旅立ちと初仕事
旅立ちからわずか数日後、眞箏は山の麓の町に戻ってきた。
彼女は村を出た時と同じ萌葱色の着物姿だった。その服は皺が目立ち、帯も緩んでいた。二本の尺八は袋に入ったまま帯に差してあった。母にきれいに結ってもらった髪はほつれ、顔も煤で汚れていた。しかし目は輝きを失っていなかった。
首都では散々な目にあった。彼女は初日、駅前に立ち、足元に鉢を置き笛を吹いた。自分のことで忙しい人々は最初、彼女の存在にまったく気が付かなかった。通りすがりの年寄りが立ち止まった。その人はしきりに首を傾げ、こう呟いた。
「女だてらに尺八か」
やがて人だかりができた。眞箏は人々に歓迎されようと、親しみを込めて心乃調を吹いた。演奏を終え、笛を両手で横に持ち一礼したが、誰も施しをしようとしなかった。
「ちょっと、ここで托鉢は禁止だよ」
警棒を持った警官が現れた。眞箏が少女だと見ると交番に連れて行き、取り調べをした。彼女は自分の生まれ故郷、首都に来ることになったいきさつ、これからの予定を話した。
「人助けをして食べていくつもりです」
「きみは世の中のことがよく分かっていないようだね」
その中年男性は長々と説教した。笛で奇跡とやらを起こし、ちょっとした見返りしか求めない人など、この首都では誰からも信用されない云々。
聞いているうちに眞箏の膨らんだ希望がしぼんでいった。
「とにかく、駅前からは離れてくれないかな」
夕方になった。眞箏は仕方なく、ガス灯が連なる繁華街を歩きながら笛を吹いた。その音は店の売り子の声、人力車の車輪がきしむ音、料亭の酔客の怒声といった都会の喧騒の中に掻き消えていった。彼女は人混みと騒音から逃れようと道路の真ん中に出た。
地面が揺れ、何やらけたたましい音が背後から近づいてきた。
「きゃあ!」
眞箏は慌てて迫りくる鉄の塊から逃れた。それは路傍で停まり、多くの乗客を吐き出しては飲み込んだ。
路面電車が去り、停留所には彼女一人だけ取り残された。気を取り直し歩き出すと違和感があった。
「あれ、あれ?」
帯に下げていた巾着袋が消えていた。あれには全財産が入っていたのに。眞箏は来た道を戻って懸命に探した。
「だれか、私の落とし物を知りませんか?」
失笑する人々。彼女は誰も助けてくれないことを知った。
その日、彼女は初めて野宿した。繁華街の裏通りで、春の夜の寒さにこごえながら。ゴミの臭いをかぎ、ネズミがうごめく気配を感じながら。彼女と同じ浮浪者たちの視線に怯えながら。
建物に挟まれ細くなった空に日が昇った。空の青は村よりも薄かった。それでも眞箏は少しだけ元気を取り戻した。彼女は快活に笛を吹いた。六寸管の楽しげな音が裏通りの隅々まで広がっていった。
「ちょっとあんた朝っぱらからうるさいね」
料亭の裏口から若い女の人が目をこすって出てきた。
「あなたは?」
「それはこっちのセリフよ」
眞箏は丁寧に自己紹介し、無一文になり困っていると話した。
そこの料亭で働いているという女の人は、一目で眞箏が悪人でないことを理解した。
「あんた尺八が上手なのね」
「ありがとうございます。ただ、昨日から変な目で見られるんです」
「もともとは男の楽器だから。でも女が吹けばそれはそれで面白いんじゃないの」
「はぁ」
「珍しいものは忙しい都会より観光地のほうが喜ばれるわよ。私の友達が鯉泉ってとこの温泉宿で働いてるんだけど、そこならば座敷で演奏してお金を稼げるはず。良かったら紹介状を書いてあげるよ」
「お願いします」
眞箏はそれを風呂敷の中に大切にしまい、女の人に礼を言って表通りに出た。
首都にも親切な人はいた。あとは鯉泉に行くための運賃と当面の生活費を稼がなければ。
彼女は街を歩き、公園を見つけた。そこで噴水というものを目にした。水しぶきが広がり小さな虹が浮かび上がっている。周りでは子供が駆け回り、その親や祖父母が横長の椅子に座り、穏やかに談笑している。
眞箏は彼らにお辞儀し、断ってから心乃調を吹いた。大人も子供も拍手してくれたが、どこか物足りなさそうだった。
あるおばあさんは、「聞いたことのない曲だから上手かどうかよく分からないね」と言った。「あんた、流行歌は吹けないのかい」
「はやりうた? それってどんなのですか」
おばあさんはそれを歌ってみせた。人々が拍手するほど上手だった。
「分かりました。吹いてみます」
眞箏は音感が強く、そのまま真似て吹くことができた。おばあさんの歌声で曲想もよくつかめたので、初めてとは思えないほど巧みに感情を表現した。聴衆がどよめいた。
「あんたすごいのねえ。次はこんな歌どうかしら」
彼女は次々と首都の流行歌を覚え、吹きこなした。子供は盛んにはやし、大人は舌を巻いて驚いた。
「ところであんた、どうしてこんなとこで笛を吹いてるんだい?」
「あぁそうだった」と彼女は言い、懐から小さな鉢を取り出し足元に置いた。
それから同じ公園で数日働いた。午前はそこで施しを受け、午後は首都を歩き回り見聞を広めた。路面電車にも思い切って乗ってみた。車内は揺れ、騒音がすごく、落ち着かなかった。目まぐるしく変わる窓外の景色に彼女の気を引くものはなかった。
首都にもはや未練はなく、列車で麓の町に戻った。町は初めて来た時よりちっぽけに見えた。彼女は首都から来た遊山客の流れに乗り川沿いに歩いていった。あの村がある山から目をそらして。
眞箏は港で鯉泉行きの汽船に乗った。船内は普通の家よりも広かった。乗客はみな余裕ある表情をしていた。弁当を使う人、昼からお酒を飲む人、船に喜びはしゃぐ子供。彼女は久々に心が休まった。甲板に出て、海の匂いをかぎ、巻く渦と立つ波を眺めながらムラ息を出した。
汽笛がポーと鳴った。遠くに鯉泉の全貌が見えてきた。
西の男山が海までせり出し崖になっている。崖と海岸沿いには太く力強い松が生える。入り江が白い砂浜と共に滑らかな曲線を描く。浜の港から東の女山の神社に向かい温泉街が伸びる。その両側には歴史ある趣深い宿が連なり、男山と女山の間から差す日を浴び、一面にぼんやりと湯けむりが立ち昇っている。温泉街の大通りから離れた所には瓦葺きの人家が点々とし、田畑が整然と広がる。暮らしと観光が調和した景観に見る者の心が和む。
眞箏は他の乗客と共に船を降りた。まずは紹介状にある宿を探さなければ。
目をつぶると鯉泉と首都の違いが分かりやすい。ここでは磯の香りに温泉の匂いが混ざる。水路を流れる温泉水で気温と湿度が上がり、頬をなでる風が柔らかくなる。さらに潮騒、蒸気機関の特徴的な音、旅人の浮かれた声、彼らをもてなす三味線の音色が溶け合い、鯉泉という海と山の温泉街にしかない非日常的な雰囲気を醸し出す。
鯉泉で最も古い温泉宿「鯉の湯」はすぐに見つかった。ちょうど客の出入りが激しい時間帯で、眞箏は遠慮して裏口に回った。裏では女中たちが洗濯物を取り込んでいるところだった。彼女は女中たちの働きぶりを監督している年配の女に声をかけた。
「それで、どんな仕事を希望しているの?」
「私は笛を吹きたいんです」
「辛い水仕事や力仕事をやりたくないからって芸に逃げる子が多くてね。ただし、本当に才能がある人はほんの一握りよ」
眞箏は女中頭に促されるまでもなく吹き始めた。覚えたての流行歌に心乃調を応用し疾走感を出した。女中たちは自ずと手を早く動かすようになった。
「あんた面白いのねえ。さっそく今夜のお座敷に出てみなさい」
彼女はその日から住み込みで働くようになった。朝は広い一室で三味線、箏、尺八による三曲合奏の稽古をし、午後はさらに花形の舞手と合わせて練習し、夜は座敷に出る。客はだいたい酔っている。酒で上機嫌になった人はおひねりを出し、嫌なことを思い出した人は悪態をつき、羽目を外した人は演奏などに耳を傾けず大騒ぎする。例外なく、誰もが舞手と演奏者にちょっかいを出す。
「おっ、新しい子だね。かわいいな」
「お嬢ちゃん、いくつ? 十四か」
「酌をしてくれよ」
仕方なく客の隣に座り酒をつぐ。客も彼女に飲ませようとする。断ると客が荒れる。女将が自ら謝りに来る。
「よくあることだから気にしないで」
昼休みは自由に外を散策できた。平野部の桜の花が散り始めた。朝もそれほど冷えず、昼過ぎは窓を開け放てるほどの陽気だった。
眞箏は他の参拝客に混ざり女山の神社を訪れた。塗り直したばかりの赤がまぶしい橋と鳥居、金の装飾が華美な表門、高く威圧的な仁王像、十二支の彫刻が施された五重塔、掃き清められた参道と黒々とした瓦が厳かな本殿。銭を賽銭箱に投げ入れ鈴を鳴らす音が後を絶たない。眞箏は、ここならば托鉢や人助けだけでも身を立てられるのではと感じた。
花見の季節が終わり、町全体が落ち着いてきた。女将は眞箏を自分の部屋に呼びつけ、これまでの給金を手渡し、申し訳なさそうに「また忙しい時に働きに来てね」と言った。眞箏はここが潮時だと思った。
「たいへんお世話になりました」
宿を出た時はもう夕方前だった。すぐに住む場所を探さなければ。
ひとまず温泉街を歩いた。旅館の使用人が玄関先で箒を使う音が聞こえる。夕の散歩に出てきた老夫婦の下駄がカランコロンと響く。トンビが茜空に円を描きつつ「ピーヒョロロ」とのどかに鳴く。
眞箏は温泉街からやや離れた所の道端に掲示板を見つけた。求人情報は少なく、物件の賃貸や販売の広告ばかりだ。どれも首都の富裕層向けで、その値は桁を間違えたのではと疑うほど高かった。
しかし行く宛はあった。彼女は女山から下りてきた人たちとすれ違い、神社に通じる石段を上る。前回来た時、彼女は山腹の洞穴に目を留めていた。石段から外れ、ぬかるんだ土を踏みつつ、近くに見えて意外と遠い穴を目指す。やっとそこにたどり着いた時には草履が泥だらけになっていた。
彼女は火打ち石を使った。暗い穴の中がぱっと明るくなった。洞穴は浅く、他に動物もいなかった。中にいれば雨風をしのげる。彼女は満足し、女将にもらった竹皮で包んだおにぎりと漬物を食べた。
腹が満ちても眠気はなかった。眞箏は洞穴の外に出て、一人静かに月を伴に笛を吹いた。街は灯りが消え薄闇に包まれている。浜に黒い波が押し寄せる。頭上で星々が大きくゆっくり弧を描く。目をつぶり、時を忘れ、三昧境に入る。
翌日は朝から温泉街で托鉢をした。どの店先に立っても嫌がられた。
「そんなとこで笛なんか吹かれちゃ困るよ」
「営業妨害だ」
「見世物はよそでやっとくれ」
眞箏は昨日見た掲示板の隣に立った。木陰でじめじめし、通行人が少なく寂しい場所だった。おまけに雨まで降り出した。雨は葉っぱをつたい、まとまって彼女のうなじに流れ落ちた。
たまに傘を差した遊山客が通っても彼女に見向きもしなかった。首都にいる人は自分の仕事に忙しく、鯉泉に来た人はひたすら自分の快楽を求める。
彼女は尺八を帯に戻し、濡れた石に座り休憩した。
午後は雨が上がった。日差しが土を温めた。昨夜一睡もしなかった眞箏はさすがに眠くなってきた。彼女はうつらうつらしながら掲示板の前に立つ二人の様子をうかがった。中年の夫婦だ。旦那さんは刷毛で板に糊を塗り、奥さんはそこに紙を貼る。ただの広告ではなさそうだ。
彼女は掲示板の前に回り込んだ。「尋ね人」という文字の下には猫の似顔絵がある。五歳ぐらいの三毛猫で、名前は「ミケちゃん」。目印になる首輪をつけている。
「あんたこの子を見なかったかい」と、奥さんが眞箏に聞いた。
「い、いえ」
夫婦は彼女がよそ者であることに気づいた。
「そうかい。もし見かけたら教えてくれ。紙に住所が書いてあるから」と旦那さんが言った。
眞箏はそそくさと立ち去ろうとする夫婦の背中に、「たぶんお力になれると思います」と声をかけた。
「本当かい?」
「ええ。言っても信じてもらえないとは思いますが……」
笛で猫を探せる? 夫婦は半信半疑だ。
「ミケちゃんがいそうなところに連れて行ってください」
三人はまず横丁に入った。土産屋や旅館が並ぶきらびやかな温泉街とは裏腹に、地元観光業を裏から支える人々が暮らす横丁は薄暗く、風通しも悪かった。夫婦もここの長屋を借りているという。旦那さんは人力車を引き、奥さんはやはり宿の女中をしている。
「ミケちゃんは私たちの子供代わりなの」
うら寂しい横丁に尺八の音が響き渡る。獣乃調だ。動物にとっては心騒ぐ音色のようで、あちこちから「アオーン」「ウアーン」と猫の鳴き声が聞こえる。
「ミケの声じゃないな」
鳴き声がどんどん近づいてきた。塀、桶、植木、軒先、屋根の上などに野良猫が集まった。演奏を聞いているうちに立っていた尾が下がり、張り詰めていた背中が丸まり、眼光が柔和になった。眞箏は音に抑揚をつけ、語りかけるように吹いた。猫たちは合図を受けたように一斉に散らばった。
「探してきてくれるそうです。ちょっと待つかもしれませんが」
「そうかい。だったらうちに上がりな、茶ぐらい出すよ」
粗末な家で、土間と六畳の部屋が一つあるだけだった。この狭さに親子孫の三世代で暮らす人もいるという。
「はいどうぞ」
眞箏は畳に腰掛けながら茶を飲んだ。夫婦はどちらも心配そうな顔をしている。
「仕事は大丈夫なんですか」
「今はお客さんが少ないからね」
「春は花見、夏は海水浴、秋は紅葉、冬は温泉で町が賑わう。その季節のはざまに中休みできるってわけだ」
ガリッ、ガリッ。奥さんはすぐに立ち上がり窓を開けた。首輪をつけた、毛並みのいい三毛猫がぴょんと畳に飛び降り、眞箏の膝の上にのった。
「帰ってきたな」
「よその人になつくなんて珍しい」
安心した奥さんは味噌汁を温めなおし、ねこまんまを作った。猫は鼻をひくひくさせ、ちょうどいいぬるさのそれを一心不乱に食べ始めた。
「かわいそうに」
「よっぽどお腹が空いていたのね」
我慢できず、眞箏のお腹がグーッと鳴った。夫婦は顔を見合わせ、大笑いした。彼女も笑った。なぜか泣けてきた。
「そういえばお礼がまだだったわね」
「できれば私も同じものを食べたいんですが」
「そんなのでいいのかい?」
「はい。旅人にとって一宿一飯の恩は何ものにも代えがたいほど貴重です」
もちろんねこまんまを出すわけがなかった。旦那さんが魚を買いに行き、その間に奥さんが料理をした。
温泉宿の賄い飯と比べても粗末な食事だったが、眞箏は旅に出てから初めて心安らかに、美味しく味わうことができた。奥さんと旦那さんは祝い酒を飲み、代わる代わるミケを抱いた。夫婦は子供がいれば同じぐらい大きくなっていただろう眞箏との会話を喜んだ。
「まだ小さいのに人のために働こうと旅立つなんて偉いわ」
「まったくだ。近ごろはみんな自分のことしか考えないからな」
布団は二枚しかなかった。
「私は野宿に慣れていますから。屋根の下で眠れるだけでもありがたいです」
旦那さんは布団を眞箏に押し付け、自分は猫を抱き隅の方で丸くなった。それだけで十分温かだった。
「春だ。春はいいなぁ」
朝はすっきり晴れた。眞箏は誰よりも早起きし、そっと家を出ようとしたが、ミケに気づかれた。
旦那さんが目を覚まし、「朝ごはんぐらい食べていきな」と言った。
「は、はい」
奥さんは朝食を作るついでに梅干し入りの大きなおにぎりをこしらえた。
三人と一匹は畳の上で食事をした。昨日より言葉数が少なかった。横丁全体が静まり返っている。
「さて、これからどうするの?」
「とりあえず山の洞穴で寝泊まりしながら働きます」
「いつまでも野宿ってわけにはいかないだろう。そうだ、あの物置なら使ってもいいかもしれん」
「そうね。家主さんに相談してみたら?」
長屋には共用の物置小屋があり、ふだん使わないものが入っている。すこし片付ければ人が眠れるぐらいの場所はあるという。
家主の男性は温泉街で呉服屋を営んでいた。羽振りの良さそうな客には揉み手をし、長屋の住民には冷たい顔をする人だった。
「あんな物置小屋だけどタダで貸すってわけにはいかないね」
「もちろんです。長屋のために、町のために働かせてください」
家主も耳が早く、彼女が猫探しに成功したことを知っていた。
「動物を自由に操れるのかい?」
「自由とまではいきませんが、村ではよく害獣除けに笛を吹いていました」
「実は鯉泉で狂犬病が流行っていてね」
つい先週も町外れで遊山客が一人噛み殺されたばかりだった。それが新聞にのったこともあり、最近は例年より客が減っているという。
「かわいそうだが、若い衆を集めて撲殺することにしたんだ。ところが捕まえようとすると逆に見つからないし、それに危険だろう」
眞箏は気が進まなかったが、人の被害をこれ以上出すわけにもいかないので、渋々手伝うことにした。
「いつから始められる?」
「今夜からでも」
家主はすぐ町の役所にお触れを出させた。狂犬駆除期間中は関係者以外、夜間外出禁止。手伝える男は役所前広場に来ること。
その夜、十人ほどの男性が広場に集まった。
「で、どうするんだい?」と、ミケを飼っている旦那さんが聞いた。
「私が一人で笛を吹きながら山を歩き、ここまで連れてきます」
「かなり歩くことになりそうだけど」
「慣れてますから。みなさんは一旦解散して、私の笛の音が聞こえたらまた来てください」
彼女はそう言い残し、本当に一人で町を出ていった。
「大丈夫かな」
「危なくないか」
「まだ幼い女の子、それもよそ者に任せてしまって悪いな」
彼女は女山を歩くことにした。日中なら参拝客で賑わう石段を上る。
月が高く冷たい夜だった。神社は本来あるべき静けさを取り戻した。鳥居は濃い血のような光沢を帯びている。表門前は月明かりの反射で神々しい光に包まれている。眞箏は誰も外に出ていないことを確認してから境内を去り、仮の宿りの洞穴がある方に向かいつつ、帯から六寸管を抜いた。
獣乃調。甲音を途切れることなく長く鳴らすことでオオカミの遠吠えに似せる。次に乙音に切り替え、腹と首の動きで「オウオウ」と抑揚をつける。寂しく哀しげで、季節が冬に逆戻りしそうだった。
ウォォーン。山奥に響く犬の声。それに別の犬の遠吠えが続く。徐々に連なり、重なり、山と谷のような起伏をつくりつつ、眞箏が立つ山腹に迫る。
集まったのはどれも狂犬だった。二十匹近くいるだろうか。目が異様にギラつき、よだれを垂らし、落ち着きなく呼吸をしている。眞箏は恐怖で胸が苦しく息切れしそうだった。指も小刻みに震え、孔をしっかり塞げず、音が途切れそうになった。犬たちは吠えるのをやめ、音源の尺八を不審そうに眺めている。
眞箏は目をつぶった。まぶたの裏に村の人々の姿が浮かび上がる。母、富子、正造、亡くなった大叔父。まだ何も成し遂げていないのに死んでしまえば、あの世で大叔父に叱られることだろう。
「心を澄まし、ただ天地の広さを知る」
眞箏はふっと浮かび上がった。温かい水のようなものに包まれ、外の音が聞こえなくなり、時の流れが遅くなった。彼女は宙吊りになりながら笛に口をつけた。自分が出す音だけはよく聞こえた。吹きながら古のオオカミの心に寄り添った。次第に自分が誰か分からなくなっていった。
「笛の音が近づいてくるぞ」
男たちは再び役所前に集合していた。眠りながら歩く眞箏を先頭に、犬の遠吠えと足音が一列になり広場に入ってきた。男たちは網で犬を動けなくしてから棍棒を振るった。犬たちが夢から覚めることはなかった。
眞箏は窓から差す朝日、スズメの鳴き声、ミケのざらつく舌で目を覚ました。
「ここは、私は……」
「まだ寝ているといい。昨夜は疲れただろうからな」と旦那さんが言った。
しかし眞箏はもう眠くなかった。むしろ頭がすっきりしていた。
「あの犬たちは?」
「処分したよ」
彼女は布団にくるまりながら泣いた。
「いやあ昨夜は大活躍だったそうだね」
朝の食事中、家主が自ら訪ねてきた。眞箏は満面の笑みを浮かべる彼から目をそらした。
「物置小屋なんかでよかったら好きに使ってくれ」
眞箏はお世話になった夫婦に礼を言ってから家を出た。物置小屋はその長屋の端にあり、遠くなかった。戸を引くと、長く使われていない農具や、雪かきに使う道具などが入っていた。床はなく、地面がむき出しだ。こんな小屋でも初めて自分の力で得た居場所だから愛着が湧いてきた。
落ち着く間もなく、長屋の住民たちが手伝いに来た。彼らは自分たちの道具を運び出して小屋を広くした。さらに使わなくなった家具や食器を持ち込んだ。戸板の上に畳を敷けば立派な床になった。彼女が最も嬉しかったのは便利な七輪だ。
「町を守ってくれてありがとう。何か困ったことがあったら遠慮なく言っておくれ」
親切なおばさんが横丁を案内してくれた。長屋の間に挟まれた広場には井戸があり、水を汲みに来た人たちが言葉を交わす。年寄りは広場の腰掛けに座り日向ぼっこをしながら将棋を指す。長屋から少し離れた掘っ立て小屋では雑貨の他に一文菓子が売られている。子供たちが店先に集まり、地面に落書きをし、コマを回し、メンコを叩きつける。観光地の裏側には山の村と同じ、人々の暮らしの息吹があった。
「失礼だけど、だいぶ服と体が汚いようだね」
「皆さんはどうしてるんですか」
「川に水路から温泉が注ぐんだけど、そこで洗濯すれば冬でも温かいよ。体は銭湯で洗うといい。遊山客が入るような大層なものじゃないけど、町の住民ならば格安だからね」
「私は?」
「もちろん住民扱いさ。入ってらっしゃい。さっぱりするよ」
眞箏は初めて朝風呂というものに入った。古い建物で壁の所々にカビもあるが、浴槽は清潔で、何より湯量が豊富だ。夏は川で体を洗ったことにし、冬は寒い思いをしながら少ないお湯で体を拭く。そんな山育ちの彼女には鯉泉の銭湯がこの上なく贅沢に思えた。
彼女が上がると、さっきのおばさんが小さめの着物を持ち更衣室で待っていた。
「うちの娘がむかし着てたものだけど、大きさはちょうどいいかしら」
「ぴったりです。あの、お代は……」
「水臭いこと言わない。困っている人を助けるのは当然よ」
眞箏は桜色の服を着て外に出た。垢を落とした肌に洗いたての生地が心地よい。春の風が吹き、歩いているうちに濡れた髪が自然と乾く。白い頬には花のように鮮やかな赤みがさしている。すっかり身も心も軽くなった。
「さぁ、本格的に仕事を始めるわよ」




