」
「まだ案内してなかったわね。ちょっと散歩でもしましょう」
横丁の中を歩きながら、眞箏は顔なじみの住民たちに正造を紹介した。それが無性に楽しく、少しだけ誇らしかった。
「みんなから知られ、頼りにされているんだな」
「私もお世話になっているからお互い様よ」
正造は眞箏が思ったほど、鯉泉の温泉街に驚かされなかった。彼ももう広い世間を知っていたからだ。
「こういう高級旅館とはあまり縁がないんだ。いつも野宿か木賃宿だからな。もっとも店の裏手に回ればけっこう商売になるけど」
彼らは池の畔にやってきた。まだ日が高いが、早くも彼女の噂を聞きつけた遊山客がちらほら集まっている。
「ここで托鉢をしているの」
「よかったら聞かせてくれよ」
眞箏は気恥ずかしかったが、故郷の親友に晴れ姿を見せたいと思い、帯から笛を抜いた。正造は他の見物人に混じり、眞箏が吹く流行りの曲を聞いた。曲が終わるたびに拍手が鳴り、鉢がちゃりんと山吹色の音をたてた。正造も思わず小銭を入れた。
「あなたはいいのよ」
「いいからいいから」
正造は眞箏と一緒に枝垂れ柳に寄りかかった。彼はひどくいい気分だった。
「行商をしていると、どこに行ってもよそ者扱いで邪険にされるけど、ここではなんだかみんなから歓迎されている気分だ」
「そうでしょう。私も鯉泉はとってもいい場所だと思うわ……あら、月岡さんと文子さん」
「風野さん」
「こんにちは。そちらの男の人は?」
文子から聞かれ、正造は簡単に自己紹介した。
「そう、久しぶりの再会なんて素敵。ゆっくり鯉泉を楽しんでいってくださいね」
柊平は正造に何も言わず、眞箏にやや冷たい視線を投げ、文子と共に温泉街の方に消えていった。
「さっきの人、誰だ?」
「ここでの知り合い。あの男の人、尺八がとても上手なの」
「ふうん」
彼らはひとまず小屋に戻り、着替えを手にして再び外に出た。
「銭湯に入ったことある?」
「そんな贅沢めったにできないな」
「私の顔利きで、住民料金で入らせてあげる」
正造は旅の垢を落としてから入湯した。耳が早い先客たちは彼に話しかけた。
「マコちゃんの実家の人なんだって?」
「ええ、そうです」
「鯉泉には何をしに来たんだい」
「彼女んとこに泊まるんだって?」
「どういう関係だ」
「まさかマコちゃんを迎えに来たんじゃないだろうね」
「違います、おれたちはただの友達です」
半分本気、半分冗談の入湯客たちは安心し、大声で笑った。隣の女湯にまで聞こえるほどで、眞箏はまだ入ったばかりなのに顔が真っ赤になった。
「若いっていいねえ」
二人は一緒に銭湯を出て、魚屋に寄ってから小屋に帰り、夕飯を作った。野菜は正造が持ってきたものを使った。
「懐かしい村の味だ」
「川魚じゃなくて海の魚だけどね」
「海の魚もいけるぞ」
彼らが食べ終える頃には、横丁の夕食の賑わいも落ち着き、静かになった。どこかで猫がまた鳴いた。
夏の夜は長い。正造はまだ眞箏に報告していなかった村の些細な変化を思い出し、話した。彼女にはそれが大事に感じられた。彼女が記憶している村は昔のままで、新しい変化に慣れなかったからだ。
「おれと眞箏と富子の三人でヤマモモを食べたのが昨日のことのようだ」
「本当ね。でもあのころの私たちは本当に幼かったなぁ。まだ学校に通っていたし、おじいちゃんやお母さんに守られていたし。もう昔には戻れないのね」
「今度はおれたちが大人になる番が回ってきたんだ」
そこで正造は口を重く閉ざした。眞箏はその間、家で一人むなしく編み物をする富子の姿を想像した。
「大人になれば、子供ができる。子供はまた村で遊び、学び、大きくなる。当たり前のことだけどな」
正造は照れくさそうに笑った。
「実はおれもさ、そろそろ結婚を考えてるんだ」
「うそっ、もう!? 信じられない」
「早くないさ、おれも十六だ。これから先ずっと行商を続けるわけにもいかないし。一家の主になり、村で落ち着きたいんだ」
「だって、結婚の相手がいないと始まらないわ」
「富子のことをどう思う」
「どうって?」
「おれと彼女はお似合いかな?」
眞箏は頭の中で二人が共に過ごす様子を思い描こうとしたが、できなかった。いつもその間に彼女自身がいたからだ。
「まさか正ちゃん、富ちゃんに同情して……」
「そういうのじゃない。おれはもともと、もともと、富子よりお前の方を好きだと思っていた」
眞箏は唖然とした。今日はなんという日だろうか。
「ところがお前が村から去り、心にぽっかり穴が空き、ふと幸作のことが妬ましくなった。富子とほとんど言葉をかわしたことのないあいつに何の権利がって。ずいぶん苦しんだよ。わざわざ行商に出たのもそのためだ。それなのに、旅先でも思い出すのはお前ではなく富子だった。幸作が羨ましかった。村で富子が待っていてくれて、外にいても安心して勉強できるんだから。おれはあいつを呪った。だから早く死んじまったのかもしれない」
「そんなはずないわ」
「おれは自分勝手なやつだ。幸作に悪いと思いながら、富子と結ばれたくてたまらないんだから。これが恋ってやつなんだろう。なぁ、こんなおれは彼女にふさわしい男だろうか」
「富ちゃんは正ちゃんのことを兄のように慕い、好ましく思っている。それは間違いないわ」
どこかの草陰で夏の虫が延々と鳴いている。こうして耳を澄ますと村に戻ったかのようだ。ずいぶん遠くまで来たな、と眞箏は思った。
「正ちゃんの本当の気持ちを伝えれば、きっと喜ぶと思う」
「分かった。おれの良いところも悪いところも包み隠さずぜんぶ話すよ」
その夜、正造は地べたに座り荷物に寄りかかって眠った。眞箏は畳に敷いた布団に入り目をつぶったが、なかなか寝付けなかった。あの正造と富子が結婚する。めでたいことなのになぜか不安だ。途方もなく、想像できない。彼女のまぶたの裏に浮かぶのは月岡柊平の冷ややかな目ばかりだった。
虫たちは夜通し鳴いた。
正造は翌朝早く小屋を出た。温泉街と港で商品を売り、そのまま村に向かうという。
「あんまり長居するとここにずっといたくなるからな」
眞箏も引き止めなかった。最後に彼の手を握り、「ありがとう、嬉しかった」と言った。
お盆が過ぎ、今年の夏も終わろうとしていた。
眞箏はやはり毎朝、女山の洞穴で笛を吹いた。あの日以降、柊平は二度と来なかった。眞箏は心を落ち着けようと演奏に集中した。しかし外で物音がするとどうしても吹くのをやめ、気を取られてしまうのだった。
「なんだ鳥か」
結局そのまま夏休みが終わってしまった。遊山客も引き上げ、鯉泉は観光の閑散期に入った。人が減った温泉街はきれいに掃き清められ、砂ぼこりさえ立たなかった。旅館からはのんびり働く従業員たちの談笑や、新しく習い始めた曲を弾く三味線と箏の音が聞こえた。今年は残暑もそれほど厳しくなく、涼しくカラッとした日が続き、早くも秋が訪れたかのようだった。
客もいないので、眞箏は池の畔に行かず、横丁に近い掲示板のそばに立ち依頼を待った。毎日何かしら仕事があった。執事は内密にしていたが、丘の洋館の主を立ち直らせた件が噂になり、彼女の名声が上がったからだ。そのせいもあり、おかしな依頼が舞い込むこともしばしばだった。
「近ごろ妙に不幸が続くんだけど、何かの祟りかしら?」
眞箏は「だいじょうぶ、心配ありませんよ」と言って安心させた。彼女はむしろ人々の相談役になっていった。家族が病気ならば薬を、厄払いがしたければ神社へ、亡くなった人の魂と対話したければ墓前に花を。どれも常識的な助言だが、力を持つ眞箏がそれを口にすると自ずと重みがあり、安心できた。
彼女はたまに用事があり温泉街に出かけた。「鯉の湯」の三曲合奏の稽古に参加し、横丁では売っていない生活用品を買い、郵便局に寄った。母には正造と富子に注意するようお願いしていた。
「ああ、ちょうど故郷のほうから手紙が返ってきてますよ」
彼女はそれを職員から受け取った。懐かしい、匂うほど達者な母の字だ。
二人にはまだ表面上、変わった様子は見られない。どちらも普通の幼馴染としての距離を保っているという。
母は正造がまだ告白に踏み切っていないのではと心配し、箏の稽古が終わった後、富子を一人残して話をした。
「正ちゃんから求婚されました。ただ、幸作くんの喪が明けるまで待つよう伝えました」
一年後も正造の富子への気持ちに変わりがなく、彼女も彼を愛せることが分かってから、婚約なり結婚なりすればいい。時間は若者の衝動にとって最良の試練だ。
「それよりあなたに浮いた話はないのかしら」
眞箏は苦笑いし、手紙を懐にしまった。
日がだんだん短くなり、空が茜色に染まるのが早くなった。眞箏は西日に顔をしかめながら大通りを歩いた。太陽を背に近づいてくる人影が目に入らなかった。
「風野さん」
「つ、月岡さん」
もっと早く気づいていれば、眞箏は知らないふりをしてすれ違うつもりだった。彼女は柊平の影に入り目を見開いた。彼がいつもより大きく見えた。
「元気にしてましたか」
「ええ、お陰様で」
その返事はなんとなく皮肉に聞こえた。二人はしばらく口を閉ざし立ち尽くす。
「村から来た人は?」
「もうとっくに帰りました。それがなにか?」
「いえ、べつに」
「今日は文子さんと一緒じゃないんですね」
「それがなにか」
「いいえべつに」
二人は我慢できず腹を抱えて笑い出した。道行く人が怪訝そうに振り返るほどだった。
「笛の稽古に来ないから心配しました」
「師匠の気まぐれで、修練所でも朝練をやっていたんだ」
「上達しましたか?」
「そんなすぐには上手くならないよ」
「そうでしょうか。私は月岡さんと稽古するようになって急に調子が良くなりました」
「僕もたくさん刺激をもらったよ」
「今から池まで吹きに行きません?」
「いいね」
道すがら、眞箏は正造のことを話した。柊平もそれに応じ、文子とは何もない事を再び強調した。
「お盆に帰省したら、やっぱりお見合いの話があったそうだ。その気はないなんて言ってたけど、まんざらでもない様子だったよ」
「文子さんならきれいでおしとやかだし、どこに行っても引く手あまたでしょうね」
「だからどうして僕を見るんだい」
彼らは日が沈み月が昇るまで池の畔で合奏した。水面にさざなみが立ち、空の銀河のように綺羅びやかに輝いた。
眞箏は柊平に恋していることを自覚した。
彼女は彼のことばかり考えた。笛は春を叫んだ。世界は二人のためだけの舞台になった。
夏はあっけなく去り、もう戻ってこなかった。蝉の声がピタッと途絶えた。日が小さくなり、空が高くなった。涼しい落ち着いた天気が続いた。もっと気温が下がって女山が赤や黄に美しく色づけば遊山客も戻ってくることだろう。
幸い眞箏は大忙しだった。農家に頼まれ、毎日のように田畑を巡り、笛でスズメや害虫を追い払った。仕事を終えて横丁に戻ると、いつも子供たちが待っていた。
「眞箏ねえちゃん遊ぼうよ」
「今日も山に連れてって」
秋の山は自然の恵みが多いが、それを好むのは人間だけではない。眞箏は子供を連れて男山に入り、六寸管で高い音を出しながら、熊に自分たちの存在を知らせた。彼女のおかげで大人も子供も安心だった。彼女はあけびで乾いた口を湿らせながら獣乃調を吹いた。
柊平への思いが落ち着き、川のように細く長く、絶え間なく流れるようになった。生活圏が異なり、たまにしか顔を合わせなかったが、それでもわだかまりはなかった。むしろ会わないうちに心のつながりが強くなっていくようだった。一種の黙契、信頼があった。
眞箏は時どき、竹川流の修練所の門前に立った。彼女は音色を聞くだけで吹いているのが柊平だと分かった。最近の彼の音は充実し、円熟味があった。彼女は彼の人としての成長を喜んだ。それは自分のおかげだと知っていた。
「きっと私の笛も……」
秋の行楽シーズン前。眞箏が畑から戻ってくると、横丁の広場で柊平が待っていた。
「眞箏さん」
「柊平さん」
井戸端会議をしていた女性たちは若い二人に目を向け、「おやまあ」「お熱いこと」「隅に置けないわね」と高い声を出した。
「ど、どこか落ち着いて話ができるところはないかな」
「私の家に寄っていきますか」
「それは、まずいだろうね」
彼らは並んで温泉街を歩いた。眞箏は誰もが自分たちに注目しているような気がした。柊平もどこかそわそわし、すれ違う人々にぎこちなく会釈した。
「ずいぶん知り合いが多いんですね」
「子供のころからお世話になった人たちばかりだ」
「そう言えば家は旅館なんでしたっけ」
「うん。そこがそうだよ」
柊平の指の先には、「鯉の湯」の次に歴史と格式ある「うつせみの宿」があった。
「変わった名前ですね」
「旅先での出来事は夢か現か分からないけど、旅人にはかなくも美しい忘れがたい印象を残したい、そんな意味が込められているそうだよ」
「旅人か、私みたい」
「きみはもうここの人だろう」
彼らは温泉街を抜け、女山を登り、洞穴にたどり着いた。夕暮れ時にはまだ少し早く、日も風も温かい。
「ところで話って?」
「まずは久しぶりに稽古をしようか」
眞箏は帯から八寸管を抜き、この夏に覚えたばかりの流行歌を吹いた。歌詞を知らなかったが、それは愛し合う若者たちの心情を描いたものだった。荒波に揺られるように、彼女は全身を大きく動かし、心の中にしまっていた柊平への想いを表現した。それは聞き手に確実に伝わった。彼は大きくため息をつき、控えめに拍手をした。
「次は柊平さんの声を聞かせて」
竹川流の古い曲だった。本曲は吹き手に腕がなければ退屈になりがちだが、彼は巧みな技術、若者らしい力強さ、曲への深い理解から生まれる表現欲により、雄壮なる山並みに大河が流れるごとく堂々と吹き切った。眞箏は聞いているうちに曲想をつかむことができた。
「決意が感じられますね。なにかまさにこれから戦に行くような」
「朝の船唄っていう曲なんだ。朝早くから旅に出る若者の心情を描いている」
「柊平さん?」
「僕も、卒業したら鯉泉を出ることにした」
「どうして」
「親から離れ、独り立ちし、厳しい世の中を知るために」
「わざわざ苦労しなくても」
「このままでは僕は変われない。外で自分の力を試し、転んでも起き上がり、もっと強い人間になりたい」
「それじゃあ、私はどうなるの?」
「今の僕はきみにふさわしくない。きみのためにも、僕はどうしても一人で修行をしなければならないんだ」
「そんなの勝手よ」
麓の温泉街の方に滑空していたトンビが戻り、女山の高い木にとまった。にわかに風が吹き、山が震える。
「僕は男になる。決めたんだ」
彼はまた同じ曲を吹いた。迷いが晴れ、さっきより澄んだ音がし、よりいっそう朝らしかった。眞箏は泣けてきた。きっとこの人は立派になるだろう。しかし……
「私のことなんて忘れちゃうんでしょう」
「忘れられるはずがないだろう」
彼女はそう信じたかった。正造だって富子のことをずっと想っていたではないか。
「もっといい人が見つかったら、私なんかより美人でお金もちで心優しい人が現れたら?」
「そんな人はこの世にいない。だって、僕はきみと結ばれるって決めたんだから」
彼は彼女を抱き寄せた。風がやみ、山全体が静まり返った。彼女には彼の胸の鼓動が聞こえ、かすかに伝わってきた。ずっとそれを聞き、感じていたかった。手放したくない大切な人。彼女は彼の胸にしがみついた。彼は彼女の頭、肩、背中をやさしくなでた。彼女の肩の震えがだんだん収まってきた。
眞箏はふと顔を上げた。もう泣かず、いたずらっぽい笑みを浮かべて。
「ふーん。でも柊平さんがいないうちに素敵な男の人と出会うかも」
「そ、そんなまさか」
「その人を好きになり、柊平さんのことを忘れるかも。分からないわよ」
「うっ……」
「さぁ、もう一回さっきの朝の船唄を吹いてみなさい」
彼は仕方なく尺八を構えた。吹いても音がかすれた。何度あごに当て直しても結果は同じだった。
代わりに彼女が吹いた。二回聞いただけだが、彼女は自分で工夫し変化を与えることで、旅立つ若者を見守る年老いた渡守の心を歌った。
「あなたを信じている。ただ、ずっとは待てないわよ」
「それまでどっちの笛が上達しているか競走だ」




