失敗
それから一週間、眞箏は横丁に近い掲示板のそばに立った。
今や彼女は長屋の住民たちに名前と顔を知られていた。彼女は鉢を置かず、尺八の稽古をしながら依頼を待った。一日にだいたい二、三件の用事があった。村にいた時と同じで作物に関する悩み事ばかりだった。野ネズミやモグラを追い払い、肉や野菜などを報酬として受け取った。
横丁での仕事が落ち着くと、温泉街の方にも足を伸ばした。梅雨前で毎日いい天気が続いていた。遊山客は仕事のない高齢者か、若い遊び人ばかりだった。眞箏は大通りから近い池沿いにある立派な枝垂れ柳の下で托鉢をした。そこなら商売の邪魔にならず、また散策に来る客も多かった。彼女は彼らの要望に応じどんな曲でも吹いた。鯉泉にいても首都の音楽の流行が手に取るように分かった。
彼らは尺八を吹く珍しい少女に気前よく施しをした。彼女はそれで小屋に必要な生活用品を買い揃えた。当面必要なお金が貯まると、彼女は住民の手伝いに戻った。こうして掲示板前と池の間を行き来する生活が始まった。
「えーん、ぼくの竹とんぼがなくなっちゃったよ!」
ある日の午後。掲示板前で七歳ぐらいの男の子が眞箏にすがりついた。彼女は頭を撫でてやりながら、「お姉ちゃんが一緒に探してあげるね」と言った。
彼女は男の子からその玩具にまつわる話を聞いた。亡くなったじいちゃんが五歳の時に作ってくれた。大切に使っていたけど風でどこかに飛んでいってしまった。妹と楽しく遊んだ思い出もあるのに。
「お父さんがはしごを使って屋根に上がったけど見つからなかったんだ」
眞箏は男の子を連れて長屋の間を歩きながら「尋乃調」を吹いた。甲音を糸のように細く長く鳴らして。しばらく吹いても音に変化はなかった。
「本当にこっちにはないようね」
そのまま温泉街の方に行くと音が揺れ、少しだけ大きくなった。眞箏は道の真ん中に立ち、吹きながらその場でゆっくり一回転した。
「きっと港のほうね」
暗くならないうちに首都に帰ろうとする人々で港は混雑していた。西日が波に跳ね返り、船底に金色のまだら模様を投げかける。行商人は船を待つ乗客にどこにでもあるようなお土産を売る。汽笛が鳴り、大きな汽船がゆっくり港を離れる。
眞箏は甲音から乙音に切り替えた。乙音はより近くの探し物に適している。音の揺れ幅が広がった。
「あ、あった!」
男の子は彼より小さい兄妹を指さした。兄が古く黄ばんだ竹とんぼを持っている。
「それぼくのだ!」
眞箏が止める間もなく男の子が駆け出し、奪い返した。兄妹は呆気にとられている。眞箏は彼らに事情を説明した。小さい妹は聞いているうちに泣き出した。
「でも、でも、私が見つけたんだもん」
男の子は哀れになってきた。
「きっと大切にしてくれる?」
「うん」
男の子は無言でその妹に竹とんぼを握らせた。
「ありがとうお兄ちゃん!」
兄妹は買い物から戻った親と共に船に乗った。兄妹は甲板に立ち、見えなくなるまで男の子と眞箏に手を振った。
「本当に良かったの?」
「うん。じいちゃんも喜んでくれると思う」
彼の手には祖父の温もりが確かに残っていた。
眞箏は横丁に戻った。季節の野菜と果物が軒先まで並ぶ八百屋には近所の女性が集まっていた。
「あらマコちゃん、お買い物?」
彼女にはもう親しみを込めたあだ名がついていた。
「はい。七輪で雑炊を作ろうかと思って」
「今日は卵が手に入ったからお裾分けよ」
「ありがとうございます」
眞箏は食料が入った籠を慎重に持ち、自宅となった物置小屋に戻った。外で七輪の火を起こし、手でちぎった野菜と味噌を入れ、腰掛けに座りながらグツグツ煮る。長屋はどこも夕食の準備中で、炊煙でけぶった低い空に、まな板の上でトントンザクザクと野菜を切る小気味よい音が響く。眞箏は七輪をうちわで扇ぎ、仕事から帰ってきた男の人たちにあいさつしながら、早いうちに包丁を買わなければと思った。
夜は小屋の行灯に火を入れた。狭いからそれだけでも明るくなった。彼女は畳に上がり、小さい机を前にし筆をとった。母へ無事にやっていますという一報をしたため、生活の足しにしてもらう紙幣と共に封筒に包む。次に富子へ。自分の報告は短めにし、富子や村の暮らしに関心を示す。最後に正造へ。少しだけ見栄を張り、ここでの自分の活躍ぶりを記す。子供の頃と同じ屈託ない笑みが自然と漏れる。
まだ眠くならないので、眞箏は実家の蔵で見つけた謎の譜面を広げた。心乃調を上巻から小声で歌う。やはり大叔父に教えてもらったものとはまったく違う曲で、しかもより古いためか読みにくく難解だ。上巻の唱譜をなんとなく終え下巻に入る。ところが上巻と下巻の間につながりはなく、下巻は上巻を編曲したもののようだった。
ぶつぶつ歌っているうちに眠くなってきた。催眠効果はあるらしかった。
梅雨が明け夏になった。海沿いの鯉泉は平均気温が低く、海水浴や温泉で汗を流せるので、避暑客で賑わった。洒落た涼しい洋服を着た都会人が日傘を片手に温泉街を闊歩する季節だった。
眞箏も海水浴を心待ちにしていた。山の村では夏になると友達とよく川遊びをしたものだった。鯉泉に来る人々は海をどのように楽しむのだろうか。
彼女は仕事を休みにして浜に出た。まだ涼しい朝だった。裸足で踏む砂は温かく、きめ細やかで、ふかふかしていた。ごつごつした川底とはまったく違う感触に心が浮き立った。波がヤドカリを運んできた。その家を背負った不思議な生き物は滑稽な姿で浜辺を歩いた。
青空を背にし海に浮かぶ雲は質感を伴うほど白く濃かった。彼女はさまざまな形をした雲がズズズと動くのを飽きもせず眺めた。やがて子供の笑い声が聞こえてきた。朝寝坊の遊山客が遅い朝食を終え出てくるころだった。眞箏は振り返り、彼らを観察した。
女性はみな温泉街で買った縞模様の水着に、大きな麦わら帽子をかぶっている。男性の多くは大きなパンツかふんどしをはいている。小さな子供はみな素っ裸だ。眞箏は普段着で来たことを後悔した。
子供たちは海に向かい一目散に駆け出した。仲間内で、あるいは歳の近い子たちと水かけ遊びをする。泳ぎの達者な子は魚や蛙のようにスイスイ泳ぐ。大人たちも水に入るが、泳ぐでもなく遊ぶでもなくじっとし、気が向けば家族や他の客と話をする。まるで湯に浸かるかのように。
眞箏は裾を上げて海に進んだ。濡れた砂が生ぬるく指と指の間に入った。波が足裏についた砂を絶えず洗い落とす。彼女は足で水を蹴り上げた。水滴が空にきらめいた。何度もそうしているうちに顔も服も濡れてきた。だんだん大胆になり、もっと奥へ、深くへ進もうとした。
「マコちゃん」
振り返ると八百屋のおじさんがいた。二輪車にはスイカが山と積まれている。
「海の砂は細かいから、濡れると洗濯が大変だぞ。うちの子供もよくかかあに叱られるんだ」
彼女はしぶしぶ浜に引き返した。おじさんは小さく切ったスイカをくれた。甘くみずみずしい果実が乾いた喉を潤した。彼女はお礼に尺八で流行歌を吹いた。海水浴客がその音につられてスイカを買いに来た。
「地元の人なの?」
「ええ、一応は」
「かわいらしいお嬢さんだね」
「私にも一曲吹いてちょうだい」
「よかったらこれをかぶって」
眞箏は女物の笠をもらった。それは萌葱色の服、くすんだ色の尺八、白魚のような手によく合った。たちまち人だかりができた。
「この子は笛を吹いて人助けをしているんですよ。例えば……」と、八百屋のおじさんが代わりに説明した。
「へえ。それじゃあ金山も探せるのかい」
「顔の小じわを取ってもらいたいわ」
「うちの爺さんのしつこい夏風邪を治せるかしら」
「あいすくりんを食べさせてよ」
「さすがにそういうのはちょっと……」
「なんだつまらない」
人々は立ち去り、海に戻った。
「さて、おかげでスイカも売れたし引き揚げるか」
「私もそろそろ帰ります」
長く日を浴びたせいか、眞箏は少し足がふらついた。午後は小屋でゆっくり休むことにした。ところが床の上に横になって間もなく、引き戸を叩く音がした。
外には一目で遊山客と分かる洋服姿の女性が立っていた。この炎天下だというのにしっかり化粧をしている。
「海から戻ってきた人からあなたの噂を聞きました。長屋の人はここを訪ねろと」
「とにかく上がってください」
眞箏は畳に座り、客には自分の腰掛けを出した。女性は隙間風が漏れる小屋を不審そうな目つきで眺め回した。
「人探しをお願いできるかしら」
「はい。誰を探しますか」
「私の夫がいなくなったの」
夫婦は新婚旅行で鯉泉に来てもう三日目になる。今朝目を覚ますと夫が滞在先の旅館の部屋から消えていた。従業員に聞いても見なかったという。
「人さらいかもしれないわ。お願い、助けて」
「それは大変ですね。さっそく調べてみましょう」
二人は外に出た。眞箏は尺八を構えて尋乃調を吹く。温泉街の方向に反応があった。
「遠くには離れていないみたいですね」
午後の最も暑い時間帯だった。遊山客は海で涼むか部屋で休むかしている。街は不気味なほど静かで、強い日差しが瓦を熱し、道を焦がす音しかしない。眞箏は乙音を長く吹きつつ宿を一軒ずつ巡る。しばらくすると、竹筒が「うぉんうぉん」と鳴った。
「ここは宿泊中の旅館ですか」
「いえ、違うけど」
「そうですか。でもここにいらっしゃるみたいです」
女性は血相を変えてその旅館に駆け込み、番頭に激しく詰め寄った。番頭はペコペコしながら時どき眞箏に目を向け、睨みつけた。
「どうしたのかしら?」
彼女は道に立ち尽くした。すぐに旅館の中で物が壊れる音がした。半裸の若い女性が手拭いで胸を隠しつつ外に飛び出した。次に男の人が階段から転げ落ち、番頭にお金を渡し這々の体で逃げていった。何事かと人が集まってきた。ややあって、旅館からやっと依頼人が出てきた。
「探し人は見つかりましたか」
「見れば分かるでしょう」
「そ、それはよかった」
「ちっともよくないわよ!」
眞箏はとんでもないことをしでかしたと不安になり、心が乱れ、動けなくなった。
「なにいつまで突っ立って見てるのよ」と、依頼人は眞箏と野次馬に向かって言った。
「はい、あの、その……」
「あぁ、お金が欲しいのね。欲しけりゃやるわよ」
女性は金貨を一枚投げて自分の宿泊先に戻った。
眞箏は目が痛くなるまで、足元に落ちた眩しい金貨を見つめた。迷った挙げ句、それを拾い上げ、騒ぎがあった旅館の中に入った。
「これ、足りないかもしれませんが、迷惑料です」
彼女は一人で横丁に引き返した。西に沈む夕日が彼女の揺らめく影を細長く伸ばした。
小屋に入ると彼女は布団の上に倒れた。目を閉じても開いても頭がぐらぐらする。変な汗が頭や背中からどっと吹き出す。体がだるく力が出ない。喉が渇くが水を汲むのを忘れた。ついに吐き気までしてきた。彼女は横を向き、地面に吐いた。
「お、お母さん」
幸い彼女は若く、一晩安静にしたら回復し、立って歩けるようになった。彼女は朝早く井戸端にたどり着いた。朝日を浴びながら、体の隅々まで染み渡らせるように、柄杓でゆっくり水を飲んだ。井戸に寄りかかり、夏のウグイスの鳴き声を聞いた。少しだけ空腹を覚えた。桶に水を汲んで小屋に戻り、七輪を使い朝食を作った。
「おや、暑いのにおかゆなんて食べるのかい」と、洗濯に向かう通りすがりのおばさんが聞いた。
「はい。あんまり食欲がなくって」
「夏バテには気をつけるんだよ」
夏休みが終わり、暑さが一段落した。鯉泉はまた閑散期に入った。
眞箏は横丁にある貸本屋に足繁く通った。小さく目立たない店だが、学校から帰る子供で賑わった。男の子は冒険物語を、女の子は絵入りの雑誌を好んで立ち読みした。眞箏は小説を借り、明るいうちに熱心に読んだ。また古今東西のさまざまな楽譜を借り、読み方を覚え、尺八で吹いてみた。世界の広さを知ると外国にも興味が湧いてきた。時に海辺を歩き、遠洋漁業に向かう船が吐く煙を眺めた。故郷が懐かしかった。
温泉街でも顔が利くようになった。そこで働く人の多くが横丁で暮らしているからだ。わざわざ探しに行かなくても仕事が舞い込んだ。しかし眞箏は慎重だった。
「それはお困りでしょう。ですが、まずは警察にご相談ください」
仕事ではなく楽しみのために尺八を吹くことも忘れなかった。お気に入りの場所は鯉泉に来たばかりのころ、一時的に身を寄せた女山の洞穴だった。そこならば自分の笛の音だけに耳を澄ますことができた。彼女は、この自身の原点とも呼べる暗い穴から大きく羽ばたく気持ちで、外の空に向かい音をのびのびと伸ばした。
最初に働いた「鯉の湯」の人に誘われ、三曲合奏の稽古に行くこともあった。今や彼女は実力を認められ、三味線や箏の師匠からも一目置かれる存在だった。
「この町にも尺八の先生がいるの知ってる?」と、若く美しい舞手から聞かれた。
「いいえ」
「もう七十を超える人で、厳しく、門下生が少ないそうよ。あなたが知らなくても無理ないわ」
気温が下がり、外遊びする子供がまた増えてきた。横丁の井戸がある広場からはよく男の子や女の子の歓声が聞こえた。物置小屋で読書していた眞箏はその声につられるようにして外に出た。
放課後の午後は空気も軽い。真夏よりも薄い雲が空全体に広がり日差しを和らげる。セミはまだ盛んに鳴いているが、ある日を境にぱたりと途絶える予感がする。眞箏は童歌を吹き、子供たちに到着を告げる。
「あっ、眞箏姉ちゃんだ」
彼女は小学生たちの間で人気があった。天乃調でそよ風を起こし凧を揚げ、獣乃調でアオダイショウを手懐けるなど、面白いことをしてくれるからだ。彼らも代わりに鯉泉で流行っている遊びを教えた。
「お姉ちゃん、今日はまりつきで遊びましょう」
眞箏は自分より小さい女の子たちに教えてもらった。
「裾を上げて、それに動きにくそうだから笛も置いて」
眞箏は白い脛をむき出しにして、まりをついては蹴った。女の子たちほど上手にはいかず、何度も蹴りそこねた。まりを追いながら、女の子たちと一緒に広場を離れ、横丁の外に出ていった。
「あぁ楽しかった。教えてくれてありがとう」
「お姉ちゃん、どこか行くの?」
「このまま池まで笛を吹きに行くわ」
「広場に置きっぱなしよ」
「そうだった」
夕方前。昼寝を終えた年寄りや、夕飯の食材を買う女性が外に出て、帰りたがらず外で遊び続ける子供たちと共に横丁らしい喧騒を奏でる。
「ちょっと次郎どこ行くんだい」
「お吉さん、今日の晩ご飯は何かのう」
「次はけん玉やろうぜ」
「また野菜の値段が上がったわよ」
「ない、ない!」
騒ぎがぴたりと止んだ。眞箏は広場を駆け回り、木、井戸、腰掛けなど、細長い物を立てかけられる場所を手当たり次第に探した。
「いったいどうしたんだい?」と、心配になったおじいさんが聞いた。
「私の尺八が、二本とも、ないんです!」
夕日が沈み暗くなるまで探し続けたが、やはり見つからなかった。次の日も、そのまた次の日も。
愛用の尺八が手元にないことが当たり前になったころ、三毛猫を飼っている奥さんが物置小屋までやってきた。
「うちのミケちゃんを探した時みたいに笛で探せばいいじゃないの」
「でもその笛がなくなったから……」
「店で買うか、人から譲ってもらったら」
いつまでもくよくよしていられないので、助言に従うことにした。
眞箏は鯉泉で唯一の楽器店を訪れた。大通り沿いにあり、主に近くの旅館で使う三味線や箏を売り、その修繕を行う店だった。
「何をお探しかな?」と店主が聞いた。
「尺八をなくしてしまって。新しいものを買いたいのですが」
「少々値が張りますよ」
主はそう断り、奥の倉庫から六寸管を数本持ってきた。白みがかった黄色の真新しい笛ばかりだった。試奏すると、歌口の大きさや顎あたりの形が違うためか、ポイントがずれて音が出にくかった。
「尺八は難しいからね。すぐには吹けないよ」
「はぁ……」
値段も驚くほど高かった。眞箏は礼を言って店を出た。
次に質屋を訪れた。旅先でお金が入り用になる人が多いのだろう、大きく立派な店だった。中には全国各地で作られたさまざまな品物が並び、噂に聞く万国博覧会のようだった。
眞箏は「尺八はありますか?」と、店番のおばあさんに聞いた。
「ちょっと待っててね」
店の保存方法が悪かったのか、元からなのか、割れているものばかりだった。まともに吹ける六寸管は数本だけだった。
「一番安いのをください」
彼女は池沿いの枝垂れ柳の下に立ち、買ったばかりの笛を吹いてみた。三十分ほど試しても慣れず、音が思うように出てくれず、少し油断すると裏返るほどだった。癖のある厄介な楽器に彼女は悪戦苦闘した。
「あの腕で人前で演奏するなんていい度胸だ」
「流しで尺八を上手に吹く女がいるって聞いたけど、ただの噂だったな」
「あんなのとおれたちの竹川流を比べるなんて、横丁の連中の耳はどうかしてるんじゃないか」
眞箏が吹くのをやめて目を開くと、袋に入れた尺八を持った男三人組が立っていた。歳は彼女よりいくつか上か。得意そうな、厭味ったらしい、余裕たっぷりの笑みを浮かべている。彼女は顔が真っ赤になった。
「おい、女のくせに珍しいのを売りに尺八を吹くな」
「田舎の芸が鯉泉で通用すると思うなよ」
「おれたち竹川流以外は外道だ」
三人組はさんざんひどいことを言い、池を離れていった。眞箏も彼らとは別方向を歩き、長屋の小屋に帰り、布団をかぶって悔し泣きした。
次の日は小屋にこもり稽古をした。なんとかすべての音が出るようになったので、外を歩きながら尋乃調を吹いた。スカスカの甲音に雑音が混ざる方角へ、力なく耳障りな乙音が急にぶつっと切れる方角へ。横丁を離れ畑へ。野焼きの煙が立ち込めている。
「ま、まさか……」
彼女は必死に駆け出した。農家の男の人は竹で作った棒で火を叩いている。
「それ、見せてください」
「ちょっと邪魔だよ」
もちろん彼女の笛のはずがなかった。今の笛ではまだ尋乃調を使いこなせないらしい。彼女はがっくり肩を落として横丁に戻ろうとした。
ふと、どこかから声が聞こえてきた。眞箏は立ち止まって耳を澄ます。
「なんだよこれ、壊れてるんじゃないか」
彼女は秋のトウモロコシ畑の方に目を向けた。荒っぽい息が尺八の中を素通りする音が聞こえる。それは誰かに助けを求めているような音だった。
「ちぇっ、せっかく手に入れたのに吹けないんじゃ意味ないな」
「それどういうこと?」
「わっ!」
少年は茎の間からいきなり姿を現した眞箏に驚き、尻餅をついた。その手には蝶の彫刻が入った尺八があった。
「あなたね、私の笛を盗んだのは」
「盗んだんじゃなくて拾ったんだ」
「拾ったものを返さなければ盗みよ。さぁ!」
少年は案外素直に二本の尺八を返した。眞箏は久しぶりに戻ってきた笛を抱きしめ、口に添えた。質屋で買ったものと違って素直に吹けば鳴り、人が笛にではなく笛が人に合わせてくれるようだった。
「姉ちゃん上手だな。おれを弟子にしてくれよ」
「悪いけど弟子をとれる立場じゃないの」
「お願いだよ。母ちゃんに楽をさせてやりたいんだ」
眞箏はその末吉という少年と共に横丁に戻りながら話を聞いた。
末吉の父は去年、船で漁に出た時に嵐に巻き込まれ行方不明になった。今は彼の母が末吉とそのきょうだいを女手一つで育てている。一番年下の男の子は今年生まれたばかりで、毎晩夜泣きしては母を苦しめるという。
「だからさ、姉ちゃんの不思議な笛で新吉を落ち着かせたり、他にも何か家の役に立てられるかと思って」
「その心意気は立派だけど、盗みは本当に駄目よ」
「ごめんなさい」
「どうして最初から私に頼みに来なかったの」
「お礼を用意できないから」
「じゃあ私の小屋を代わりに掃除したら許してあげる」
長屋の狭い部屋の中には、末吉の一人の兄と二人の姉、それから弟の新吉を背負いながら内職の針仕事をする母がいた。奥にある窓を開け放しているが、空気が淀んでいる。
「あなたが噂の眞箏ちゃんだね」
「はい。末吉くんから、赤ちゃんが夜泣きすると聞きまして」
新吉は示し合わせたように目を覚まし、泣き出した。母は眞箏の前でも構わず胸を露わにし、赤ちゃんにお乳をやった。
「癇が強い子で、布団の上に寝かせるだけで泣くの。まったく誰に似たことやら」
眞箏は姿勢を正し、心乃調を吹いた。お乳を吸う赤ちゃんの息遣いを聞きながら自分が小さかったころを思い描いて。母の温もり、甘い匂い、子守唄が蘇る。傍らには父もいたような気がする。男らしい声、妻と子にかけるやさしい言葉。父は微笑み、「行ってくるね」と言った。
「あぁ、あなた……」
末吉の母は涙を流し、背中の赤ちゃんはすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。眞箏は口から笛を離し、赤ちゃん用の小さな布団に顔を向け、こくりと一つ頷き合図をした。
「こんなに素直に寝てくれるの初めて」と、布団をかぶって眠る我が子を見ながら母が言った。
眞箏は末吉と共に外に出た。彼はこのまま掃除に来てくれるという。
「さっきのは冗談よ。本気にしないで」
何度断っても末吉はついてきた。彼は眞箏に続き物置小屋に入った。粗末とはいえ整理整頓され、掃除の必要はなさそうだ。
「意外といいとこだね」
「悪くないでしょう」
「うちよりよっぽどマシだ」
「そんなことないわ。家族で身を寄せ合って暮らせるうちが幸せよ」
「姉ちゃんはどうして一人で?」
眞箏は風野家について簡単に説明した。
「私は女だけど、風野家の血を継ぐ最後の一人だから、旅をして人助けをしなければならないの」
「殿様に娘しかいないから婿を取って、その子供を後継ぎにするって昔話があるよね。姉ちゃんも結婚すれば」
「わ、私が? 誰と」
「村にだって男はいるだろ。親しい人はいないの?」
眞箏はすぐに正造の顔を思い浮かべた。ただただ懐かしく、彼と結ばれることなど考えられなかった。
「良かったらさ、大きくなったら、おれと結婚してくれよ」
「ちょっといきなり何を言うの」
「だって姉ちゃんやさしくて、きれいで、笛もうまいし」
末吉は少し恥ずかしそうに俯いた。眞箏はしげしげと彼の顔を見る。背が低いだけで、歳はそれほど離れていないようだ。
「ありがたいけど、ずっと鯉泉にいるとは限らないから」
「そっかぁ。そうだよな」
末吉を送り出した後、眞箏は壁にかけた小さな鏡の前に立った。純粋な称賛に悪い気はしなかった。
翌日も赤ちゃんの様子を見に行った。疳の虫が治まったようで、きょうだいに囲まれ畳の上をはいはいしていた。口からきらりとよだれが垂れ、周りを笑顔にした。眞箏はもう一度だけ心乃調を吹いた。演奏が終わると、窓の外で立ち聞きしていたおじいさんがこう言った。
「うちのばあさんも寝かせておくれ」
眞箏はおじいさんに連れられ、別の長屋の部屋に入った。彼女は匂いで病人がいることが分かった。
長く病気と戦ってきたのだろう、そのおばあさんはすでに死相が出ていた。目はくぼみ、頬はこけ、顔は土気色。安らかな死に顔をしていた大叔父とは大違いで、眞箏は胸を痛めた。
彼女は三日三晩吹き続けた。最後の日の朝、おばあさんは意識を取り戻し、おじいさんに長年世話になったと礼を言い、静かに息を引き取った。
「おかげで苦しまず逝くことができたよ。ありがとう」
眞箏は、この仕事をなんとか続けられそうだと思った。




