大叔父の死と旅立ち
眞箏と富子は六年生になった。正造がいなくなったので、二人きりで帰ることが多かった。
正造はさっそく春の田植えに駆り出された。小学生たちが登校するより先に棚田に立ち、父と母にならって腰を曲げ、苗を植え付ける。同じようにやっているはずなのに彼の列だけは左右に曲がり、苗の間隔も一定しない。
午前の作業が終わった時点で彼の腰は悲鳴を上げた。
「父ちゃん、おれもうダメだ」
「若いのにだらしない」
午後は少しだけ慣れ、きれいに植えられるようになった。振り返ると土に根ざしたばかりの苗が風にそよぎ、サワサワとかすかな音をたてている。正造には自分の子供のように愛しく見えた。
「よぅし、ちょっと休憩しよう」
父は煙管を吹かし、母は歌を口ずさむ。正造は労働による心地よい倦怠感に浸る。
「正ちゃん!」
眞箏と富子が上の方のあぜ道から正造に声をかけた。彼は母に目を向け、母は父に目を向ける。父はやれやれとため息をつき、「行って来い」と言った。
さっきまでの疲れが吹き飛び、正造はあぜ道を駆け上がった。
「今日の仕事はもういいの?」
「本当はまずいんだけど、父ちゃんが許してくれた。代わりに今夜のおかずを釣りに行こうぜ」
三人は森に入った。富子は歩きながら目ざとく春の山菜を見つけた。どれも苦いが、大人たちにとってはこの季節の美味だ。
「うどは酢の物に、ふきのとうは和え物に、わらびは煮物に、たらの芽はおひたしになるのよ」
「料理のことは富子が一番くわしいな」
「野菜もいいけどお魚を釣りましょうよ」
彼らは渓流の大きな岩に並んで座り、川に針を垂らした。少し離れていただけなのに積もる話があった。今もこうして三人で集まれることが嬉しかった。
「話に夢中になって忘れてたけど、魚ぜんぜん釣れないわね」
「本当だ。なぁ眞箏、笛で魚をおびき寄せられないのか?」
「そういうのってたぶん良くないと思う。自然の調和を乱しちゃうから」
「まだ修行が足りないだけだろ」
「そんなことないわよ。あっ、ほら富ちゃんのにかかったわ!」
眞箏と富子は正造に魚と山菜を持たせた。彼も遠慮しなかった。村人の暮らしは持ちつ持たれつで成り立っていた。
女の子二人は箏の稽古に間に合うよう眞箏の家に帰った。
眞箏は最近、箏との合奏に励んでいた。心乃調を習い、音楽による表現が面白くなってきたところだ。富子は稽古が終わった後も彼女に付き合った。
「眞箏ちゃんと一緒だと、いつもより上手に弾ける気がするの」
「私も。私の尺八より富ちゃんの箏のほうがずっと上手だから頼りになるわ」
「そんな大げさよ」
眞箏は村のどこに行っても重宝された。彼女の笛の音を聞けば、怒っている人はやさしい気持ちになり、悲しんでいる人は慰められ、自信のない人は勇気づけられ、酔っぱらいはおとなしく眠った。喧嘩や争い事が減った。
あの福助でさえ悪さをせず、農作業に勤しむようになった。道で眞箏とすれ違う時には必ずお辞儀するほどだった。
「ハチの件で懲りたのかもな」
「働くようになって落ち着いたんでしょう」
「私にはそう見えないわ」
「富ちゃん、それどういうこと?」
「照れ笑いして顔が赤くなっていた。きっと眞箏ちゃんのことが好きなのよ」
「ハハッ、さっきのバカ面はそういうことか」
実際に彼女に好意を寄せる人は少なくなかった。しかし彼女自身はまだ恋の季節を迎えていなかった。だから学校の男友達とも分け隔てなく付き合うことができた。
春は野原で花と戯れ、夏は川で魚と泳ぎ、秋は山で虫と歌う。学校では大いに学び、読み書き算盤を身に着けた。楽しく充実した時はあっという間に過ぎ、今年も長い冬が来た。
眞箏と富子は互いに家を訪れた。富子の家では編み物をしながら話をし、眞箏の家では合奏をしながら心で対話をした。
ある日、眞箏は富子が箏の演奏に集中できず、しばしば手を休めることに気づいた。
「なにか心配事でもあるの?」
「ええ。実は今、私の家に幸作くんのお父さんとお母さんが来ているんだけど……」
「幸作くんの? どうして」
「私との婚約のためだと思う。ほら、幸作くんは体が弱いでしょう。彼のお母さん、働き者の奥さんがほしいって前も言ってたから」
「良かったじゃない。あなたたちお似合いよ」
幸作は村一番の秀才で、将来を嘱望されていた。家も裕福なため、卒業後は町の学校に進学することになっている。外で変な女に惑わされる前に身を固めさせたいという親心だろう。
「じゃあ数年後には富ちゃんも山を下りるのね」
「分からない。幸作くんが村に戻って来るかもしれないし」
「とにかくおめでとう」
「ありがとう」
二人は合奏を再開した。眞箏がどんなに明るく賑やかに笛を鳴らしても、富子の心が浮き立つことはなかった。
「なんというかこう、あっさり大人になっちゃうのね」
「本当に」
子供の成長は早い。大叔父は眞箏のために次の曲を教えることにした。
「獣乃調では今まで使わなかったムラ息が入る。先にその練習からじゃな」
大叔父の八寸管は大迫力の雑音を出した。山の主が力を誇り砂嵐を起こしているようだった。
「すごい! どうやったのそれ?」
今までとはまったく異なる息の使い方をし、しかも大叔父の説明も感覚頼みなので、聞いても今ひとつ理解できなかった。眞箏のムラ息はスカスカでほとんど音にならなかった。
「口の中を狭くし、息を歯の裏に当て乱気流を起こし……」
説明と実践を繰り返すうちに、眞箏もなんとなくコツがつかめてきた。普段よりも太く乱れた息を音の出るポイントにどすんと当てられるようになった。
「それでは改めて獣乃調を教えよう」
これも虫乃調と同じで、野生動物の声を模した曲だが、指使いより息遣いが難しい。乙音をムラ息で吹けば熊やイノシシの唸り声に、甲音を高くかすれさせれば猛禽類の鳴き声になる。
眞箏は大叔父の真似をするも、すぐに息切れした。
「今までは口先だけで吹いていたが、これからは全身の使い方を覚えなければならない。そのためには長管で音を伸ばす練習をするんだ」
大叔父は蔵から古い二尺三寸管を取り出した。小柄な眞箏には長すぎ、持って構えるだけでも一苦労だった。指を目一杯開いても指孔に届かず、指孔も大きすぎて塞げなかった。
「下管を片手でつかみながら、孔を一つも塞がず吹いてみなさい」
眞箏は少しずつ長管に慣れていった。孔に布を詰めることで高い音から低い音へと練習した。ついに五孔すべてを塞ぐ「ロ」の音を満足に出せるようになった。
「そこでいつもの一尺三寸管に持ち替えてごらん。長管を吹く意識でな」
前より少ない息でも音が十分に鳴った。ムラ息も大きく、力強くなった。
眞箏は冬の間にずっと長管を吹く地味な練習を続け、体全体で吹く感覚を徹底的に叩き込んだ。そのせいか、やや落ち着きがなかった彼女も集中力が増し、富子と編み物をしていても時間がたつのが早くなった。
「やっとおじいちゃんの腹巻きとお母さんの手袋が完成したわ」
春が来て、眞箏たちも卒業の日を迎えた。彼女は卒業生を代表し、先生方や在校生に感謝の曲を捧げた。去年と同じような宴会が開かれた。
「お前たちも今日から大人の仲間入りか」と、正造が先輩風を吹かせて言った。
その翌日のこと。富子はつい習慣で早起きし、学校に行く支度を始めた。父も母もくすくす笑った。
「あっ、そうだった……」
ゆっくり朝食を取り、食器を洗っても、時間は潰れなかった。川の向こうの学校からは子供たちの笑い声が聞こえる。
父も母も縁側に座りのんびり茶を飲んでいる。春の陽気を浴びる木の板はほんのり温かい。梢にとまったウグイスの幼鳥が「キッキョケッキョ」とさえずる。
「私が学校に行っている間、こんな静かな時間が流れていたのね」
彼女は父の隣に腰を下ろした。まだ野良仕事に出る様子はない。
富子も何も聞かず外の景色を眺める。遠く高くそびえる雪をかぶった連山、菜の花の黄色い絨毯に囲まれ咲き誇る枝垂れ桜、作物を植えたばかりの畑の中に点々とする茅葺き屋根の家。村の春はかくも彩り豊かだった。
ふと、富子は坂を上ってくる三人の姿に目を留めた。
「おいでになったな」
父も母も急に堅苦しい顔になった。富子は、まだ点にしか見えない三人が誰かを察した。
「ほら、幸作くんにごあいさつしなさい」と、母が富子に促した。
子供が学校に通い、大人が働き、富子が花嫁修業をする間、眞箏はじっくり尺八を練習することができた。管も体も冷える冬と違い、暖かい晩春は音が面白いほどよく鳴った。
彼女があぜ道で笛を吹いていると、農家のおばあさんから声をかけられた。
「本当にお父さんによく似てきたね。お父さんも小さいころはよく笛を吹きながら村中を回ったものだよ」
山のシカは田植え後の若い稲を好んで食する。イノシシは秋の熟した穂を狙う。
「どっちもオオカミが天敵なんだけど、最近はめっきり見なくなってね。お父さんは尺八でオオカミの声をまねて獣を追い払ってくれたのよ」
父にできたならば眞箏にできないはずがない。彼女は大叔父に吹き方を教えてもらった。
「今の子はオオカミの鳴き声も知らんのか。こうして技術は失われていくんじゃな」
天気が良い日はほぼ毎日、村の畑や棚田をめぐった。彼女が来ると農家は喜び、珍しい茶菓子や漬物などでもてなしてくれた。それを食べ終えると眞箏は一尺三寸管で、オオカミの甲高い遠吠えを吹いた。春の陽気に似合わぬ、ぞっと身の毛がよだつ音が村の方々で鳴り響いた。害獣は恐れをなし山奥に引っ込んだ。
「眞箏がいてくれるから、おれたちも安心して働けるよ」と正造が言った。
眞箏、正造、富子はなかなか三人一緒になれなかった。みな自分の仕事や目標があった。あの学び舎で共に過ごしたひとときが尊く感じられた。
春が過ぎ、雨が続いた。この季節は外で遊べず、洗濯物が乾きにくく、畑仕事もできないので、誰もがゆううつだった。少しの間だけ雨が上がると、村人たちは慌てて外での用事を済ませた。
富子は着物の裾を濡らしながら野花を摘み、四つ辻の地蔵堂にお供えをした。しばし手を合わせて祈りを捧げる。下校前の学校の喧騒と笛の音が聞こえる。
「富ちゃん」
「眞箏ちゃん、それに正ちゃんまで」
「田んぼの様子を見に行ったら眞箏とばったり会って」
三人は立ち話をした。正造は父の仕事のほとんどを手伝えるようになった。富子のもとには時々、町の幸作から手紙が届いた。
「元気でやっているみたい」
「ずっと聞いてみたかったんだけど、富子は幸作のことをどう思ってるんだ」
「どうって?」
「好きなのかってことよ」
「やさしくていい人で、頭も良くて頼りになるけど、正直よく分からないの。ただ向こうが気に入ってくれたんだから断る理由もないと思って」
「好きな人が自然にできるまで待っても良かったんじゃないか」
「そうよ。私たちなんて実際はまだ子供なんだし」
「私だって、何もせずただ食べては寝てを繰り返していられなかったのよ」
また雨が少しだけ降り出した。風はない。
「なぁ、久しぶりに秘密の場所に行こうぜ」
三人は正造を先頭に林の中に入った。ヤマモモは今年も実っていた。熟しすぎ、辺りに落ちて腐り、甘い匂いを漂わせていた。
「誰も取らないからこんなになって」
「なんか見ていてかわいそうだ」
「たくさん食べていきましょう」
噛むと甘く酸っぱい果汁がじゅわっと溢れ出した。それなのにあの日ほど美味しく感じられない。いくつか食べただけでお腹いっぱいになってしまった。
「まだこんなに余っているわ」
「もったいないな」
下校時間になった。子供たちが学校のある丘から下りてきた。男一人女二人の仲良し三人組が地蔵堂の裏から下り、藪をかき分けつつ林に近づいてきた。
「おい、ちょっと隠れようぜ」
彼らは太い木の裏に身を隠した。
「ヤマモモだ!」
小学生たちはお宝の山を見つけたかのように大喜びし、手を伸ばして食べ始めた。
「今日からここは私たちだけの秘密の場所よ」
「毎年ここに来て一緒に食べようね」
正造、富子、眞箏は顔を見合わせて笑い、そっと立ち去った。
次の日はすっきり晴れて暑くなった。本格的な夏の到来だ。朝早くからセミがやかましく鳴いた。村人たちは早めに目を覚ました。
大叔父は最近、駆け足で眞箏に新しい曲を教えていた。どれもこれまで以上に高度な内容で、暗譜できたとしても一朝一夕で身につくものではなかった。大叔父は譜面にはない微妙なコツと心得を口で伝えた。
「お前も大きくなってきたから、そろそろ六寸管と八寸管を預けてもいいだろう」
大叔父は奥の間の台座に掛けておいた二本の笛を渡した。とても古く、何度も補修した跡があり、蝶の彫刻が施されている。
「今のお前と同じく、男の後継者が絶え、やむなく尺八を覚えた女の先祖がいたようじゃ」
どちらも眞箏の手によく馴染んだ。特に六寸管は今の彼女の手ならば扱える長さで、甲音と乙音がバランスよく響き、三寸管より音に厚みと深みがあった。彼女はたちまち新しい笛が好きになった。
眞箏はその日の午後、涼しい竹林に入り、習ったばかりの「天乃調」を吹いた。単調な曲だが五感が研ぎ澄まされた。一時間ほど無心で吹き続けると笛の音色が変わった。騒々しく、不安を覚えるような。
竹林が暗くなり、ひやりとした風が吹き込んだ。
「夕立が来るわね」
彼女は雨が降る前に洗濯物を取り込みながら、父の死を知ったあの日を思い出した。
翌日は朝早くから家族三人で墓参りの準備をした。母は父が生前好きだった団子を作り、大叔父は知人の家に酒をもらいに行った。雲一つないカンカン照りの日で、山道から陽炎が立ち昇っていた。
母がよく来るので、崖の墓は手入れが行き届いていた。墓石に刻まれた「風野家之墓」は血のように赤かった。竹筒には菊の花が挿されていた。
大叔父と母が合掌する間、眞箏は心乃調を吹いた。そうすることで父や先祖と心を通わせようとした。ところがどんなに訴えかけるように吹いても応えはなかった。涙を流したのは母だった。
「お父さん、眞箏はこんなに立派になりましたよ」
三人は家に戻った。急に暗くなったからか、大叔父が土間でよろめき尻もちをついた。
「おじいちゃん、だいじょうぶ?」
「し、心配ない」
眞箏は大叔父に肩を貸し、奥の間の布団に寝させた。外でヒグラシがカナカナと鳴いた。白い布団は海のようで、大叔父が息をすると波紋が広がった。それは徐々に少なく、浅くなっていった。夕日が部屋に降り注いだ。橙色の海は穏やかだった。
大叔父は大した苦しみもなくひっそりと息を引き取った。
四十九日が過ぎた。眞箏と母は大叔父の少ない遺品を整理した。
眞箏はしばしば墓参し、笛で大叔父を弔った。目をつぶると今もその声が耳に響いた。
厳しくてもやさしい人だった。上手に吹けなくても根気強く指導してくれた。めったに笑わなかったが、笑うと人懐っこい顔になった。亡くなるとその尊さが身に沁みた。家、村、笛、それに人生のことをもっともっと教わりたかった。
「これは今後あなたが管理しなさい」
眞箏は母から家と蔵の鍵を預かった。ずしりと重く、危うく落としてしまうところだった。表面はサビでざらついている。氷のように冷たい。
母と二人きりで食事するのに慣れたころ、眞箏はやっと蔵に入る気になった。彼女は薄暗い蔵の中で例の葛籠を見つけた。中には譜面がたくさん入っていた。曲名はどれも習ったことのある虫乃調などだが、中身はまったく違う曲で、しかも「上巻」と「下巻」に分かれていた。
他にも尺八が何本も見つかったが、顎あたりが彼女には大きすぎるものばかりだった。やはり選んでもらった尺八を使うことにした。
大叔父が亡くなって間もないが、眞箏は休んでばかりもいられなかった。秋の収穫が間近に迫り、毎日のように村の田畑を歩き回り、笛の音で害虫と害獣を追い払った。木の実、キノコ、山菜などを取る人と共に山に入り、ムラ息で熊をけん制した。もともと活発で運動好きの眞箏は、一日中吹き歩いても疲れない体力をつけた。
雪が降り、人々が家にこもるようになると、彼女はようやく一息ついた。あまり外に出ず、家で母の内職を手伝った。草履、竹籠、傘。母は何でも器用に作ることができた。
「お母さんが家にいてくれるから、お父さんも安心して旅ができたのね」
「これからはあなたも、ね」
「え……」
「そろそろ独り立ちする時よ。あなたの大切な力はもっと大きな場所で、多くの人のために使わないと。雪が溶けたら山を出なさい」
「お母さんを一人きりにはできないわ」
「村の人たちが親切にし、何かと助けてくれるから大丈夫よ。私よりもあなたのほうが心配ね。でも、ここであなたが学べることはもうない。広い世界で成長すべき時が来たのよ」
眞箏は奥の間で一人になった。冬は日が落ちるのが早く、もう暗くなってきた。彼女は行灯に火を入れ、蔵で新たに見つけた譜面を広げて練習した。独学では吹き方が分からず、感じをつかめなかった。彼女は心細くなってきた。
家でうつうつとしていても始まらない。眞箏は母からもらった笠をかぶり、蓑を羽織い、外の空気を吸った。
竹林は雪の反射光でほのかに明るかった。竹は艶っぽく、雪は滑らかだ。凍った石段を下りるとザクザクと爽快な音がする。頭上にのしかかる竹が消え、視界が開けた。
山道が凍てつき、村は外から完全に隔絶されていた。雪と氷が木を覆い、枝をしならせる。岩々は雪で丸みを帯び、雪だるまや地蔵がちょこんと座っているかのようだ。秋の稲刈りを終え裸になっていた棚田に氷が張り、日没前の冷たい光を反射し、薄く青みを帯びた段状の影を連ねる。民家の屋根からはつららが牙のように垂れ下がる。手の届かない所にしぶとく残っていた柿がぼとりと落ち、雪の大地に深い穴を穿つ。
眞箏は正造の家を訪ねた。彼は物置小屋で農具の手入れをしているところだった。
「おや、珍しいな」
「なんだか人恋しくなって」
「元気ないな。らしくないぞ」
「そうね」
正造は話しながらも黙々と作業を続けた。その手は小学生のころより力強く見えた。
「この春に村を出ることになったの」
「そうか、ついにか」
カラスも鳴かない外はいよいよ暗くなってきた。それでも正造は手を休めない。
「どこに行くにしても、手紙を書いてくれよ」
「分かってる」
「何かあったらすぐ飛んでいくから」
「ありがとう正ちゃん」
「村のことはおれたちに任せろ。いつでも帰れる故郷があることを忘れるな」
暗闇の中、眞箏がしゃくりあげる声が響いた。
その冬はひどく長く感じられた。眞箏は村に別れを告げるように毎日外を歩いた。寒さでかじかむ手で笛を吹いた。音は寂しくかすれ雪に沈んだ。それでも懸命に歩むと体が温まり、肌がむず痒くなった。また笛を吹くと甲音が小鳥の声のように響いた。その音に誘われるようにして、遠くから富子が歩いてきた。
「今から箏のお稽古に行くの」
眞箏は久々に富子や他の門下生と共に箏を弾いた。ずっと触れてさえいなかったのに、前より格段に上手になっていた。娘にひいきしない母も頷くほどに。
練習が終わった後も二人の少女は表座敷に残った。富子のとりとめのない話に胸がじんとした。
富子は村を出ることについて眞箏に何も尋ねなかった。
農家は種、苗、農具の準備をすっかり整え雪解けを待った。ところが春はなかなか訪れなかった。今にも雪が降り出しそうな曇り空が広がり、気温も上がらなかった。冬とは言えない、かといって決して春ではない、煮え切らない天気が続いた。
眞箏は崖の墓石の前に立ち、山の麓を眺めた。麓の農家はもう牛を使い春の田起こしを始めている。湿った土の匂いがここまで届きそうだ。山もさすがに春を迎えるべきではないか。
「おじいちゃん、行ってくるね」
彼女は天乃調を吹いた。生ぬるく湿った一陣の風が通り過ぎた。雲の間から太陽が顔を出し、笛に温かな日差しを注いだ。天気雨になった。山の木々が白くかすみ、村の家々がもやで覆われ、水墨画のような風景が広がった。雨宿り中のウグイスが鳴いた。その声は雨の幕を通すと甲高さが消え、耳に快く染み込んだ。背の高い草がざわめき、冬眠中のヘビが驚き目を覚まし、梅の花が咲いた。
眞箏は家に帰り荷造りをした。尺八は六寸管と八寸管を選んだ。今後役に立つかもしれないと思い、譜面を鉢とともに紫色の風呂敷で包んだ。その日暮らしの笛吹きに余計な荷物はいらなかった。
何も言わなくても母は赤飯を炊いてくれた。眞箏はありがたく一口ずつ噛み締めた。こうして燭台を挟んで母と向き合い、古い畳に座り夕飯を食べるのは最後になるかもしれない。
「そうそう、これを忘れず持っていきなさい」
水玉模様の巾着袋。ジャラジャラと音がする。
「だって、これは……」
「山とは違って町では何かとお金が入り用だから。遠慮なく取っておきなさい」
朝が来た。母はあえて軒先までしか見送らなかった。眞箏は振り向きたくなる気持ちを抑え、何度も上り下りしすり減った石段を下りた。かつての通学路を歩き、四つ辻を曲がり、村の入口に向かった。
「早かったじゃないか」
「お母さんとのお別れ、もういいの?」
正造と富子が牛車の荷台に乗り待っていた。
「二人とも……」
「麓まで送っていくぜ」
昨日までの寒さが嘘のような陽気だった。あちこちから水が滴り、まとまって流れた。牛はぬかるんだ山道をのろのろ下った。泥と糞は春の匂い。眞箏は、旅立ちの日とは思えない牧歌的な気分になった。
正造も富子も一路無言だった。三人は牛車に揺られ舟を漕いだ。
麓の小さな町に着いた。ここからは駅馬車か船を使える。馬車に乗ればより大きな町に行き、そこから列車に乗り首都に向かうことができる。船に乗れば川を下り海に出て、そのまま別の町に行ける。
「さて、最初の行き先が肝心だな」
「いきなり首都に行ったらびっくりしそうね」
「でも人が多い所のほうが仕事も多いだろう」
「眞箏ちゃん、どうする?」
彼女は道を行き交うさまざまな服装の人々を眺めていた。立派な着物やモダンな洋服を来た紳士淑女は馬車が出る駅へ。漁師や労働者風の人、それから首都方面から来た遊山客は川沿いへ。
「どうせ行くなら首都よ」
「そうか。じゃあここでお別れだな」
「村も寂しくなるわ」
富子は眞箏を抱き、泣いた。眞箏はなんとか涙をこらえた。
「湿っぽくならないで、笑って送り出してやろうぜ」
富子は眞箏から離れ、涙で濡れた顔をくしゃくしゃにして笑った。駅前の喧騒の最中、村の牛がモウと鳴いた。
眞箏は数え年で十四歳だった。




