恋とは、愛とは
鯉泉の冬は寒かった。気温は低くないが湿っぽく、雪がどっさり降った。それでも遊山客が途絶えることはなかった。温泉街の人も長屋の人も朝早くから雪下ろしと雪かきをした。他所から来た客は滑りにくい藁沓を履き町の内外を歩いた。雪に覆われた女山の神社と参道は初詣客で大賑わいだった。正月と節分が終わると客が少なくなった。雪も降らない日が増え、人々の負担が減った。旅館は部屋や設備の修繕に勤しみ、長屋の住民は冬にできる仕事に精を出した。屋根や木から雪がどさりとまとまって落ちた。眞箏が村を出てから一年がたとうとしていた。
彼女は心身ともに成長した。背が高くなり、指が伸び、八寸管も使いこなせるようになった。異郷での一人暮らしで雰囲気もぐんと大人びてきた。長屋の一員として何かと頼りにされていた。
春は誰もがそわそわする季節だ。冬中ずっと火鉢の前を離れようとしなかった老夫婦も外に出て、温かい日差しを背中に思う存分浴びつつ、道端に何気なく咲く花を愛でる。子供は喜びを体で表現し、理由なく飛び跳ね、意味をなさない大声をあげる。男の子は相撲を取り、女の子はおしゃべりをする。大人はもちろん仕事だ。農家は種をまき、苗を植え、元気に育ってくれよと念じながら水をやる。車夫は汽笛を合図に港に行き、船から降りてきた遊山客に愛想よく、粘り強く声をかける。旅館で働く人も、人力車を曳く音や女中頭の張り詰めた声で臨戦態勢に入る。
眞箏は遊山客が宿泊先に落ち着いた頃合いを見計らって小屋を出た。冬の間に貯金を使い果たしてしまい、お金を稼ぐ必要があった。
春の池は生気にあふれていた。巣に潜んでいたアリたちが行列を作り餌を運ぶ。蝶が対をなし野花の間をひらひら舞う。河津桜にメジロが集まり、蜜を吸い、ピーピーと愛らしくさえずる。アメンボが池の上を滑り波紋を広げる。
眞箏は畔に立ち、六寸管を手にし、即興で虫乃調と獣乃調を混ぜて高らかに吹いた。虫と鳥の声を模した音色に気づいた蝶と鳥が集まってきた。両肩にメジロが、着物の袖に蝶がとまった。桜の紫色の花びらが散り彼女の黒髪を彩った。最後に甲音を長く吹き、ユリをかけ余韻を残しつつ締めくくると、女山から吹き下ろしていた風がやみ、蝶と鳥が名残を惜しみつつそっと飛び立った。
「なんだありゃあ、手品かよ」
下校中の中学生だろう。男子二人は学生服を着て、女子二人は袴を履いている。眞箏は男一人の顔に見覚えがあった。竹川流という尺八の流派の門下生だ。
「まさに山の自然児ね」と、その男と並んで歩く女子が同調した。
「柊平と文子はどう思う?」
「どうもこうもない。生きるためならなんだってするさ」
「同じ年頃なのにもう働いていて偉いわ。私なんかまだまだ親に甘えっぱなしなのに」
四人が遠ざかり、後の会話は聞こえなかった。眞箏がぼんやり考え事をしていると、遊山客がぞろぞろと散歩に出てきた。彼女は春にふさわしい流行歌を吹いた。たちまち人が集まってきた。
「お人形さんみたいにかわいい子ね」
「女の子なのに、なかなかどうして上手いよ」
吹き終わると恭しく合掌した。春はお布施の集まりがいい。彼女は重くなった鉢を抱え横丁に戻り、雑貨屋で新しい茶碗を購入した。
その夜は無性に富子や正造が懐かしくなり、たまらず手紙を書いた。きっと学生たちを見たからだろう。もし村にも中学校があれば、あるいは富子の婚約者の幸作のように町に進学していれば、今ごろはまだ同じ年頃の子供たちと学び、遊んでいたに違いない。眞箏は寂しくもあり、少しだけ誇らしくもあった。
「次に富子に会う時にはもう立派なお嫁さんになっているかもしれない。私だって負けてられないわ」
春は眞箏にとって書き入れ時だ。毎日の午後、池の畔に立った。彼女は遊山客の間ではちょっとした有名人、いわば風物詩で、わざわざ聞きに来る人も多かった。美しい笛の音は旅先での憩いのひとときに興を添えた。
街中の学校の鐘が鳴った。空気の振動が笛を持つ眞箏の指に伝わる。彼女はむず痒さを覚えながらも吹き続けた。
「おや、今日もいるぞ」
昨日の四人組だ。近くをよく通るのだろう。
「おい柊平、なんとか言ってやれよ」
「なんとかって?」
「竹川流のお膝元で女が笛なんか吹くなと」
「そうよ。先生の秘蔵っ子が黙って見ているなんて」
「それもそうか。あいさつしてこよう」
曲が終わり遊山客が去った後、柊平という男子は眞箏に歩み寄った。見頃を過ぎた河津桜と、その花びらが散った野原が、午後の空を碧くしていた。
「竹川流の月岡柊平です。よろしく」
「風野眞箏といいます」
「きれいな音だね。誰から習ったの?」
「大叔父から教えてもらいました。大した腕ではありません」
「分かっているとは思うけど、他流の人、それも女の子が公衆の面前で尺八を吹き、托鉢をすることを快く思わない人も多い」
「は、はい」
「ましてやきみは大抵の門下生よりも上手だ。だから……」
「おい、いつまで話してんだ?」
「彼みたいに嫉妬する男もいる。ただ、あんまり気にしないで」
柊平は帽子のつばをつまみ、目で軽く会釈した。眞箏はその目から密かな親しみのようなものを読み取った。
「きついことは言わなかったんでしょう?」と、文子が柊平に聞いた。
「うん。でも言うことは言ったよ」
眞箏は笛が上手という評価を素直に喜べた。しっかりした流派に引け目を感じていたから。お世辞ではなく誠意があったから。それに、人柄の良い美しい男女だったから。
柊平は背が高く、端正な顔立ちで、少し彫りが深かった。文子は小柄で痩せているが、頬だけは丸みを帯び、柔和な印象だ。きっと恋人同士に違いない、そうであってほしい。そう思えるほどお似合いな二人に見えた。
翌日は朝から雨だった。雨がぽつぽつ落ち、長屋の人々の声をかき消した。眞箏は小屋で小説を読んだ。いつもより物語に没頭できた。気づくといつの間にか雨が上がっていた。
「働けるうちに働かないと」
彼女は池の畔に立ちながら、今日も柊平や文子が来るのを心待ちにした。しかし学校の鐘が鳴っても二人は現れなかった。
「おい見ろよ。あれが例の女の尺八吹きだ」
見物に来る学生は増えた。長屋暮らしのある男子が、彼女の特殊能力に関する噂を広めたからだ。彼女が遊山客相手の托鉢を終えると、数人の学生が思い切って彼女に依頼を出した。
「数学が苦手なんだけど、成績を上げてくれないかしら」
「足を速くしてほしい」
「もっと明るい性格になりたいわ」
「首都の有名人に会いたいんだけど」
「そういうのはちょっと……」
「なんだよもったいぶって」
「だから嘘だって言ったでしょ」
眞箏はもはやこんな展開には慣れていた。初対面の現金な人の図々しさと薄情さにも。
しかし月岡柊平から恋愛相談された時はさすがに驚きを隠せなかった。
その日の彼は文子を連れず一人で池の畔にやってきた。学生帽が彼の顔に影を作り、表情をやや硬くしていた。彼は眞箏の演奏が終わるまで人の輪の外で待った。彼女はどうしたのだろうと思いながら吹き続けた。
夕方になった。水面を冷たく湿った風が渡り柳を揺らす。茜色の空に黒いカラスが数羽連なって飛ぶ。一番星が瞬く。遊山客は懐に手を入れ一人また一人と立ち去る。最後に残ったのは柊平だった。
「あの、何かご用ですか?」
「きみは笛の力で心を操れるそうだね」
「そんな大げさなことではありません。励ましたり、勇気づけたり、悲しみを癒やしたり。楽器を嗜む人でしたら誰でもやっていることです」
「そうか。実は僕の友達がある女の人に恋してるんだけど、その縁結びに力を貸してほしいんだ」
「縁結び? わ、私なんかにできるとは思えません。だって恋なんて……」
「二人とも相手を想い、慕っている。それなのに一歩踏み出せない。だったら踏み出すべきは男の方だよね」
「それはまあそうでしょう」
「きみは笛で彼の背中を押してあげるだけでいいんだ」
「でも……」
「あら、ここにいたのね」
眞箏が顔を上げ、柊平が振り返ると、そこには文子がいた。夕暮れ時の彼女は楚々として見える。
「き、きみか」
「何の相談?」
「いや、なんでもない。ちょっと演奏で気になった技術があったから聞いてただけさ」
「そうだったの。笛となると熱心ね」
「きみもこんな時間にどうしてここに?」
「なんとなく池の周りを歩きたかったの。寒くなってきたから一緒に帰りましょう」
柊平は「うん」と返事をしてから、眞箏に目配せをし、文子と二人で温泉街の方に歩いていった。
眞箏は横丁の物置小屋に戻り、夕飯を食べ、床に上がった。柊平の友達。彼女にはそれが彼自身にしか思えなかった。告白をしたい相手は文子だろう。二人はまだ恋仲になっていない、だったら縁結びとやらに力を貸したい。ただし本当にそれでいいのだろうか。柊平はそれでいいと思っているのか。
彼女は歯がゆかった。
それから数日、彼女は池の方に行かず横丁で時を過ごした。朝は女の人たちと洗濯をし、昼は誰かの依頼で仕事をするか、末吉や子供たちと遊んだ。夕方は銭湯で垢を落とした。川辺を歩きながら髪を乾かしていると、木の橋に立つ月岡柊平が手招きをした。
「こっちの方で暮らしているって聞いて」
「月岡さんは?」
眞箏は初めて柊平のことを詳しく知った。彼は鯉泉中学校に通う、今度五年生になる学生で、彼女より三つ年上だった。大きな旅館の三男坊と、裕福だが気楽な立場だ。尺八は幼い頃から習っているという。
「名門の師範代だなんて、すごいんですね」
「他に取り柄がないから」
柊平はしばらく笛について話をした。眞箏にとって興味深い内容だが、彼はいつまで依頼と関係ないことを喋る気だろうか。
「あの、例の友達の件ですが」
「そうだった。どう、考えてくれた?」
「はい。私はやっぱり、お手伝いできそうにありません」
「どうして?」
沈む夕日が男山を真っ黒にし、切り立った輪郭をくっきり浮かび上がらせる。たなびく薄雲が藤色に染まり、夜の気配を帯びた幻想的な光を地上に投げかける。橋の上に立つのは歳が少し離れた男女。背が高い方は佇み、低い方は手振りを加えて強く訴える。
「だってそんなのぜんぜん男らしくありませんから」
「いや、そういうことじゃなくて」
「自分の力で告白しないと文子さんがかわいそうです。月岡さん、もっとしっかりしてください」
「ちょっと待った。きみは何か勘違いしているようだ」
「え?」
「僕と文子さんは幼馴染で親しくしている友達だ。男女の感情はない」
橋に立つ二人。一人は欄干に寄りかかりながら説明する。もう一人は欄干に手を置き、水面の照り返しに目を細め、顔を赤らめる。
「早とちりしてすみませんでした」
翌日の午後。眞箏、柊平、文子の三人は温泉街で待ち合わせをした。
「僕が男子の方を、文子さんが女子の方を誘い出すから、きみは海で待っていてほしい」
男子は田舎から出てきた人で、遠い親戚の家で書生をしている。女子は鯉泉有数の資産家の箱入り娘で、父の知人から何度もお見合いの誘いが来ているが、一度も会わずすべて断っている。
「僕の友達は、自分には告白する資格がない、すれば彼女を不幸にしてしまうって心配している」
「あら、そんなこと」
「それがあるんだ。彼女のお父さんは彼の目的をお金だと思うだろう。実際にそういう男が彼女の周りにいるからね。品行方正な町の御曹司と結ばれてほしい、それが親心さ」
「だって、二人とも愛し合っているなら、その気持ちを素直に伝えないと前に進めないのに」
「そのとおりさ。どう、協力する気になった?」
眞箏は浜の岩陰に身を潜めた。春の海はまだ寒く、ただ寄せては返す波の音が一面に広がるだけ。自分のことではないのに緊張し、胸が騒いだ。
先に来たのは女子だった。箱入り娘と聞いたが質素な服装で、勝ち気な顔をしている。彼女は裸足になって水に入り、冷たさに驚き「きゃっ」と高い声をあげる。白い脛が水に濡れて輝く。一人で満ち足りた時を送る彼女には飾り気のない美しさがあった。
堤防に立つ男子は浜に下りようとせず、女子の後ろ姿を遠く眺めるだけだった。もう何年も着ている学生服はしわになり、所々ほつれている。その目は太陽よりも激しく燃え、握りしめた両手は決意の重さに耐えようとぶるぶる震えているが、足はしっかり地についている。
その男子は握っていた手を開き、帽子を脱ぎ、ついに歩き出した。浜に下りると早足になった。名前を呼んだのだろう。水と戯れていた女子は振り返り、一人でいた時と同じ笑顔を見せた。
二人は抱き合い、動かなくなった。雲一つない午後の最も青い空。時が止まり永遠になった。
眞箏は笛を帯に戻した。
鯉泉の郵便局は小中学校の近くにある。眞箏はそこで手紙を出し終わった後、懐かしい気持ちで小学校の周りを歩いた。横丁とは違う富裕層の住宅街には、広い庭を備えた立派な一戸建てが並んでいた。眞箏はある門の前で足を止めた。木の看板には「竹川流尺八修練所」と太く書かれ、その隣には「見学自由」との貼り紙がある。彼女はこっそり敷地内に入った。
池付きの庭園の奥、雨戸が開かれた大部屋には、男ばかりの門下生が正座している。指名された人が前に出て、一人で課題曲を演奏する。終わり、がやがやと騒がしくなる。しかし師範代の月岡柊平が口を開くとしんと静まり返る。さっきの演奏について短く論評した後、柊平は手元の尺八を取り、穏やかだが威厳のある顔つきになる。眞箏は固唾を呑んで見守った。
彼女は呆気にとられた。彼の演奏には幼い頃からの質の高い努力の蓄積、名門としての気風、そう吹かなければならない確かな説得力といったものがある。非の打ち所はないが、何か物足りない。彼の声で歌っていないのだった。
「月岡さんってどういう人なんだろう?」
晩春の夕方。眞箏はまだ長くない自分の影を追うようにして横丁に向かった。
夏が近づいてきたからだろうか、広場に集まった住民たちは怪談の話で持ち切りだった。
「本当に出たのよ幽霊が」
「急に棚だけがガタガタ揺れ始めたんじゃ。あれはあやかしに違いない」
「今年も墓場まで肝試しに行こうぜ」
ふと、広場に見慣れない人が入ってきた。
「すみません。このあたりの長屋に風野眞箏さんという方がお住まいと聞きましたが」
「ほら、あの子がそうよ」
黒い背広を着てヒゲをたくわえた、いかにも執事然としている中年男性は、眞箏に恭しく頭を下げた。
「実は仕事のお願いがありまして」
「はい。どんなご依頼か仰ってください」
「ここでは人目もありますので……」
眞箏はその人の後についていった。横丁を離れ、大通りを歩き、さらにさっきの住宅街を抜ける。執事は遠くの小高い丘にぽつんと佇む洋館を指さした。
「あそこです」
「遠いですし、今日はもう遅いので、明日にしてもらえますか」
「そうはまいりません、夜が特にひどいのです。あそこに車夫を待たせておりますのでお乗りください」
眞箏は初めて乗る人力車に揺られつつ、何から雲行きが怪しくなってきたぞと思った。
レンガに瓦葺屋根という和洋折衷の洋館はいびつに見える。夕日で陰影がはっきりし、どこか不気味だ。執事と眞箏は門前で車を降り、広い芝生の中に敷かれた通路を渡る。庭にありがちな置物、花壇、植木鉢、木々などはなく、耳に痛いほどの静けさだけが広がる。ここで虫乃調を吹いたとしても一匹も寄り付かないだろう。
「きゃっ」
洋館の扉が勝手に「ギィ」と音をたてて開いた。日当たりが悪く人気のないホールはぞっとするほど寒かった。正面の階段は踊り場で左右対称に分かれ、機能的だが無機質で冷たい印象を与える。しかも絨毯が敷かれているから足音一つしない。慣れていない眞箏は足を取られて前に転びそうになった。
「さぁ、ここが旦那様の寝室です」
部屋の奥の窓辺にはベッドという天蓋つきの立派な床が置かれていた。顔だけを出して横になっている家の主は高熱が出ているのか、ひどくうなされている。
「私なんかではなくお医者様を呼んだほうが」
「呼びました。ですが何の病気もないと言い、首を傾げるばかりなのです」
主は目をつぶったまま叫び出した。
「私をこれ以上苦しめないでくれ!」
「あの人はいったい何を?」
「それについては下で話しましょう」
二人は一階の応接間に入った。茶でも出そうなものだが、使用人が働いている気配はない。
「このお屋敷には誰もいないのですか」
「私と旦那様だけです。みんな怖がって逃げてしまいました」
執事は主にあったことを話し始めた。
主は若い頃に過ちを犯した。屋敷の中で生まれ育った彼は世間知らずだった。彼の世界は屋敷という小さな社会の中で完結していた。
成人する前にひとり親の父が亡くなり、莫大な遺産が残された。彼は父が信頼する知人に運用を任せ、自分は屋敷での生活を続けた。出された料理を食べ、部屋で本を読み、たまに気晴らしに執事と話をした。
彼は生き物が好きだった。家の裏の木に巣箱をかけ、小鳥に餌をやり、手懐けた。庭に迷い込んだタヌキをかわいがった。野良猫の集会を観察した。彼は部屋で、赤ん坊のような猫の鳴き声をよく耳にした。
コンコン。
執事が新しく来た女中を紹介に来た。小学校を卒業したばかりの子供だった。
「お稲という名前でした」
その名を聞いた時、主は秋風が吹く、刈り取りを終えたばかりの田んぼを思い浮かべた。香ばしい匂いが漂い、スズメの群れが舞い降りた。
彼は椅子から立ち上がり彼女に握手した。干した藁のように温かく、ふかふかした手だった。
主はよく部屋にお稲を呼び、一緒にすごろくや札遊びなどを楽しんだ。学校に通わなかった彼は子供に親しみを覚えた。自分の好きなことをぜんぶ教えたかった。彼はお気に入りの本を貸してやった。外の空気が吸いたくなると一緒に庭に出ようとした。
「私には仕事がありますから」
お稲は主以上にこもりがちだった。洗濯などは他の女中に任せ、日差しを恐れるかのように、もっぱら屋敷の中で住み込みで働いた。
「本当に面白い本でした」
「それは良かった。次はこれを読んでごらん」
「主は二十歳、お稲はまだ十三歳でした」
未熟な主は熱に浮かされたようにお稲を愛でた。身寄りのないお稲は主一人を頼りにし、すべてを捧げて愛した。主が珍しく家を留守にすると落ち着かず、仕事も手につかなかった。二人の間に何があったかは誰の目にも明らかだった。
数日後、主は貴婦人とその家族を連れて屋敷に戻った。女中たちは歓迎の宴の準備に大忙しだった。お稲も配膳のため何度も食堂を出入りした。美しい女性は主と隣り合って座り、笑みを交わした。
「あの人と婚約したそうよ」
「これから働きにくくなるわね」
お稲は姿を消した。主は動転し、一人で屋敷を飛び出し、辺りを探し回った。
「妾にしようと思っていたのに」
落ち着きを取り戻した主は妻と結ばれた。幸せな日々。彼は徐々にお稲のことを忘れていった。妻が身ごもると、未来の生活に希望を抱いた。
「子供のために私もそろそろしっかりしないと」
彼は父の知人に一括で報酬を支払い、家の事業を一手に引き受けた。忙しく働き始めた。人を呼び、人に会いに行った。屋敷の外で過ごす時間の方が長くなった。仕事をしない時は妻に寄り添い、大きくなったお腹に耳を当てた。
「男の子と女の子のどっちがいい?」
「きみに似た女の子がいい」
危険な流産だった。医者からは二度と子作りをしないよう注意された。夫婦は泣いて悲しんだ。
しかし若い二人はまだ諦めきれなかった。自分たちだけは大丈夫という根拠なき自信があった。主は妻が健康を取り戻すのを待つ間、必死に働くことで不幸を忘れようとした。
やがて妻は再び身ごもった。経過も良好だった。お腹の子は順調に育ち、だんだん大きくなっていった。妻はベッドに寝ながら子供のおむつや服を編んだ。予定日が近づいてくると、主は外出せず家で過ごすようになった。経験豊富な産婆と医者を呼び、自宅での出産に備えた。
「ところが今度は死産で、母体も助かりませんでした」
妻の部屋から聞こえるうめき声が低くなり、消えた。赤ちゃんの泣き声も聞こえなかった。主は執事たちの制止を振り切り部屋に入った。顔面蒼白の妻。産婆は赤ちゃんの体についた血を布でこすり取る。中から出てきたのは肉の塊ではなく濡れた毛の玉だった。
「奇形児だったそうよ」
「あれはきっとお稲の恨みね」
妻と子を一気に失った主は放心した。こんな精神状態では仕事どころではなかった。彼は着手したばかりの事業を手放した。さらに怪しい占い師たちが屋敷を訪れ、巧みな話術で彼から金をだまし取った。財産は減る一方だった。男たちは主に愛想を尽かし、女たちは呪いを怖がり、一人また一人と去っていった。
「私は旦那様が生まれる前からこの家に仕えています。見捨てるわけにはいきません」
寝たきりの主はまだ三十代のはずだが、髪が白くなり、やせ衰えている。抜けた歯の間から息が漏れる音が哀れだ。
「お稲が死に、成仏できず、化けて出て旦那様を苦しめているに違いありません」
「それはどちらにとっても辛いことですね」
執事によると、お稲の幽霊はいつも丑三つ時になると屋敷を訪れ、主を悩ませるという。眞箏は執事が出してくれた簡単な夕食を取り、その時を待った。
屋敷の時計の鐘が鳴り、眞箏は執事と共に主の部屋に入った。彼女はベッドの隣に立ち、八寸管を手にし、まだ一度も実戦で試したことのない「霊乃調」を吹いた。聞くだけで気が滅入る曲だった。弱々しいムラ息は病人の咳のよう。か細い甲音は緩んだ弦のようにぷつりと切れる。管尻から薄い緑色の煙が立ち昇り、主のベッドを取り囲む。
「これで悪霊はひとまず近寄れないはずです」
その言葉通り、主は一度も目を覚ますことなく安らかに眠った。
翌朝。執事は眞箏に十分に礼をして帰そうとした。
「まだ安心できません。数日は様子を見に来ましょう」
彼女は一旦帰宅し、夕方過ぎにまた屋敷に戻ってきた。
「今夜も出るでしょうか」
「分かりません。とにかく夜を待ちましょう」
今宵も時計の鐘が鳴った。眞箏と執事は固唾をのんで主の様子を見守る。ふと、窓と扉を閉め切っているのに背筋が寒くなる風が吹き込んだ。主の顔色がみるみる悪くなり、枯れた声で叫び出した。
「頼む、来るな、近寄るな!」
眞箏は慌てて帯から笛を抜き、吹いた。主に取り憑こうとしていた冷気が煙に追い散らされた。
「お願いだからもう勘弁してくれ……」
主は疲労困憊し、気絶するように眠りについた。
「これではきりがありませんな」
「お稲さんは何が望みなのでしょうか」
「復讐、でしょうか」
眞箏には信じられなかった。一度は愛し合っていたはずなのに。
「それではあんまりです」
彼女はなんとかしようと思った。追い払うだけでは一時しのぎにしかならない。
「お稲さんの気持ちを聞かないと」
翌日の夜もお稲さんの霊がどこからともなく寝室に現れた。主はすぐさま気配を察し、恐れおののいた。
「は、早く笛を」と執事が促した。
「少し待ってください」
秋の木枯らしより冷たい風が布団を揺らした。主は痙攣を起こし、気を失った。眞箏はようやく帯から尺八を抜き、心乃調を吹き、主の夢の中に入り込んだ。
彼女は暗い穴の底で懐かしい匂いをかいだ。匂いのもとをたどると、そこには自分と同じぐらいの歳の女の子がいた。お稲は目に涙をたたえていた。
「どうして、どうして旦那様を苦しめるの?」
「私を玩具みたいにもてあそび、捨てて顧みなかったから」
「だからってやりすぎよ。罪のない奥さんや赤ちゃんの命まで奪うなんて」
「……忘れることだけは絶対に許せなかった」
「えっ?」
「私のことを覚えていれば、いつかまた愛してくれるかもと思ったから」
眞箏は涙を流した。この哀れな魂を鎮めなければ。
彼女は獣乃調を無我夢中で吹いた。先祖の霊が乗り移り、笛は彼女がかつて出したことのない音を出した。物悲しい鳴き声、なのにどこか温かい。母が痛めつけられた子をその懐に抱き、舌で何度も丁寧に舐め、やさしく慰めるかのようだった。
お稲は身を丸め、赤茶けた毛の玉になり、母の胎内に戻っていった。
母はすっくと立ち上がり、箒のように大きな九つの尾を振り、眞箏に慈しみ深い笑みを浮かべた。
「ありがとう」
起きるともう朝だった。眞箏は別の寝室のベッドに横になっていた。
「大変なんです。主が外出するといって聞かなくて」
主はもう着替えを済まし、一階のホールに立っていた。やつれてはいるが目の力は強い。
「どこに行くんですか?」と眞箏は聞いた。
「墓へ。妻と子と、それからお稲の」




